『ゴーイングマイホーム』 終わりました

「初回で主人公の父親が倒れて、最終回はそのお葬式の模様をメインでやるよ。並行して、伝説の小人クーナを探すよ!」
と説明してみると、「どんなドラマよ!」、「暗いの? 頭おかしいの?」て言われるのかもしれない。実際、そーゆーふーに捉えて離れていった視聴者もいるのかもしれない。しかし私は本気で感動してしまったよ。最終回は初めてリアルタイムで見たんだけど軽く泣いたし、翌日、ひとりで録画を見返したときには、思う存分泣いた。鼻の頭が赤くなるぐらいまで。

といっても、是枝監督にかかると、お葬式だからといって、家族が涙ナミダに明け暮れているわけでもなく、遺体を前に親族が遺産分配で揉め始めるようなこともない。冒頭、良多が仲間を葬っているクーナの夢から醒めると、別室から母と姉の話し声が聞こえる(ことから、ここが実家だとわかる)。いつものあけすけさより少しだけ抑えたトーンなんだけど、「好きなことだけやった人生で、うらやましいわよ」とか、「でも、よかったんじゃない? 大変よ、寝たきりになったら」みたいな話から、父が既に世を去っていることと同時に、ふたりがそれを“なんとなく”受け容れている様子なのも、わかる。

良多も、なんとなく受け容れているように振る舞う。いったん大病をしていたのだから、心の準備がなかったわけでもないだろう。そして、いざ亡くなったとなると、家族にはやることがたくさんある。遺影を選び、霊柩車を選び、お坊さんを頼んで、弔問客の対応、お通夜、お葬式…ほとんどはコミカルに、あるいは淡々と描かれていく。

そんな中で、いったんは軽い笑いにした「遺体の口が開いてしまう」エピソードが、思わぬ衝撃で襲ってくる。一度目に気づいたときは慌てて母と姉を呼んだ良多だが、二度目は、「ああ、まただ」という感じで、自分の手で顎を閉じようとするのだ。

そもそも、遺体に誰もついていないとき、何度も棺の小窓をあけて、顔を確認してしまうところに、良多の「父の死の現実感のなさ」が表れている。その結果、気づいた事態に対応しようと、身をかがめて父の顎に触れたとき、良多は信じられないように、触れた指をかすかに震わせながら、じっと見つめるのだ。

子どもの頃の回想が挿入される。テレビでスキージャンプ競技をやっている。札幌五輪? だったら、1972年=40年前。てことは良多が6-7歳という設定か。テレビを見ながら、手を上に伸ばして、自分を膝に抱いている父の顎を触っている。無精髭のざらざらした感触。ふたりともニコニコ笑っている。選手の真似をして、父の膝に立ちあがりジャンプの姿勢をとる。父の力強い手が自分の膝を支える。

あのときの柔らかさ、頼もしさとは全く違った感触。あるいは、「父に触ったのはいつぶりだろう?」というような思いもあったのかもしれない。遺影の父の柔らかい笑顔(決まりかけていたビシッとした背広姿の写真を、母の希望で、夫婦で温泉宿で撮った写真に変更していた)を仰ぎ見た良多は、へなへなと膝から崩れ落ちて、嗚咽し始める。止まらない。そこに妻がやってきて、ハンカチを差し出す。

「もっといろいろ話しときゃよかった」
「もう話すことなんかないって言ってたのにね」
「後悔か・・・・」
「そこに愛があったってことなんでしょ」
「だったら後悔も良かったのかもしれないな」
「そうね、悪くないかもね」

阿部ちゃんが泣き出した瞬間、私も泣いたよーーーーーっ。触れてから、泣きだすまでの、ほとんど無音のタメが、すごかった。一気にシンクロさせられた。

母・敏子(吉行和子)は、菜穂(宮崎あおい)一家の弔問に相対するシーンにぐっときた。栄輔に見せるため、ビニール袋に小さな雪だるまを入れてもってきた大地。着くまでに解けてしまって、赤い帽子と水だけになっている。逃げてしまったクーナのように。「帰りたかったんでしょうか」と、故郷の人々に敏子が問う。「そんなことないと思いますよ」 「幸せだったと思いますよ、この家で、奥さんのそばで死ねて」 「そうだと思います」 優しい嘘たちに、「そうかしらね」と答える吉行和子の半信半疑みたいな顔がすごく印象に残っている。そうだったらいいけれど、という気持ちと、でも(夫を愛しているからこそ)夫の本当の願いがわかってしまっていて、彼らの言うことを容易に信じられない気持ちと、けれど最期は自分のところに戻ってきてくれてうれしかった気持ちと・・・・すごくたくさんの気持ちがないまぜになっているような、すごい表情だった。

帰路に着く菜穂たち3人に挨拶する良多。「また父の話聞かせてください。僕の知らない、あの人の話を」 いったん小指を立てておどけたあとで、「いろいろあるんだ、まだまだ話したいことが」と西田敏行。そこには、「栄輔と」話したかったこと、という雰囲気もあるような気がした。つまりそこにも、後悔が。愛が。

「後悔しているということは、そこに愛があるということ」。こんな、名言っぽいけど、飛躍しすぎていて一見うさんくさいようなフレーズを、ストンと納得させる是枝監督の手腕が見事だ。

栄輔といえば、棺に花を供える最後の別れで、やはり口が開いてしまった死に顔に吹き出しながらの泣き笑いで、「ありがとう、ありがとう」と繰り返していたのも印象的だった。てか、ちょっと泣けた。菜穂、治(西田)、大地。手をつないで帰る三人は、前々回、淋しげな顔をする菜穂に見送られた良多一家と対をなしているのか? スタンダードな「父と母と子」の3人でなくても、しっかりと繋がり、安定した家族の姿だ。見送る良多の、どこか晴れ晴れとした表情。菜穂たちとの出会いは、自分の知らない父との出会いそのものでもある。

最終回でも、是枝監督は子どもをビィビィ泣かせたりしなかった。萌江はいつもの、唇をきゅっと引き結んだ表情で、大地と一緒に、あるいは父と一緒に、感じた。確かなクーナの気配を。そして、祖父の死を受け容れた。

沙江(山口智子)は約束通りに義父の葬儀の料理をとりしきった。そこには、アシスタントのジュンジュンや、料理がからきしダメな、沙江の実母もいた。かつて「手を出さないで」と言っていた沙江は、母に教えながら手伝わせる。正月に母や姉一家を呼ぼうかという夫の言を後押しする。自宅に戻れば、心もとない様子の娘をベッドに招き入れ、抱きしめ、ほおずりする。「紫の花が咲いていたところ、クーナのお墓だと思う?」と尋ねる娘。「どうかな」と逡巡しながらも、沙江は「でもね、あのとき、死んだママのパパのことを思い出した」と答える。納得する娘。生きている者と死んだ者を繋ぐクーナ。

あんな夜にテラスのドアの修理を良多が始めたのは、この回の序盤、実家で、階段の踊り場(?)の小さな収納扉を何度か開け閉めしていたのがきっかけなの? あの両開き扉、片方の色が違った=修理したあとがあった、ってこと? で、ヘマして、締め出される(笑)。ここの一連の演技がまた、阿部ちゃん、うまいんだ。大笑い。そのまま朝まで…なんてヤボな展開にはならず、妻がすぐに気づいてくれる、こういう加減がうまいんだよな! 

体を冷やした夫のために、沙江が起きだしてきてスープをつくる。野菜を煮て、ていねいに撹拌したポタージュ。ここでうちの夫が「ちょっと寒い思いしたぐらいで、こんな手の込んだもの作ってもらえるのか!」と驚愕しておりました。スープにトッピングされていたのは、クーナの帽子をかたどった、赤いにんじん。これからも、こうして、彼らの人生は続いていくんだなあ、とじんわりする、良いラストだった。最後の最後に出てきた萌江クーナがかわいすぎる!!!

「何も起こらないドラマ」なんて揶揄されていたけれど、こんなに贅沢なドラマを次に見られるのはいつだろう、と思ったな。こんないいドラマ、低視聴率を取り沙汰してクサされても、自分の評価はビクともしないんだけど、今後のドラマ編成に影響してくるのだろうかと思うと、暗い気持ちにはなる。ロッテルダム映画祭?かなんかに出品されて、全話、放映するらしいが(!)。好評だといいな。まあ、各方面、質の高さは折り紙つきですから。

良多周辺は生活の切実さ、つまりお金の苦労がまったくなさそうだし、死までの苦痛は描かれず、帰郷がかなわなかったとしても安らかな死ではあったようだし、、多少妻や娘があけすけだろうと、今日びあんなに立派なお葬式を出せるのは(もちろん本人の生前の功績でもあるのだろうが)やはりかなり幸せな部類に属するのだろうと思う。でも、そういうのを「リアルじゃない」とか「感情移入できない」っていう感じのドラマじゃなかったんだよね。なんだかんだ言って家族を中心に据えたドラマなので、単身の人や、親の死をまだまだ想像できない若い人には、どうかなとは思ったけど、逆に言うと、若い人向けだけじゃなく、大人のためのドラマも必要だもの。