安藤美姫選手にモノ申してる人たちが怖い

安藤美姫の出産に関して、世間やマスコミがくちさがなく言いたて、書きたてるのは、ある意味しかたがないというか、ある程度の予想と覚悟のうえでのあのインタビューだったと思います。私、twitterではフィギュアスケートクラスタの人々も多くフォローしてるんで、いまだにTLが紛糾しておりますよ。

誰がどんな感想をもつことも止められないけどね。もちろん私もびっくりしたけど。

彼女の人生だし、彼女たち親子の人生ですからね。これからの喜びも悲しみも、結局、自分(たち)で引き受けていく(しかない)ことなので、それでいいんじゃないでしょうか。応援したい人は応援すればいいし、それ以外の人は、とりあえず口をつぐんでいるのが大人の態度だと思います。

とりあえず、と書いたのは、、このタイミングでの言動は、すべて出産後のナイーブな心身でやってるからです。ちょっと想像してみて。「アスリートだから、オリンピックシーズンだから」などを別にしても、産後1年くらいは、高揚も、不安も、まだまだピークの時期なんです。メンタリティっていうより、出産によるホルモンバランスの激変の問題だったりすることもあるんですから。

今、この段階で、彼女の言動を評価したり、弾劾したり、しないでほしいんです。今、言ってることとか、やってることとかで、あとで彼女自身が後悔することもあるかもしれないけど、世間からの反応によって、より傷ついたり後悔しないですめば、それにこしたことはないじゃないですか。

彼女とベビーの人生を祝福したいんです。誰だって、彼女やベビーを不幸にしたいわけじゃないですよね? だったら、ちょっと、気遣ってみてほしい。

特にtwitterとかfacebookとかは、隣近所で有名人の噂話をするのと同じような感覚かもしれないけど、意外と影響力があるっていうか、空気を、さらには言論を形成していく力が強いんで。本人のブログやアカウントやらにネガティブコメント書き込まなきゃいーじゃん、てわけじゃないと思うんですよね。そろそろ、そこまで、ITリテラシーの範囲に含めていいんじゃないかしら。

今回、安藤さんのインタビューと、それを何らかの理由で批判している人たちを見て、真っ先に思い浮かんだのは、シドニーオリンピックのあと、インタビュアー村上春樹有森裕子が語った言葉です(村上春樹シドニー!』所収)。

たとえば女子マラソンのランナーは、トップでやっていくためには男と付き合っては駄目といわれます。そういう相手がいると、選手はつらいことがあると、そこに逃げてしまうからです。追い込まれたときに、弱い部分をすぐに出せるような人がそばにいると、必ずそこに逃げ込みます。だから監督としては、なんとしても逃げ場を作らせないようにするんです。自分が100%、相手をコントロールできるようにしておきます。そのほうが効率がいいんです。


でも、それは本当に正しいことでしょうか? だってそういう勢いだけでやっていける年齢というのは、人生の中で本当に限られていますよね。だからその年齢がすぎると、あとはろくに走れないということになってしまいます。それが今の日本の女子ランナーの現実です。それが正しいことだとは、私には思えないんです。そうじゃなくて、結婚をしたり、家庭を作ったりというなかで、人生を通して、自然な形で競技とつきあっていくことが、本当は大事なんじゃないでしょうか。私がなりたいと思っているのは、そういうランナーなんです。

「勝てば正義」のアスリートの世界は承知しているし、自分もそれに乗っかってきた人間だけれども、これからはそのように生きたい、という有森裕子は語っています。彼女は、シドニー五輪には出場できませんでした。優勝したのは高橋尚子。当時、私もQちゃんの完璧な勝ちぶり、報じられたストイックかつ天衣無縫にも見える競技への姿勢に熱狂しました。

にもかかわらず、この有森裕子のインタビューは、私にとって、もっとも心に残る、アスリート・インタビューのひとつです。折に触れ、よく思いだすし、実際に読み返しもします。私たちは、やはり、アスリートには勝利を求めるし、ストイックさこそ至上のものだと思いがちなんですが、それとはまったく異なる点から、アスリートに対して強く心を揺さぶられることもあるんだな、と思い知りました。バルセロナアトランタと、栄光を極めた選手がその後にたどりついた境地だったからこそ、より響いた部分もあると思います。

安藤さんのインタビューにも似たような感慨を得ました。競技を休む期間を作り、(予期しなかったことではあっても)出産して、そのうえでオリンピックを目指す。そういう人生を自分で選ぶアスリート「も」いることは、スポーツ界ひいては日本社会全体を考えても、圧倒的にポジティブな話だと思うんです。競技(仕事)とも、プライベートとも、多様な向き合い方があり、そのすべてが自然に認められることは、誰にとってもすばらしいことですよね? 

そして、もうひとつ肝心なのは、彼女がそのことを自分で表明したということです。彼女が今回表明した生き方や、インタビューそれ自体は、特別に美談だとは思いません、あたりまえに肯定されるべきだと思うだけです。が、敢えてこういう書き方をしますが「現役アスリートとしての普通の競技人生」、また、「女性としての普通の結婚出産の仕方」と異なるスタイルを選んだことを、カメラの前で表明することを、彼女は選んだということに、私はある種の敬意をもちます。自分の言葉や、表情や、雰囲気で語ろうとしたこと。その勇気や、緊張や、不安を、その希望を感じて、私は震えるような気持ちでした。

普通と違うこと、大衆が望ましいと感じる以外の振る舞いをすることで、どれだけ叩かれるかを、彼女は身をもって知っているのです。それでもカメラの前に出たのは、信じたかったからだと思うんですよね。自分の思いが伝わることを。また、そうやって伝えることで、自分自身も、より前を向いて進めるようになることを。

それを土足で踏みにじるような態度がたくさんあるって、悲しいことです。

一般人でも、結婚出産と仕事など、女性という性の関わるライフスタイルを考えるときには悩んだり迷ったり、思いのままにいかないことがままあるものです。一流アスリートの場合は、競技人生はもちろんのこと、加えてスポンサーやチームスタッフや、世間の目など悩みのタネは尽きない。そんな中で出した結論を、部外者である私たちが評価したり批判したりすることがどれだけ的外れか、ちょっと考えればわかると思います。

彼女が一流アスリートであることを忘れているかのような人が多いことも残念です。オリンピックに二度出場し、世界選手権を二度制している選手ですよ。現役を続けることやオリンピックに出ること、その難しさなんて、私たちの百倍知ってるに決まってます。

今回、安藤さんの件についてあれこれ言ってるツイートを見てて、「心配してる皮をかぶった余計なお世話」とか、「良識ある大人としての分別ある評価・べき論」みたいなのが、一番たちが悪いなと思ってしまいました。たちが悪い、というか、いちばん不快でした。読んでて。

こういう件を、好き/嫌いと個人的感情で断じるのは、パッと見、激しくても、「あくまで個人の感想です」というところで完結してしまう感じがして、あんまり引きずらないんです。そういう人は、一言二言disってそれだけ、ってパターンが多いし。チラシの裏に気に食わない人の悪口書いて、ゴミ箱代わりにネットにポイッてしておしまい、て感じ。まあそれでもじゅうぶん残酷だけど。

より攻撃力が高いのは、以下のような・・・。一見、まっとうなんです。

  • 「五輪を目指すのか目指さないのか、言うことがコロコロ変わって、まったくわからない」
  • 「(五輪出場がかなえばそれは頑張った結果の“ご褒美”だ、という安藤選手のコメントに対して)その程度の気持ちなら、しっかり体を休めて、子どものそばにいてあげたほうがよいのでは? 本人の体のためにも」
  • 「自分の決断や発言に酔っているみたい。心の強さが見えない」 
  • 「スケ連に事前の報告がなかったのはいかがなものか。筋を通すことが赤ちゃんを守ることにもつながる。大人になれば下げたくない頭も下げるべきときがあるものだ。そういうことのできないところがまだ子供に見える」
  • 「(マスコミに追いかけられたり世間に騒がれたりする)覚悟がないなら、いま公表すべきではなかった。母になったんだから真の大人にならないと」
  • 「発表の方法や、メディアとの付き合い方の認識の甘さに大きな原因があったことは否定できない」 
  • 「もう25で母親にもなったのだから、やみくもに庇うのではなく問題点はしっかり自覚することも必要かと」

発表から数日間の、ある一人の人のツイートのほんの一部です。こういう人がいるんですよね、あちこちに。まるで、ちゃんとした便せんと万年筆を用意して、美しい字とちゃんとした文章で、大手新聞社に投書するようにネットにpostしてるような。自分の意見に客観的な正当性にある程度自信があるのか、postがすごく多いのも特徴。

なんか、暗い気分になってしまいます。

前述したように、ほんとに母子のことを心配してるなら、外野が四の五の言わず、(少なくとも公のネット空間では)黙っとくのが一番だと思うんですよね。“分別ある大人として”ツイートしてるんでしょうに。

ていうか、そんなにも、強く、正しくなければならないのでしょうか。

アスリートはある意味、公的な存在でもあるけれど、決して間違わない正しさなんて求めるものじゃないと思います。私は、強さすら、求めません。そりゃ、好きな選手は応援するし、期待もするけど、自分の勝手な期待と異なる結果が出ても、責めたり、眉をひそめたりする筋合いじゃないと思います。

まして、発表の仕方や、インタビューでの答えを評価するだなんて! 彼らは政治家でも小説家でもない。言葉のプロでも、メディア対応のプロでもありませんよ。たとえば浅田真央選手があの若さで見事なメディア対応術を身に着けているからといって、彼女と同じスタイルをとらない選手が選手として劣っているわけでは決してありません、もちろん、人間としての優劣を論じるなど、ゲスの極みです。いくら、安藤さんを心配しているような顔したって、許されることではありませんよ。

そもそも、25才で母親になった人は、そんなにも強く、正しくなければならないんですかね(再)。

前述のツイートをされた方は、安藤さんのインタビューの同日、何某かのbotのツイートをRTしていていたんですが、それは、以下のようなものでした。

「電車の中。同じく小さい子連れの母親。ひとりは、不機嫌にボーッと立っているだけで、子どもは騒ぎ放題。ひとりは、子どもに「窓の外、何が見える?」など絶えず話しかけて、騒ぐ隙も与えない。こういう差なんだよね」

なんか、すごく暗澹とさせられます。

誰だって、前者より後者のような母親でいたいと思っています。公共の場では周囲に迷惑をかけたくないとも思っています。けれど、ひとくちに電車の中の母子といっても、その状況は千差万別ですよね。10分や15分で降りる母子。1時間以上乗っていなければならない母子。母親はつわりや体調不良、深刻な育児疲れかもしれません。どこか楽しいところへ遊びに行くために乗っている子もいれば、母か子か、どちらかの通院のために乗っている子もいるかもしれません。

ああいうツイートをする人、それをRTする人というのは、そういう可能性は少しも考えないか、そういう事情なんか公共の場では斟酌するに及ばない、と考えているんでしょうね。もちろん、事情があれば大きな顔でうるさくしていいと言っているわけではありません。けれど人は、時に、どうしても、正しく望ましい振る舞いをできなかったりもするのです。特に小さい子やハンディキャップのある人やお年寄りや、彼らに付き添っている人には。

そういう場面に出くわしてしまうのは不運だし同情されるべきことです。「今日は電車にうるさい子がいたよ、やれやれ」とか「あのお母さんは四六時中あんなふうなんだろうかしら?」ぐらい言ったり思ったりしても不思議じゃありません。

けれど、そこで、「ああいう母親は問題がある。母親のくせに心が弱い。産む資格があるんだろうか? あんな母親で子どももかわいそうだ」とまで思うのが、こういう人なんだろうなと思います。親なら産んだ瞬間から、いつでも100%ちゃんとしてるべき!と。

そして、こういう人が、それなりの発信力、文章力や体裁で、なんとなく支持を集めたりするんですよね。息苦しい世の中です。息苦しいだけじゃなく、ひとりの未熟な母親としても、また、自分が年をとったり、何かの運命でもっともっと社会的弱者になってしまう可能性を考えても、本当におそろしい世の中だと思います。