『龍馬伝』最終話「龍の魂」その2
思いつくままにつらつらと。
福山雅治という(専門の役者でない)スターに演じさせることによって龍馬イコール英雄であるというイメージを一目瞭然に提示し、主人公の内面をじっくり描くというよりも、むしろ外側から描いたのが『龍馬伝』だったと思う。
つまり、龍馬の“前へ、前へ”という推進力の原点に上士と下士という土佐の特殊事情を据え、武市半平太を始めとする土佐の面々によってそれを描き、またそのポジティブさを受け入れ難い者として岩崎弥太郎を配した。結果、私が期待した日本全国を巻き込んだ幕末活劇とは、ある意味ほど遠いものだったけど、制作側が首尾一貫して埋めていった龍馬の二つの外堀については成功したといっていいんじゃないかと思う。少なくとも私は楽しめた。土佐周辺についてはこの間書いたとおり。
弥太郎には、モーツァルトに対するサリエリよろしく、光り輝くものがあれば必ず存在する影としての役割もあるのだが、ヒーローたる龍馬を引き立てるのと同時に、異物として際立たせる役割もあった。私たちは後世の目でドラマを見ているから、身分差をなくすとか薩長を結びつけるとかいう龍馬の思想に基本的に引っかかりを覚えない。当時の目では、それをやろうとする人間がどれだけ酔狂でハタ迷惑に映るかを表現し続けるのが弥太郎だった。
弥太郎は利己的で一匹狼だが、武市の妻・富や牢の中の以蔵など、弱い者に対して共感する男として描かれてきた。第44話『雨の逃亡者』でも、豪雨の中、「おまんは疫病神ぜよ!」と龍馬を激しく罵るシーンがあったが、彼は己の商売のためだけにそう言ったのではない。明らかに、蒼井優演じる芸妓・お元が、龍馬を庇ったがゆえに隠れキリシタンであることを暴かれるという事件を念頭に置いている。
同じ時代に生きていれば、道の途中で犠牲になる者・救われなかった者から目を逸らすわけにはいかない。最終話、ふたりの最後の対面となったシーンでも、弥太郎は龍馬の性急な革命についていけない者たちの存在を示唆する。実際、「我らの全てを無にしたんだ!」という見廻組に龍馬は殺される。
今回、あらかじめ分かっていた龍馬の死が、ひどく悲しく、やるせなく感じられたのは驚きだった。犠牲を生みながらも突き進めたからこそ龍馬は革命家だったのであり、またそれゆえに暗殺されたということが、理屈ではなく感情にグサッと突き刺さるようだった。
突然の闖入者に戦う間もなくメッタ斬りにされる場面はかなりの緊迫感(・・・と、それを台無しにするテロップ)だった。その後、息絶えるまでが長いという感想は他所でいくつか見たけど、私は『チェンジ!』の最終回におけるキムタクの演説ばりに長くてもおかしくない、ぐらいに覚悟していたので、福田靖にしてはずいぶん抑えたな、と好感をもった(笑)。
さらに、それに続く残された者たちの描写を最小限にとどめたことによって、逆に余韻に浸れたと思う。特に、浜辺でのおりょうのシーンは本当によかった。龍馬の幻を見た時点では、下関にいるままなのかわからない。その後、権平と乙女が呼ぶことによって、彼女が桂浜にいること、よって龍馬の死からあるていどの時間が経っていることがわかる。龍馬の死後、いったんは坂本家に入った彼女がのちに出て行ってしまうことは、前々週の『龍馬伝紀行』で既に明かしていて、「う、み」と龍馬に教えられた言葉をつぶやき、乙女たちに背を向けて砂浜を歩くおりょうの姿も、それを見送るふたりも、本当にさみしげに見えて、なんの言葉も、涙もなくとも、すごい喪失感があった。