彩り

【タロー、今日の病院食】

  • 朝:ごはん、漬物、白菜の煮物、味噌汁、海苔の佃煮
    (タローコメント 「“ごはんですよ”のほうが断然旨かった」)
     前日、差し入れしといたんだよね、“ごはんですよ”を。
  • 昼:ごはん、具がすき焼きみたいなオムレツ、茄子味噌煮、漬物、ヤクルト。
    (タローコメント 「酢がきいたオカラみたいなやつもあったがまずくて食えなかった」)
     好き嫌いのない彼が食べられないってのは珍しい。
  • 夜:ごはん、さわらの煮付け、野菜のカレー風味煮、冷奴、漬物、スイートポテト。
    (タローコメント 「この病院、デザートに力入れてますぜ」)

昨日は、なんとなく「アリ」な雰囲気だったので、思いきって19時にさくっと会社を出て病院へ。面会時間の終わりまで夫と過ごしたあと、飲みに行った。

夫が入院していろんな不自由に甘んじているとき、飲みに行くなんて不謹慎な妻かなー?
母親なんかに言ったら怒られるかな、と思ったが、なんせこういう時こそ、私のほうもときどきはパーッと発散して、いつでもニコニコ元気にいられるほうが、大事に違いない。という理論(言い訳)を発動。
でも、さすがに病院で、「これから飲みに行くよ」とは言えなかった。
ま、後日報告するけどね。

夫が入院して今日でまるっと一週間、もう淋しくてしくしく泣いたりはしません。
ひとり暮らしって、しかも、忙しい4月のひとり暮らしって、こんな感じだったよなーという感覚を完全に思い出して、慣れた。
彼の入院があと1週間になるか2週間になるか、あるいはもっともっと伸びるかはまだわからないが、彼が帰ってきたら、むしろ最初は違和感あるのかな?なんて思ったりして。
でも、そんなこともないんだろうな。
あっという間に、またふたりの日常が戻ってくるんだろうな。
そんなもんだろう。

先日、去年の4月5月という私の仕事の最繁忙期を、初めての夫婦での生活、どう乗り切ってたのかな。と、夫との話が出たので、去年の今頃の日記を読み返してみた。

んまー、毎日まいにち、土曜も祝日も、よく働いてたことですよ。
自分のマル秘業務記録を見返すと、4月は140時間近く、5月も80時間くらい残業してる。
毎晩、自分より早く帰る夫を家で待たせること、家のことしっかりやりたいけど、でもどうしようもなく疲れてるし、っていう、忸怩たる気持ちでいたこと、鮮明に思い出した。

でも、けんかなんてついぞしてないし、
(そもそも私たち、付き合ってから今に至るまで、喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。)
夫は料理洗濯などひょうひょうとがんばってくれてて、週末になると、もっぱら夫の手料理(笑)で飲んでて、全般的に見ると、なかなか楽しげな去年の春の日記だ。

そもそも、仕事が忙しい時期は、本当に疲れるし、個々の案件ではストレスも大いに感じるけれど、やっぱり「自分の力が必要とされてる」とか、「今こそ私、成長してるわ」って感じたりして、やりがいがあるのも事実。
その感じは、結婚前も後も変わりはない。

江国香織さんの結婚生活を書いた『いくつもの週末』というエッセイがある。
結婚するずっと前から大好きで何度も読んでて、すごく心に残ってるフレーズ。

「独身のときの生活には、モノトーンの秩序があり、私は「秩序」をたいそう愛していた。
 結婚は、「色つき」の生活だ。それはとても幸福で、しかし、時に疲れる」

自分が結婚してから、なるほどなあ、作家ってうまいこと書くな、とあらためて思う。

私も、「自分の秩序」をかなり満喫したクチ。
ひとり暮らしは、自分の好むもの、望む方向のみで成立しているんだもん。
結婚してからは、前のように、大音量で好きな音楽を聞くことも少なくなったし、
家にいる間は、私にはノイズのように思えるテレビ番組が始終流れているし、
あんなに寛容な夫をもってさえも、やはりどこか「彼が不愉快にならないように」気をつけているところがある。
結果、私の秩序なんてものにこだわることはなくなった。

しかし、プライベート空間に自分以外の人間の存在があるという「色つき」の生活は、仕事で感じるストレスを吹き飛ばし、また、仕事で感じる「社会的存在」としての充実感とも矛盾なく成立するもの。
会社で評価されようがされまいが、仕事がうまくいこうが失敗しようが、そういうのは基本的に関係なく認めてくれる相手がいて、同じように相手のことも認められるっていうことは新たな「秩序」というわけではないが、なんていうか、こう、「彩り」みたいなものを生活に与えるものだと思う。

そして、今は別々に寝起きしてるとはいえ、根底にある彩りは健在で、この春もやっぱり私は「色つきの」生活をしてるんだと思う。
ふたりの生活だ、というのが根底にある。

入院する前に、夫が
「なんかそろそろ子ども欲しいなーなんて話してた矢先にこんなことになってスマンね。」
みたいなことを口にしたとき、いろいろな意味でかなり胸を衝かれた。

私も「私たちのあいだに子どもちゃんができたらどんな生活になるだろう?」
と考えることがないとはいえないけど、いつも「望んでも授からないかもしれない、それが子どもというものだ。」と思っているし、人は、今この場にないものに対しては、具体的な想像が及ぶ範囲というのは限られていて、それよりはやはり、結婚前には想像もできなかったけど、こうして実現したふたり暮らしが永遠に失われてしまうことへの恐怖のほうが、今はより強い。

モノトーンの生活は愛すべきものだった。
それがずっと続いても、きっとその中で楽しくやっていったんだろうと思う。
でも、色つきの世界を知ってしまうと、やはりそれには替えられない。戻れない。
そして、子どもちゃんがいる家庭というのは、それこそさらに極彩色の世界で、ブログ中毒の私、いろんな育児ブログを読むにつけ、「はぁータイヘンそうだな。自分にはとても、無理かも。」と思ったりもするけど、もちろん大変さを補ってあまりありすぎる幸福があるのだろうというのは容易に想像がつき、しかしだからこそ、それが失われることへの恐怖も、今現在の私たちとは比べ物にならないレベルなんだろうな、とか思う。

大事なものを得ることで、同時に抱え込むものって、すごく大きいんだろうな、だったらいっそ、これ以上のものを得ないほうがいいんじゃないかって思えるぐらいに。

日中は(というか今日も21時半退社だったので、夜までずっと)仕事に忙殺されているが、帰宅して毎日ひとり、という状況だと、けっこういろいろつらつらと考えるところがある。
考えてもしょうがないんだけどねっ、ていうようなことばっかり。
こういう、ちょう暑苦しいブログは、当然、発泡酒飲みながら書いてますので乱文ご容赦を・・・。