『白洲次郎』第2話に打ちのめされる

ゆうべ放送されたNHKドラマ『白洲次郎』の第2回を見た。番宣等も目にしていなかったため、ほとんど先入観も期待もなく見たら、これがすごく面白かった。第1回を見逃してしまったのがたいそう悔やまれる・・・。

あのあたりの昭和史については、高校の日本史で習ったのと、大人になってからいくつかの本を読んだ程度の知識しかない私。なんせかなり現代に地続きな、しかもものすごくデリケートな時代であることを考えれば、ドラマでの歴史の描き方については(たとえどのような描き方をしても)賛否両論が起こるだろうことは想像に難くないけれど、それにしても作り手の気魄みたいなものがビシビシ伝わってきて、画面から目が離せなかったよー。

とにかくひとりひとりの人間に血が通ってて、誰を変に持ち上げすぎたり美化しまくることもなく、みんながみんな、どこか弱かったり不安定だったり懊悩したりと、「欠けた」ところを描いていて、だからこそみんなに感情移入できるという人物造形の仕方は、ほんと、今年の大河ドラマに爪の垢煎じて飲ませたいぐらいだ。

特に、伊勢谷友介さんは惚れ惚れするほど男前で、中谷美紀さんは常人離れした気高さでね。この世にも美しいカップルの、つかず離れずの微妙な距離感、安易なホームドラマ的な家族愛なんかでは括れない、複雑な思いが絡まりあった夫婦の描き方は見事。

中谷美紀さんが演じる白洲正子。家事にも育児にも興味がもてず、能や古美術の世界に魅せられて自分の道を模索する中で、「白洲次郎に飼われている犬だ」とその道の大家(亀治郎さんが演じてた)に吐き捨てられ、ショックを受けて酔っぱらって朝帰りした家の門の前、パリッとスーツを着こなして仕事へ向かうべく出てきた夫、次郎がいる。

「あなたは立派よね! 吉田さん(茂さん、のちの首相ね。)にも気に入られて立派な仕事をして! それに比べてわたくしは最悪・・・。こんな女をもらって後悔してるでしょ! 自分が何者なのかすら、見失いかけてるのよ!」

「そんなことない! 君は最高のライバルだ!」(←次郎、英語で。帰国子女であるこの夫婦、喧嘩が始まるとなぜか英語です)

「嘘つき!(Liar!!)」

「嘘じゃない! 君にしかできないことが必ずあるはずだ! 君は君らしくあればいい!」(←英語ね、これも。)

ふらふらの足取りでバッグを振り回して暴れる華族の令嬢である妻を、背後から強く抱きしめる夫。ワーキャー。

素晴らしい脚本を記憶のみで改変してすみません。いやーしかし、中谷さんの演技に痺れた。かなり我がままで自分勝手なお嬢様で、やりようによっては明らかにムカつく女なのに、あくまで品が良く、でも必死で、とにかく美しい・・・。

見終わったあと、妙にずーんと凹んでる自分が。

でも思うんだよね、なんも考えず、ただただ痛快でスカッとするような娯楽作品はもちろん人生の清涼剤として必要なんだけど、佳作、良作、名作ってのは、見たり聞いたり読んだりしたあとに、圧倒的に残るものがあるんだよね。それは、「感動の余韻」とかいう表現ですら、あまりに薄っぺらくなってしまうほど重たいもの。

ハッピーエンドだろうがバッドエンドだろうが、どんなに感動的だろうが、そういう「作品の色、種類」とは関係ないの。終わったあと、すぐに日常に戻ってこられないような、目の前に紗がかかったような、重石をどーんと担いだような、涙も出てこないような、何か、こてんぱんに打ちのめされた感覚。

自分の日常、相対するささやかな生活には、なんの影響もないことなんだよ。そういう感覚を味わったあとでも、自分のすべきことは何一つ変わらない。普通に掃除や炊事をしたり、仕事に向かったりするわけです。でも、なんか、こういうことの積み重ねって、やっぱり長い目でみたら、その人の在り様というか、大げさにいうとアイデンティティみたいなものに、ちょっとずつ影響していく気がする。

生まれや育ち、出会ったことがらや関わった人たちなどという、いわゆる直接経験みたいなものが、「その人となり」を決めていくんだろうけど、本とか映像とか音楽とか、そういう「間接的な」経験っていうのかな、何を見て読んで聞いて、そして感じたか(考えたか、ってほどの深さじゃなくてもね。)っていうのも、けっこうその人のルーツになったりするよね。

この先について踏み込みたいところがちょっとあるんだけど、悲しいかな時間がないので今日はここまで。うーん、最近、いろいろ考えちゃうんだよな。なんか結構、実は大いに意味ある時期なんじゃないかって気がする・・・。