文楽問題における橋下の態度を見て
今さらながら、文楽に関する橋下大阪市長の発言を読んでたらひどくむかむかしてきて、「三浦さん、橋下をぎゃふん(死語)と言わせてくれ!」なんて思ってしまった。論客、橋下を前にして、理論武装をし、卓越した表現力を駆使し、しかもそれらを狂信ではなくユーモアで包む言辞をとるには、三浦しをんのような人が出て行くのがうってつけではないか。
まあしかし、と、『あやつられ文楽鑑賞』を再読してちょっと怒りをおさめる。あらためて出ていってもらうまでもなく、三浦さんにはこの本(と、小説『仏果を得ず』)がある。
県知事として、財源のために文楽関連予算を俎上に上げるのは無理もないことかもしれない。気に入らないのは、そのやり口だ。文楽協会に天下りしている公務員ではなく、技芸員(文楽における役者さんたち)を槍玉に上げている。しかも、さも「特権階級」であるかのように決めつけて、事をよく知らない国民に反感をもたせるネガティブキャンペーン。
「意見があるなら表に出てきて、正々堂々と公開の場で議論したらいい」と彼は言う。公開の場、とは、すなわちマスコミ、特にテレビカメラが入ることを意味する。弁護士であり、テレビ出身でマスコミ慣れしている橋下を、文楽の芸を磨くことのみに専心してきた技芸員が、どうやったら論破できると言うのか。その、どこが「正々堂々」なのか。手練手管で議論を誘導し、技芸員を悪者に仕立て上げることなど、彼にとっては朝メシ前。マスコミも意図的な編集で橋下劇場を盛り上げるだろう。そんな場所に、技芸員が出て行けないのは当然なのだ。なのにそれを、「非公開主義」「文楽の闇」と責め立てる。なんという卑劣!
とはいえ、爪の甘さもしっかり露呈してくれたわけだが。実際に文楽を見に行けば、「人形遣いの顔は見えなくていい」だの、「曽根崎心中のラストシーンがあっさりしすぎ。現代風に演出を考え直すべきだ」だのほざき、また、「(人気作家の)三谷幸喜が書く(ような現代風の)文楽を上演することこそが関係者の努力」など、アホらしい発言の数々ありがとうございます。
この「あやつられ文楽鑑賞」を読んでごらんよ。橋下が1回や2回見ただけでわかったような顔して批判してる文楽が、どんなに面白く、奥深く、人を熱狂させるものであるか、よくわかる。もちろん、文楽を日常的に愛好している人は、国民でもひと握りだろう。文楽は高尚で、たとえばマンガが下等な趣味だなんて言いたいわけでもない。それを言うなら、三浦しをんなんか、文楽もマンガもまったく同じベクトルで狂おしく愛しているんだし。
ただ、何百年も続く文化は、直接的にではなくても、日本人の血の中に息づいている。そういうものを持っていて、守り、未来に伝えていけるには誇れることだし、それが文明国ってもんであって、世界においても一目置かれる理由になりうるんじゃないのか。
文楽のようなものを語るときには、税金の使い道を検討することや、橋下個人が文楽を好きか嫌いかということとはまったく別の問題が存在するのであり、それを考慮せず(あえて考慮していないのかどうかは知らないが)に浅薄な意見を垂れ流す橋下の姿は、幼稚で、政治的センスに欠けて見えるし、勝手な決めつけで我意を通そうとする独善的な態度には虫唾が走る。
橋下に政治的な志があるのは感じられるし、世襲の坊ちゃん政治家とちがった見どころがあるのは事実だけど、文楽の問題で彼という人間の底にあるものが見えた気がして、どうも信用できないところがある。圧倒的優位に立っておきながら、弱い対立者を屠り去るまで口撃する苛烈さなど、国政をまかせるには恐ろしい気がするのだよ。