【エミのスポーツ大陸(笑)】浅田真央が鳴らした『鐘』

去年の12月、久しぶりにフィギュアスケートの大会を見たとき、こんな日記(“セクシャルな彼女たち”2009-12-06 - moonshine)を書いた。

女性らしさ、男性らしさを排除してのフィギュアスケートってのは、やっぱり成り立たないのかな?

私は特にフェミニストではないが、なにげなく湧いたこの疑問に、バンクーバー五輪でのフィギュアはじゅうぶんな答えをくれた。それは、男性でありながら繊細さ、優美さの際立つジョニー・ウィアーの演技だった。また、男性的というよりも「人間的」という形容がぴったりの、高橋大輔のドラマ性あふれる表現力だった。そして、浅田真央のフリープログラム『鐘』。

対するライバルのキム・ヨナは、まさにフェミニンなスケーターである。19歳でありながら、成熟した女の挙措を前面に押し出す振り付けを完全に自分のものとしている。

ネットでは既に陰謀論といえるほどのレベルでキム・ヨナ陣営についての憶測が飛び交っているが、おそらく、なんらかの形で実際にロビー活動はあったのだと思う。それは世界トップレベルの選手を擁するチームとしては大小の差はあれ驚くべきことではないし、それをどこまで“ルールのもとで合法的に”行えるかというのも、チームの実力を測るひとつの物差しなのかもしれない。また、当然、チームの背後には、大きなスポンサーや組織がついており、彼らはけして「金は出すけど口は出さないよ」というような足長おじさんではないだろう。

なんにしても、それだけのものを背負ったキム・ヨナが、オリンピックという舞台でその重みに耐えかねてジャンプの着地に失敗し、すってんころりん、と何度か転んでしまったりなどしていたら、審査員がどんなに意気込んでいてもあげられない点数というのはあるので、やはりあれだけ完璧にノーミスの演技をやってのけた精神力は凄いと思う。「水が流れるような演技」とか、「音楽に合わせるのではなく、まるでキム・ヨナが音楽を奏でているかのような」と実況や解説で評されていたのもダテじゃない。

それでも、やはりあの点差には疑問が残るからこその一部のネット言論なのだろう。一部は韓国に対するありがちなヘイトスピーチ的だったけれど、そういうのとは一線を画したものもあった。私のように五輪のときだけ見てるような浮かれにわかファンではなく、世界各地で行われるさまざまな大会を長年見続けて熱心に応援してきた人たちこそが真剣に論をぶっているのには驚かされもした。

彼らにとって、現在のフィギュアスケートの採点基準というのは我慢ならないものであるらしい。検索すればその詳細についてはいくらでもヒットするのでここでは省くけれど、要するにキム・ヨナの魅力を最大限に活かすための現在の採点方法であり、それは同時に、浅田真央の武器を剥ぎ取るものであるという。

もちろん、スポーツにおいてルール改正は珍しいことではない。スキージャンプにしろ柔道にしろ、「まるで日本潰しのような」といわれたことはこれまでにもあった。しかし、比較的長期にわたった浅田真央の深刻なスランプの理由のひとつに採点基準の変化があったとしても、また、それが技術的にのみならず、精神的な打撃となっていたとしても、彼女を責めることなんてできないだろう。

五輪イヤーのフリープログラムに、浅田真央ラフマニノフの『鐘』を選んだ。最初に競技会で披露したときは、「帝政ロシア末期の圧政に苦しむ人々の怒りや、平和への祈り」というテーマに誰もが面食らった。ファンですら・・・というか、ファンだからこそ、「かわいい真央ちゃん」にはあまりにも似つかわしくないと思われ、心配や批判も渦巻き、ロシア人の名コーチ、タラソワをして「プログラムを変えるか?」と言わしめたという。

『鐘』披露時の演技はまだまだ未完成で順位がふるわなかったこともあり、競技会直後の会見でも「どうしてこんな重苦しい曲を選んだのか?」と外国人記者に辛らつに追及された。その姿を先日のNHKスペシャルで映していたのだが、それを見たとき、はぁーって思ったね。世界のトップで戦うってこういうことなんだ、って。

まだ気持ちも落ち着かないだろうに、大の大人が寄ってたかって敗因を求めたり、勝手に推測したりするのを、ひとりで受け止めなきゃいけない。ちょっとでも生意気なそぶりや感情的な態度、弱気な姿を見せると、何を言われ書きたてられるかわからない。そのときの彼女はひどく冷静に受け答えしていたけど、たいしたもんだと思った。これまで素直で素朴な少女みたいなイメージでとらえてたけど、それだけじゃとてもじゃないけどやっていけない。リンクで上手に滑ってりゃいいってわけにはいかないもん。

浅田真央だけじゃなく、石川遼にしろ宮里藍にしろ、かつての田村亮子にしろ最近の亀田興毅にしろ、成績の立派さだけでなくさわやかで誠実な言動を知られる若いスポーツ選手が日本にもいろいろいるけど、みんな大変な自制心、克己心だと思うよ。20歳やそこらで、そんな立派な人間のはずないやん。大人たちにマイク向けられて、あそこまで自分を律することができるって本当にすごいけど、それには、彼らが「自分の競技に集中するため、外野にあれこれ言われないため、そうならざるを得なかった」という面もあるんだと思う。スノーボードの国母選手が会見でああいう態度とったの、やたらとこき下ろされてたけど、年を考えたら、むしろあれが普通だよ。同じスポーツ選手だからって、それまでの注目度が違いすぎるもん。国母選手に真央ちゃんや遼くんみたいな立派さを求めるほうが間違ってるって。彼にしてみたら、「普段は見向きもしないくせに(スノーボード資金難につきまとわれる競技のひとつに違いない)、何だ?いきなり国の代表扱いしやがって」てとこだろう。

閑話休題

『鐘』はそんな船出だったけど、浅田真央はこのプログラムに賭けていて、その決意は容易に揺らがなかった。その振付の難易度の高さについては、やはりNHKスペシャルで具体的に解説していた。完璧にこなせば、キム・ヨナのプログラム(の基礎点ってことでしょうけどね、“できばえ”評価の加点を除いての)を超えるという。今回の出場女子選手の中で、彼女唯一の技であるトリプルアクセルが2回入っていることはもちろん、各ジャンプに入るまでの“準備時間”をギリギリまで削り、“ツイズル”と呼ばれる足を振り上げる難しい技に始まる最後のストレートラインステップに至るまで、少しの息つく場所もない、滑りっぱなし・踊りっぱなしの4分30秒。

私が『鐘』を最初に見たのは12月の日本選手権で、そのときは優勝した彼女の演技を「うまいな、やっぱり他の人とは違うな」ぐらいにしか思わなかったのだけれど、動画サイトなんかで繰り返し見るうちに、興奮は増していった。ものすごい中毒性のあるプログラムだ。繰り返される重厚なフレーズに乗ったスピード感ある滑り。笑顔はなく、ごく真剣な顔つき。怒りの表情も何度か見せる。腕や脚は、迷いなく潔く振り上げられ振り下ろされる。足元は抉るようなエッジワーク。スピンやスパイラルは空間を切り裂くように鋭い。そして、他に誰もできない3回転半のジャンプ。

トップスケーターたちのプログラムは、その選手の魅力を見せつけるため、良い点数を引き出すために、各陣営の叡智を結集し工夫を凝らしたものだ。それにしても、このプログラムはまるで異質だと思えた。女性らしさ、という印象から遠く離れている。

ボンドガールにしろカルメンにしろクレオパトラにしろ、有名な女性だ。「妖艶」「たおやか」「優雅」「かわいらしい」など、タイプは違っても、それらを演じるときには何かしら“女性向けの”形容がされる。そして、それらの“できばえ”がいいとして加点を集め、ここ数年、頂点に立っていたのがキム・ヨナである。

でも、浅田真央は違う表現を選んだ。もしかしたら、「オンナオンナした」路線でいってもヨナには勝てないという悲観論から出発したのかもしれないし、今なお、19歳の日本の少女が演じるにはあまりにも壮大すぎるテーマだと見る人もいるかもしれない。それでも、彼女の演技はじゅうぶんに『鐘』の荘厳な響きを伝えるものだったと思う。

ネットでは、「ヨナに傾きすぎる、また、難易度の高い技術を避けさせる現行の採点基準に対する浅田真央の怒りを表現したプログラムが『鐘』だ」なんて書いてあるところもあり、まぁそれは穿った見方だとしても、あながちまったく的を外したものでもないように思われる。フェミニンさ、セクシーさを振りまくのとは別のやり方もあるということを、浅田真央は示したかったのではないか。

だからこそ、オリンピックでの演技が終わったあとは私まで異様にショックだった。あの、圧倒的な迫力。品がある、いうか高潔なまでの雰囲気を醸す表現力。気魄のこもった、格調高いプログラム。すべて完全な状態で世界に見てほしかったし、そのときの採点結果を見たかった。それでキム・ヨナに負けたとしたらそれはそれで悔しいだろうけど、やっぱり観衆の反応、報道のされ方もまた違ったものになっただろう。まったく、あのふたつの失敗にフォーカスを置いた状態で人々の記憶に残るなんて無念すぎる! 

演技直後のインタビューで悔し涙を抑えきれなかったり、表彰式での笑顔がこわばっていたりしたのも彼女の魅力を少しも損ねなかった。あの「剥き出し」感は逆になんかすごく良かった。彼女には泣く権利も、採点を不服と言い立てる権利もあると私には思える。それだけのことをやってきたのだ。あんなに悔しがれるほど何かに打ち込むことって、そうそうないよな。

翌日にはもうすっきりとした表情をしていて、私たちはいつもの「元気な真央ちゃん」に安心したわけなんだけど、その、負けたという現実をすばやく受け入れて次のモチベーションにしている強さを見るにつけ、私たちが小さい頃から見てきた「真央ちゃん」は間違いなくトップアスリートで、ある意味、私たちの想像をはるかに超える世界にいるんだろうと、またしても私は思う。

ひとつの試合に3回もトリプルアクセルを組み込む彼女のことを、外国の選手(元選手だったかな?)の誰かが「クレイジー」と評したという。難易度はあまりにも高いのに、現行の採点基準では、成功してもそれに見合った点数はつかないし、逆に失敗したときの減点は大きすぎるし、その重圧や疲労は演技のほかの部分にも及んでくるのだ。それでも彼女は躊躇せずにやった。結果、勝負には負けたが、「挑戦した」というある種の満足感が残り、「次こそは」という思いも強くなっただろう。やらないことには次のステージにいけない。

今回、浅田真央を見てて、なんだかんだいって、一流のスポーツ選手といえど、ひとつの人生であることには変わりないなーと思った。あんな類稀な選手を見てそんなこと思うのも変なんだけど。良い成績を目指すのは当然、オリンピックで金メダルを狙うのは当然なんだけど、その方法はいろいろだ。そこに至るまでの道のりには彼女自身の選択が多く含まれている。

メダルはひとつの結果であり、その色によって世間の評価、人々の記憶が左右されることもあるが、結局は彼女の人生だ。彼女の人生は彼女の向上心や充実感のためにあり、彼女の人生にとって、自分を支える家族や友人、スタッフはかけがえのないものだ。その人生で、「何を目指すか」「どういう表現をしてみせるか」「人前で何を語り、語らないか」を選ぶ権利が自分自身にあり、その落とし前を自分でつけなければいけないというのは、私たちの人生と少しの変わりもない。そして、今のところ、浅田真央の選択、やり方はとても勇敢でかっこいいものだと私には思える。

来シーズンにはほとんどの選手がまた新しいプログラムを披露するだろう。20歳になる浅田真央は、これからまた全く別の方向に舵をきって、そのうち、お色気ムンムンの表現を見せたりするかもしれない。どんなものであっても、彼女が挑戦を続けるアスリートであることは、『鐘』というプログラムで、もうはっきりした。私たちはまた驚かされることになるんだろう。とても楽しみだ。