体罰事件に関連してつらつらと考える

大阪市。例の高校の教員を総とっかえしろとか、体育コース(?)の募集を凍結しろとか、橋下の言い草はいかにも彼らしいんだが、そうやって次々と「新しい話題」を提示して、マスコミや世間をそっちに飛びつかせることまで想定してるんだろうか? 問題を改善していくための具体的な施策、のつもりかもしれないけど、明らかに、根本的な問題の議論が薄まってるよね…。

祝日の月曜日に「ひるおび」で体罰問題の徹底討論、と題したコーナーをやってた。大半は“ぬるい”意見。「しょせん、市内や県内、せいぜいインターハイレベルでの好成績を目指しているから、こういう次元の低いことが起きる。もっと高いレベルをめざすべき。世界をめざす指導をしようとしたら、体罰なんて選択肢はない、理論的に教えることがいくらでもある」と主張するスポーツ評論家にはまったく共感できなかった。それって、

スポーツが仕事になる人は全体の0.1%もいない。部活動は稀にいる天才の為だけにあるんじゃない。多くの人はいずれスポーツを諦める。その時に何が残っているか、スポーツから何を学んでいるか。何もかも外からの圧力でやらされた後に残るものは少ない。

という為末大(@daijapan)のツイートで語られる目的意識の対極ともいえるものだが、どう考えても後者のほうが共感できませんか? 桑田真澄がいち早く表明したアンチ体罰の意見も然りで、これに「全面的に賛同する」と言いながら、ああいう極端な施策に走る橋下ってやっぱり困った人だ。つか、コイツが我が子を教える教師でなくて良かったよ、と思ってる親は多かろう。

番組では、河合俊一は明らかに呼ばない方がよかった・・・・真面目な話題でもこういうフラフラした意見を言う人がお昼の番組には必要なのか? 東国原も全然、自論と呼べるほどのものがなく、政治家としてこれじゃダメだろう。興味深かったのは元投手の金本で、「自分は体罰があたりまえだった世代だけど、甲子園をめざしていた息子が体罰が嫌で部活をやめてきた、と帰ってきたときには返す言葉がなかった」との発言、リアルだった。担任でもある顧問に殴られているのを知ったときは、がまんできずに学校に乗り込んだ、と。「今の時代に」という表現も使っていた。素直な感覚として、「今の時代に」、親が、我が子が他人に殴られることを受け容れる理由ってほとんどないよなーと思う。

問題は、オーソライズされた特定の教諭と学校が、あるいは教諭と親、教諭と生徒達自身が、歪んだ意識を共有してしまうことで、暴力のあるなしに関わらず、その歪みから、一方的な価値観を植えつけられて育つ生徒っていくらでもいると思う。今回の事件でも、当該教師は十何年も移動せずにその高校に勤務していたというから、学校や親や生徒たち、教育委員会まで含めた共同体の中で、いわば「名物先生」という共通認識ができあがっていたんだろう。「暴君」というよりは「熱心な、いい先生」というイメージが根底にあったからこそ、目的意識、方法論のどこかで歪みが発生し、そして放置されたんだと思う。

為末大の別のツイートとして、

モチベーションは無尽蔵に湧いてくると考えるのが日本的根性論。でも現実は外から無理矢理懲罰で人を動かせば、いずれ人は燃え尽きる。自分から努力したがる人の成長は止まらない。外からの強制で努力する人は大事なものを磨り減らしている。忍耐は自ら耐えた時に意味がある。

というのがあって、これもまた本当に正論なんだけど、こういう教師って、懲罰で人を動かそうとする…というよりは、「厳しい規律、厳しい練習がもたらす良い側面」を純粋に信じていて、そのシステムを円滑に動かす為に懲罰という方法をとるんだよな。根底の「厳しい規律、厳しい練習がもたらす良い側面を信じ、期待する気持ち」には、ほかにもたくさんの人が乗っかってるの。

為末の言う「スポーツをやめたときに残る価値」って、「厳しい練習に一緒に耐えた仲間たちとの絆」とか、「厳しさに耐えて心身強くなったこと」とかだと思ってる人ってたくさんいるし、それ自体が間違っているともいえないんだよね。そこに、体罰は別にしても「抑圧的な指導」が許容される雰囲気が生まれるってういか…。古今東西、洗脳みたいな教育って枚挙にいとまがないんだろうな。

で、(今回の事件と直接には離れるけど、)「抑圧的指導」の反対は「自主性を重んじる指導」ってことになるんだろうけど、このスローガンが悪い方に作用すると、「ほったらかしな指導・無難な指導」になってしまう。

実際、学校レベルの授業や部活動って、内なるモチベーション、向上心が高い生徒ばかりじゃない。みんながみんな、桑田や為末みたいに、「外野に言われるまでもなく自前のモチベーションを十分もってます」とか「いちいち自分で考えて納得したうえで練習したい」とかいう子ではないのだ。モチベーションは高いけど、そのための方法論は忖度せず、言われたことに素直に従う性質子もいるだろう。

そこで、各人のモチベーションのレベルに応じた指導(だけ)をするのが正しいのか?というと必ずしもそうじゃなくて、それが行き過ぎると無難な指導に終始することになる。(そして橋下的恐怖政治は、無難な教師が今以上に量産される立派な契機になると思う。)

やはり理想は「内に眠っているモチベーション、自主性を(抑圧せずに)引き出す」ような教育なんだろうし、そういう関わり方をしたいと願う教師も多いはずなんだけど、それって本当に難しいんだよね。でもこの難しさに正面切って向き合っていかなきゃいけないのだ。きっと。自分も、我が子には、盲従的でも、ぬるま湯育ちでもない人間に育ってほしいわけだし、いろいろ考えちゃいますなあ。