『昔話は残酷か』 野村ヒロシ (まとめ1)

 

昔話は残酷か―グリム昔話をめぐって

昔話は残酷か―グリム昔話をめぐって

 

 

子どもたちが目や耳にする童話・昔話には、もとの形そのままではなく、子ども向きに再話されていることがよくある。大人が「残酷だから不適当」と考えて、一部の場面をもとの形と意識的に変えたり避けたりした再話になっているわけである。ちなみにこれは日本に限ったことではなく西欧諸国にも見られること。

たとえばグリム童話「赤ずきん」では、本来、おばあさんと赤ずきんは狼に食われたあと漁師に助け出され、その後、狼はお腹に石をつめられて死んでしまう。しかし現代の再話では、おばあさんも赤ずきんも食われず、狼も殺されないように書き換えたものがある。

「白雪姫」も、今ではたいていの本が姫と王子の結婚で終わっているが、その後、意地悪なお妃は罰されるのが本来の話。2人の結婚式で、お妃は炎で真っ赤に熱された鉄の靴を履かされ、踊り続けているうちに倒れて死んでしまうのだ。

かつての大戦後、西ドイツのジャーナリズムでは、アウシュビッツにおけるドイツ人の残酷性をグリム童話に結び付ける風潮があった。果たして、昔話の残酷な場面は、大人が心配するように、子どもの心に悪い影響を及ぼすのかどうか?


●文学の視点から

 昔話には「切る」「死ぬ」「殺す」などの事柄も出てくるが、それが「どのように」描かれるかによって与える印象は全く異なる。昔話においては「狼が赤ずきんをぱくりとのみこんだ」(白雪姫)、「狼は子ヤギをかたっぱしからまるのみにした」(狼と七匹の子ヤギ)とあるだけで、これらの表現は、聞いている者の心にその行為の生々しさを想像させない。むしろ、一種、非現実的な、機械的な動作を感じさせる(だから、のちに狼のお腹から無傷で助け出されても自然に感じる)。


近代の文学は一般に「人間の感覚」や「心の動き」を大事に描くが、昔話は話の「すじ」のみを大事にしているところがある。昔話を聞いている子どもたちの多くが「それから?」「それでどうなったの?」と尋ねるのもその証左で、子どもが何かの場面(たとえば、切るとか死ぬとか)に対して「どんなふうに?」と尋ねることは、まず、ない。


簡潔で抽象的な表現によって筋立てされる昔話においては、登場人物の内面すら、ある意味、話の筋を運んでいくための「記号」であって、それは深くは描かれない。また、昔話には、話を極端化し、鮮やかなコントラストを好むという特徴もある。良い者にはすばらしい結末が用意され、悪い者が受ける罰は容赦なく厳しいというのが昔話の常。中間やあいまいは、ない。

  

民俗学の視点から

 昔話で悪人が受ける罰にはむごいものが多い。たとえば「四つ裂き」や、「真っ赤に焼いた鉄の靴を履かせる」など。これらは空想の産物ではなく、むかし現実に行われていた罰であることがほとんど。「釘を打った樽に入れて転がす」という残虐な刑すら、「鉄の処女」と呼ばれる中世の拷問具と同じものである。


子どもが親にいじめられたり、親に捨てられるような昔話もずいぶんあるが、それは過去の現実ですらなく、現代の現実でも数多く存在する。抽象化・簡略化された表現で描かれる昔話の刑罰と、日々、詳細に生々しく伝えられる陰惨な事件や親による虐待のニュースと、どちらが本当にむごいものだろうか? 昔話が現実よりむごいことはない、と言えよう。

(つづく)