『おんな城主直虎』 第26話 「誰がために城はある」

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今作って、柴咲~高橋(以前は三浦が先)~柳楽~ムロ~貫地谷というクレジット順。大御所も小林薫くらいで(浅丘ルリ子は常時出演ではないので…)、特に高年齢層には大河にしては地味キャストと思われてるだろうけど、お百姓さんがTKOや山中崇だったり、早い段階で死んでしまう家来衆が前田吟や筧敏夫だったり、目付の三人衆も見たことある顔ばかりだし、今回は気賀の町衆に相島一之やら松尾貴史の顔もあったりして、なんか不思議に豪華なメンバーだなって思ってる。NHKそして大河のキャスティング力すごいね。

んで、今後は尾美さんとか朝倉あきとか出るらしいじゃないですか! 「てっぱん」のスタッフさんつながり? そして何と言っても、「ひよっこ」での好演も瞼に鮮やかな井之脇海くんの出演がうれしい! うれしいよー! 「ごちそうさん」では菅田くんと一緒の場面はなかったよね。 楽しみに待ってます!!

さて、今回の内容も興味深かった。twitterで「今回は『真田丸』のような内容で、直虎は源次郎が言いそうな言葉で気賀の町衆をなだめていた」というつぶやき(別に批判とかの意図ではない、素直な感想のようだった)を見かけたけど、なるほどなーと思う。確かに。

ようは両作品とも、社会や組織や人間心理のあるあるを、分析し噛み砕いて時代物の創作エピソードとして作り上げてるわけで、これができる脚本家って意外と少ないんだよね…というのが大河ドラマを見てきて思うことだ。三谷さんや森下さんは有難い書き手。まあ、こういう回って、英雄譚を期待する向きにはダイナミズムにかける作風と映るんだろうけどね。

権力者が権力を持って自由の町に入ってくることで、ある者は嫌悪し抵抗する。またある者はいち早く権力にすり寄ろうとする。そして両極のどちらにもつかなかった者は、どちらからもつまはじきにされる(笑)。本田博太郎やっぱりかわいい役だなw

前回、直虎たちが必死の思いで取り返した材木が、気賀の築城に使われる。自分たちが無事に食べていくためにやった仕事が、自分たちのあずかり知らぬところで、あるいは抵抗できない領域で、弱い者たちを惑わせたり苦しめたりすることにかかわっている。加担してしまう。あるよね。あるある。今の日本人だってそうなのだよね。

そんな状況に際しての、登場人物それぞれの動きが面白い。
「そんなものにかかわるな」「井伊とは関係ない」という態度に徹する政次は、リアリストで理性的なんだけど、統治側としての「仁」に欠ける感がある。政次は、井伊家の家老であり、また幼馴染3人組の1人であり直虎を思う狂おしい男なのだけれど、ナンバー1ではなくとも「統治側」の人間であるという文脈からも捉えるのが、自分的には好き。

裾を思い切りふんづけやがってさー。こういうことを臆面もなくやってのけるのが、政次の思い上がりだと思うんだよね!! 馴れ合いっていうかさ。でも、夜な夜な2人きりで囲碁をさしていたら、馴れ合っちまうのもわかるわけでさ! TLでもちょいちょい話題になってるけど、あの囲碁はどういうやりとりで開催が決定されるのか、そのうち描写してほしい。

そういえばさらに逸れるけど、庵原どのの性癖って何!!しのさん!! この振り、ずえぇったい忘れないからな!!

城なんてものができるなら出ていくまでだ、という龍雲丸。「この日のもとにユートピアなんてない」という直虎。彼らは自力があるからどこででも自由に生きていけるのではなく、そうやって流れながらでしか生きていけない。先週政次が言った「買いかぶりすぎだと思いますぞ」はこういうことか。思うままにならぬなら出ていく。地に足をつけて全力でコミットしていく力がない。井伊谷という地を持ち、コミットするしかない直虎との違い。

でも、龍雲丸の言うこともわかるんだよね。「城なんてものがあるから、城を守るために人が死なないといけなくなる。本当は人を守るための城のはずなのに」。「ごちそうさん」クラスタとしては、悠太郎が言った「人のために町があるのであって、町のために人がいるのではない」を思い出さずにはいられなかったんだけど、個と集団との本末転倒な関係は古今東西に通底する問題だよね。

そして、「集団の中では、弱いものから順に犠牲になる」ということを、直虎はまだ本当にはわかっていないのだろうな。父や大じじ様、直親など、井伊家の嫡流の男たちを次々に亡くしてきた経験はあっても・・・。「上に立つ者として、率いる者たちをどう守るか」お題目を唱えるのではなく、現実的な采配の難しさに、これから直面していくのだね。まずはその覚悟があるかどうかを、“周縁の者”であった方久に問われる展開が熱い。