「あきらめずに心を込めて思いを説けば云々」と、あささんの教えを実践したらしい成澤さんを、真田昌幸や本多正信が「そんなものは策でも何でもない」とバッサリ斬る姿が思い浮かんでしまい…。戦国乱世大河の翌日に見るマイルド朝ドラではこんなことが多い… #あさが来た #真田丸
#あさが来た 全体的に甘口カレーマイルドに仕上げてある今作だけど、今日のあさとへぇさんの会話には大森さんの魂が垣間見えたと思う。「男性の女性への蔑視はこの先も変わりませんよ」「分かってるわ。でも人数を増やすのよ。そうやって前に進むの」綺麗事だけどシンプルで力強い言葉だと思う。
RT 大森さんの魂。そうなのだろうか。そうだとしても、このドラマを見て、そのペンギンの人数に(宜のように)加わりたいと思う女性がどれくらいいるだろうか。怒らず、笑顔で周囲に感謝して、“柔らかい力”で置かれた環境でうまくやっていこう、てのがこのドラマから受ける感覚では。#あさが来た
RT続き 「女子への見方はこの先も ”永久に” 変わらない」。また要らん対立を煽るなあ、へぇさんを尊重しないんだなぁ、脚本演出。なぜへぇさんがそこまで酷なことを言うのかもハッキリ説明してない。そして史実を思えばこの「永久に」も後で簡単に覆すのだろう。#あさが来た
@emitemit 「ハッキリ説明してない」とは、へぇさんがあさが心配なのか、それとも加野の財政や評判が心配なのか判然としなかったから。後者寄りだったようだけど、なら「女子大の事業に加野のお金は使わない」というこれまでの脚本の前提が崩れる。多分意図的にぼやかしてる。 #あさが来た
雁助よりお金を心配してるような家族にモヤモヤするより、そういうシナリオにする作り手がね…。そもそも、今さら雁助にこんな大けがさせて保険の話とつなげるのも作為が強くて。脚本苦しんでるんだろうけども。この状況でうめと前妻が顔つきあわせる展開も趣味が悪い…。 #あさが来た
「保育園入れなくても、それ以外の方法で働けたよ、とシェアするのが前向きな解決法」って本当ですか。「障害があって差別されたけど、笑顔で乗り切る方法をシェアする方がポジティブ」と一緒じゃないか。前向きという言葉を使ってるけど、結局抑圧じゃないか。
RT あー、あさが来た に感じてることってこれと通じてる。『「保育園入れなくても、それ以外の方法で働けたよ」とシェアするのが前向きな解決法?「障害で差別されたけど、笑顔で乗り切るのがポジティブ」と一緒じゃないか。前向きという言葉を使ってるけど、結局抑圧じゃないか』
怒る、怒らないに加えて、楽しいことだけ見ていこうよ、に対しての不信感がある。ひどい現実が「ない」とかってされるって本当にキツくないか。別に自分のことでなくてもよ。だから、昨今の暗いドラマに期待してしまう。
個人レベルで見たときには、確かに声をあげるより怒らないほうが良い方向に向かうことはあるだろうけど、それでそっち側にいった人と、声をあげてる人を何者かが分断するために利用してきたりするっていうのは、韓国映画の「明日へ」にうまいこと描かれてた。
あさちゃんを見ていると、セクハラ野次事件を思い出す。女達には、どんなに侮辱的な事を言われても、笑って受け流して大ごとにせず、そうやって自分の身を守る癖がついている。それは女の柔らかい力なんかじゃないし、人間としての成長でもなく、心の病だ。社会の闇だ。そこから解放されたいのに。
はつに対しては「嫁としても母としても聖女すぎて、あれを理想にするのはちょっと…」という声がちょいちょい上がるのに対して、働く女、女子高等教育を勧めようとする活動家であるあさに対してはそのような声がほとんど上がらない。#あさが来た の視聴者層がわかるかなーと思ったり。
松永玲子と2人きりで、しかも緊迫した場面での芝居なのにまったく引けをとらず、独り芝居での長セリフも心情たっぷりに(でも抑制された演技で)やりきる友近の力量がびっくりぽんどころじゃない! #あさが来た
お話自体は作為に次ぐ作為の連続で、昔ながらの朝ドラやってるなあと
ドラマ自体に「デリケシー」の無さを感じる。雁助の家族のそれがかすむ程に。
稼ぎ手が事故で倒れてパニクってる奥さん達を「ちょっと嫌な人」にすることで加野屋メンバーの温かさをフィーチャーするつくりに乗れない… #あさが来た
>RT ドラマ自体にデリカシーがない。それだわ。雁助の嫁やら娘婿やらがどーとかじゃなくて、そういう造型にすりゃ加野屋サイドが引き立つし、うめと雁助も手を握れるし生保の話もできるし…っていうシナリオに、そりゃどうなのよって #あさが来た
#あさが来た の上品さや謙虚さを柔らかい力として称賛してる人たちが、「保育園に落ちて日本死ね」のやつを「いくら怒ってるとはいえ、母親という立場の人が ”死ね” なんて言葉使ってる時点でこの問題を受けつけられない」って言ってるの見て、あーなるほどね。って心から思った。
つくづく脇役にしわ寄せする造りの脚本…何だかもうすごく残酷な流れで、うめさんが痛々しすぎる。妻の愚痴で知る家庭での姿。うめさんの知らない過去。本当の姿を知らなかったという流れだが、そもそも知る必要のない姿なのだ。思い出までなくして知る必要があったのかと悲しくなる。#あさが来た
@sarara0904 他の方が指摘されているように、不慮の事故→お金のトラブル→保険会社のきっかけというのは安易に脚色できない為、うめさんの悲恋を絡めて盛り上げている気がしてならず……しかし、ここまでえぐってまで盛り上げる必要があるのかと思ってしまった。#あさが来た
@sarara0904 年明けからとみに主人公がふんわり、あっさりと何となく危難をすり抜けるような(危難を乗り越える、ではなく)流れになっているのに、脇役となると徹底的に突き落とす、その落差と作為が、個人的に一番目についてしまった回だった。#あさが来た
@sarara0904 なんなんでしょう、#あさが来た の、登場人物が物語の中で尊重されていない感は。作為に走りすぎたシナリオがそう感じさせるのだと思うんですが、この感覚をまだうまく表現できなくて、モヤモヤしています。登場人物がシナリオの犠牲になっているというか…
まあ、全体的に「煽るだけで踏み込まない」ことがわかってるドラマだから、タルいのよね。
”何もない”主人公周りと、脇キャラ周りとで、風の吹き方が違いすぎる・・・昨日フォロワーさんとのやりとりから引くと、「主人公はふんわり危難をすり抜ける(乗り越えるではなく)流れなのに、脇役となると徹底的に突き落とす、その落差と作為」ね。 #あさが来た
雁助さんが目を覚ましても覚まさなくても うめにとって辛い状況になることを予想できなかった加野屋のみんな ちょっと酷だと思う。#あさが来た
もう一生会わなくていいと覚悟を決めていたうめを同行させて雁助に付き添わせ、雁助と妻と家族の絆を間近で見せつけておいて、最後はまるでうめが自分から心残りを解消しに来たのを加野屋一家で暖かく応援していたかのような体で引き上げていく、脇へのデリカシーのない展開すげえな #あさが来た
もう脚本そのものにデリカシーがないように思える。#あさが来た
うめにあれだけつらいめにあわせて、その自覚はまったくなく「なんか元気ないなあ」ぐらいで、自分たちは「これを機に生保事業で働く人を応援しよう」と張り切って、夜は縁側でいい風に当たりながら「和歌山行きたいなあ、そうだすなあ」ってこれはいい話なのかな? #あさが来た
結婚もせず家族も持たず仕事第一おあささま第一で還暦過ぎまで生きてきたうめが、昔恋した相手の手を握れた直後に彼を取り囲んで嬉し泣きする家族の絆という「あったかもしれない未来」を見せつけられる展開にはどんな顔していいのかわからない。ひどい。 #あさが来た
生保に繋げるため、雁うめ再会のためのこのエピソードで(もし後でハッピーエンドになるとしても)「うめ辛かったね…でもあの嫁や婿も悪い人じゃないのよね…まぁあんな夫婦は現実にいるよね…あさ新は特別だから…」って感想を視聴者に抱かせて、作り手はどういう顔してるんだろ? #あさが来た
最近、「それでもまれよりはマシ」って評価をちょいちょい見かけて苦笑いしてる #あさが来た TLなんだけど、これ、あさ来たファン、まれファン、どっちが怒るところなんでしょうかよ?
それから新次郎はん! 身内感覚の話し合いとはいえ、”床で”こんな話してるって言いなさんな、たとえ中身が仕事の話でも。”床で”の一言はいらんでしょ。まったく玉木宏が巧くやってくれるからってデリカシーの無いセリフ言わせおって。やらかく話せばゲスな内容OKってわけじゃない #あさが来た
#あさが来た を見てモヤモヤしながら、どんな作品も、人物造形にしろ展開にしろ作りごとなのに、「あざとい」「作為的だ」「登場人物が尊重されてない / 作り手のご都合に振り回されてる」と感じるのと感じないのがあって、その差は何なのか、どううまく言語化したらいいのか、考えてる。
RT ”切ない場面の後は事業の話を挟んでハッピーな恋へと繋がる。この流れがいつものようにバランスが良いですね" うん、どんな作品も軽重や悲喜劇のバランスを考えて作ってあるはずで、あさが来た のそれを好もしく思ってる人も多い中、私は「ひどく作為的だ」と感じてる。なぜなんだろな?
#あさが来た 最近の展開を見るに、このドラマは視聴者の感想をフィードバックすることに腐心してるよね。初期の立ち位置を思わせるあさと亀助、亀助の女子トーク。今週の雁助とうめ。でも雁助とうめは大人どうしの心の通じ合いがよかったのであって、こういうのが見たかったのとはちょっとちがうかな
RT 最近の惣兵衛の「俺の嫁が世界で一番かわいすぎてやばい」もそれだよね。針穴から覗いて妄想膨らませるのが楽しいのに、脚本演出時点でダダ洩れさせすぎてるから「あー、はい、そうですよね…」ってなっちゃう #あさが来た
新あさも惣はつもラブなシーンはわざわざ尺とって感謝を言葉で表明したりたっぷり見とれたりするよね。長年連れ添った夫婦なら、ふとした会話の中にふたりにしかわからない符丁があったり、ふだんと違う面見てうっかりときめいた自分にあたふたしたり、そういう生活に根ざした夫婦萌えはないよね。
RT 日常的に見つめ合って微笑んだりストレートな言葉で愛を確かめ合ったりするのは夫婦萌えのポイントじゃないんだよなー。と思うたちので、せっかく麗しいのにあさ新は残念。国際結婚でスキンシップもりもりだったマッサンとエリーにも、夫婦ならではの「馴れ合い」萌えがあったんだけどなー
帝大生の訪問シーンを盛り上げるためにもあのタイミングで成澤がワケカカメに叫びだしあさが喝を入れみんな集まってきて…って意図はわかるんだけど、成澤とあさの会話の内容がもうちょっとね…花燃ゆの松下村塾で「秀吉とナポレオンどっちが強い」議論する久坂と高杉を思い出した #あさが来た
主な視聴者層が見たい「理想の嫁/娘/孫」のいる「理想の家庭」を描くのが目的で、あとはぜんぶおまけっていうぐらいの作りだなー。
それはそれでぜんぜんオッケーだけど、だったらおまけの部分をこれでもかと強調するのは勘弁して欲しいところ。「本場のお好み焼き!」って看板の店に入ったら、出てきたのがうどんだったみたいなちぐはぐ感。
いわゆる「あったかほのぼのホームドラマ」が受けるなら、余計なおまけなしで素直にそれをやればいいじゃまいかっていう。
RT「あさが来たはホームドラマ。女実業家の仕事ぶりを求めないで」って意味で「そば屋でトンカツ出せと言う客はモンスター」的な喩えをTLで何度か見たけど、ほのぼのホームドラマが目的なら本場っぽい暖簾ださんといてや、とは思うよね。広岡浅子がモデルと言われたらそれなりに本場かと期待もする
この点、マッサンも史実人物ながらプロジェクトXではなく朝ドラらしく「夫婦のアドベンチャー」を掲げ、その通りの物語だったけど、国際結婚夫婦の浮きぶりや、明治に会津から北海道に移った人々の歴史、戦時下の生活など、背景がしっかり描きこまれてたから、ずいぶん印象は違うよな、あさが来たとは
別にビジネスや社会活動はおまけでもいいんだけど、それをおまけにしてホームドラマをメインですってやっちゃうとそこの描写の雑さが目についちゃうのよね、時代ものって。
あんまり比較したくないけど、真田丸なんかは人間ドラマとしての軸なホームドラマにあるんだけど、物語を進行させてるのが歴史パートというか戦国駈引パートでそっちはかなりガチでやってるから、ホームドラマやラブストが現代的でもあんまり気にならんのよね。私は、だけど。
要はベースの歴史劇的なもの(戦争だったり政治だったり文化史だったりいろいろだけど)をきちんと描き込んどけば、他がざっくりでもあんまり「コスプレ時代劇」って言われなくて済むのよね。
激動の時代を多くの人に支えられ懸命に生き抜いた「家族」の物語なら、なにも豪商や実業家じゃなくてもいいじゃんせっかくの素材がもったいない…と思えてくる昨今。
んで、ヒロインの手掛けた事業とホームドラマ恋愛ドラマパートが上手くリンクできてないっていうか、リンクさせようとする試みすら感じられないっていうか。
広岡浅子には女子大学じゃなければならない理由があったけど、あさ来たのあささんは女学校ではなく絶対に女子大じゃないとダメな理由なんてぼかされまくってまともに説明されていないからなあ、何怒ってんの?みたいな #あさが来た
少なくともここんとこのBK朝ドラは取り扱うメインテーマについてもうちょっと真摯だったと思うんよ……
題材テーマを挿げ替えたら物語が崩壊するレベルだった気がするんだけど、あさきたは本当に銀行や炭鉱じゃなくて百貨店でも不動産でも鉄道業でもレストランでもなんでも成立するだろうなーっていう。
いま気づいたけど、あさの元々の目的は「商売で(ご一新で廃れそうな)大坂を盛り上げる」だったのに、いつの間にか「女性の新しい可能性を開く」に変わってて、そのすり替えもなんとなくぼかされてるよね。どうやらあさの幼少時のコンプレックスが動機らしいけど、そこもぼかされてるんでわけわかめ。
炭鉱も銀行も女子大も、ひいてはご一新や徴兵すらも、#あさが来た の世界ではアイテム化されてるな?と感じる。登場人物やドラマ世界に箔をつけたり、わかりやすくドラマを盛り上げるための記号、すげ替え可能なアイテム。アイテムだからそれぞれの事象に必要性も敬意もないんだよね
少なくとも脚本家の「女性を応援したい」は真意だと思うけど、その掘り下げも浅くて類型的な描写に終始してるから「ファーストペンギンの数を増やしていく」より、「昔も今も女は抑圧されてるけど、出すぎず笑顔で謙虚にね、それが賢明であり美徳だよ」がメッセージになってしまってる→ #あさが来た
まぁでも、テーマがそんな事態になってしまっている以上、主人公の仕事とか時代背景みたいな「舞台背景」部分が下手にカッチリ巧妙だと、歪つなメッセージがますます受容されてしまいかねないから、これぐらいゆるふわしてるほうがいいのかもしんない。逆に。
いや。やっぱり違うね。テーマに真正面から取り組んで掘り下げ、主人公の仕事や時代などの舞台背景もしっかり描かれてたら、こういう展開にはならないし、メッセージも違ったものになるはずなんだよな。
あんだけ途中でお口をつままれて遮られてても「登場人物みんなが自分の言いたいことを言っている」と捉えてるんだねー、糸井さんも。行動する女・あさに集中するお口ムギュ仕草は「口ごたえするな」と「口で言う」よりも抑圧的にすら見えるんだが URL
朝ドラのあささんやはつさんに、投影されてるのは、世の中の多くの人が好ましいと感じる良き嫁、良き娘、よき女子社員なんだろな。だから見ててもやもや息苦しく感じるんだわ。
朝ドラの幼いあささんに新二郎さんが赤いパチパチはんをあげるシーン、名シーンだったと思うんだけど、今やあの赤いパチパチはんが、夫に与えられた小さくてかわいい世界に収まってるあささんの象徴になってるよな…
あらーほんと。「開放じゃなくて抑圧」っていうのを象徴してるみたい。「あの赤がダサピンクじゃなくしてる」って言われてたけどもはやダサピンクそのものに見える。なんだか私もあれに希望を見ていた時もあっただけに残念ぽん。
そう思うとあさが大人になっても新次郎のくれた赤いパチパチはんを使い続けている設定は示唆的だな。新次郎のくれた世界に「うちはこれがいいんだす」といつづけてるみたい。開拓者ではなく、置かれた場所で咲いたファーストペンギン。
算盤をおもちゃではなく計算機として使いこなすようになり、小さな算盤ではとても無理な大きな仕事をして広い世界を渡っていって、でも新次郎がくれた世界の象徴である赤いパチパチはんはお守りのように大事にしている女傑あさ。そういう筋が私は好みです。九平次かよ。
これは夫婦の馴れ合い萌えがないこととつながってて、あさきたは人の変化と成長に対する萌えがないんだわ。まあ、サザエ時空ってことなんだけど。でも「教育」って変化と成長のためのものだから喰い合わせ悪いよね。女性の活躍も社会の変化と成長なくしてありえないしね。
特に時代物の朝ドラは、「思えば遠くに来たもんだ」と半年でその人の半生を振り返ってしみじみするもんだけど、カーネーションとかそれがすごくて、あさきたはその対局にある感じ。ずっと老けないし新婚さんのままみたい。まあ少しは変化はあるけれど。
ていうか純愛→ごち→マッサンで懲りて「決して炎上させまい」という決意のあさきたなんだよね。
栄達さんが藍之助を呼び戻そうとするのはわかるしとりあえず弟を見送りに帰るにしても、大実業家あさ夫婦や大銀行の幹部へぇ氏は、別の手立てを講じる素振りくらい見せるべきとこじゃなかろーか。女子大という超エリートコースとの対比で眉山家をこう見せる #あさが来た らしい作為だけどさ
女学校でも高等女学校でもない、女子大の必要性。若者が徴兵されていくことについて「お国のためとはいえ、淋しいな」。登場人物たちのやってることや社会的地位にまったくそぐわない描写ばかり。どこまでもふわふわ気概の無いドラマだなと。むしろそれがウリになってるってのがね #あさが来た
一見「言いたい事」を言っている。けれどもそれは許される範囲内での「言いたい事」なんだよね。今日の帝大生にあさを紹介するための縁側劇場はあさ来たの「お仕事」の描写はこの範囲のものですよ〜ってのをある意味的確に見せていたと思う。はい、スタート!盛り上がったね?撤収〜っていうかんじ。
商売を学びたいと学ぶことに意欲を持っていた甥が、訳はあるにしても和歌山に帰らねばならないことに何も感じてないと言っていいくらいのあっさりなあさの見送りに今更ながらがっかりする。自分の名前が入った札を切なく見つめ、もらっていいかとへいさんに訊ねる藍之助を思うとね #あさが来た
藍ノ介ひとりくらい加野屋の力でなんとかなるだろう、なんなら彼の働きを担保に人を雇う金を貸してもいいんだし。でもやらないよね。今井の家もだったけど。それなら何のための儲けなんだろうな。女子大には金も力もつぎこむくせに、目の前で夢を諦めざるをえない甥に手も差し伸べられないって。
あさ新夫婦はざっくり言うと成功者なんだけど、周囲でそうじゃない人生を歩む人々についていつも何も感じてなさそうなんだよね。それは「何が幸せかはわからない。幸せの形はそれぞれ」ってドラマだからというんだろうが、実際に見てると彼らはとても無神経で冷たい人々のように映る #あさが来た
この状況・年齢でのうめ雁にいそいそお膳立てするあさ新の善意の方向が残念すぎる。で、うめにも眉山家にも全然思いを寄せないよね。「天皇の料理番」の篤蔵が兄や同僚とどう接し思いを受け止めたかを思い出す。成功してゆく者ゆえの無神経や傲慢さは、ちゃんとそれとして描かれてた。#あさが来た
「何が幸せかはわからない。幸せの形は人それぞれ」「うちの生き方はあんたにも負けてない」んなこたぁわかってる。それでも、無念や悲運や残酷な差、報われなさが存在するのが世の中で、それを綺麗な言葉でごまかして思考停止してるように見えて。「切ないね」で終わるなっつの、と思う。#あさが来た
ホームドラマだというけど、喜びも悲しみも表層的というか、人間味が薄いドラマだなーと思う。たまに、うめや藍之助&養之助のようにキャラが本当につらいめに遭うときも、特に主人公夫婦のあっさりポンな対応。自己責任が蔓延する昨今の風潮を踏まえて作ってあるのかな #あさが来た
「やりたいこと好きなように自由に出来る夢」と言わせるために志半ばで諦めさせられる眉山家の人たち。それでも「置かれた場所で咲」けば幸せなんですか。 #あさが来た
親のエゴなのかお金のせいなのか、夢があったのにそれを諦めさせられて田舎に連れ戻されて、それでも笑って幸せを見つけなきゃいけないって、なんで藍の助だけまれみたいになってんの。でもヒロインじゃないから誰もなんとも思わない。可哀想。
藍ノ介は文句ひとついわないで帰ってきたんやでーって栄達さん嬉しそうだけど、まだ自分で決めた&みんな口では「こっちは気にするな」といってくれたぶんまれさんの能登カムバックのほうが救いがあったなあ…
まれさんより酷いと感じるのは、やっぱり親戚がお金持ちでサポートできるだろと思ってしまう点だよなあ…
もっと遠い親戚ならまだしもあんなに近い親族の子に誰も手を差し伸べない薄情さな…。はつみたいに拒んだわけでもなさそうだし、はつさんもひどい親だなあって思ってしまう。
いや、本当に「世の中には学びたいけど学ばせてもらえない女子がいっぱいいるのでサポートしたい!」と言いつつ、学びたいけど学ばせてもらえない甥っ子のことは見て見ぬふりですか?っていうな。学問に男子も女子もないんじゃなかったの?
#あさが来た ひと月前はほとんどこの物語最後の切り札と思っていた雁助うめの握手と抱擁に、案外なにも感じなかった。うめがそう決めていたようにもう二人の物語は、見てる方の中で終わってしまっていたのかな。加野屋の皆が入れ替わり立ち代わり雁助の相手をしたように、あっさりと過ぎていく物語。
昨年12月、ようやく #花燃ゆ が終わった時はよく完走したな自分とある種の達成感があったのだが、年が明けて花燃ゆは月〜土の朝8時からクオリティをちょっと上げて放送されているので、真の完走はもうちょっと先であった。と思うくらい年明けてからの #あさが来た は花燃ゆっぽい。
たぶん #あさが来た くらい巧みにやれば #花燃ゆ もあんな酷評されなかったんでないかな。人情話と萌えの投下がハマれば人気は出るんだなと最近のあさが来た見ると思う。でも朝ドラならOKなことも大河でやられちゃたまらんという意見もあるだろうし、どのみち花燃ゆはだめか。
RT これから第二、第三のあさが来たが、朝ドラや大河で何回か放送されるんやろなあ。それぐらいで古沢良太あたりが登板して何もかもぶったぎった上で苦しくなるほど笑わせちょっぴり泣かせてほしい。
#あさが来た は、あさが大した失敗もなく大実業家になっていく。不自然さはあっても、そこには脱落していく競争相手や、困難にぶち当たる者、夢を諦めた人が同時に描かれ、一つ判断が狂えばあさもこうなったかもしれない、が描かれている。全ては生まれの優位性と万人にひとりの博打運の良さなのだ。
RT その、「一歩まちがえばこうなったかも」な落伍者や苦労人、生まれ育ちに大きな格差のある人に対して、また自分達の幸運に対して、あさ新が何も感じて無さげなのが #あさが来た の良心の無さかと。「自分はラッキーだった」と神棚を拝むようなシーンは、結局そこだけとってつけたような印象。
『あさがきた』たしかに主人公補正が発動してて気になるんだよね。主人公は苦労しつつうまく行く。でも「うまくいかない人生もある」ということを描きたいために、まわりの人に重い運命を背負わせるのって、うまくやらないとその物語と作り手の冷たさが見えてしまう。
主人公は読者の共感を呼べるように、欠点もなくそしていつも幸せな人にしておきたいとして、でもそうではない人を描きたいときにどうするかというのは、わりとデリカシーの必要な課題なのである。
雑誌に載ったPのインタビューの概要なんかをRTで見ると、やっぱりねという気分。驚きはなく、その言葉通りの成果物を毎朝見ているので、新たな憤りというのも感じないんだけど、Pのその企図が、少なくとも視聴率という意味では当たってるのはやっぱり不安だし暗澹としてくるんである #あさが来た
あさが来たをおじいさんおばあさんが好むのはわかるし、その層向け朝ドラも放送されていいと思う(あまちゃんのように高齢層にはわかりにくい朝ドラやることもあるから)けど、私世代…中年層の女性にもだいぶウケてるのを見ると、ホワイトマジックの逆のやつ使われちゃった感に打ちのめされるというか
あさきた。成功させたくて巧みに作っていてそれは実現してるのはいいけど、それが継承されるのは勘弁だなあ
「成功」が目的で「巧みなもの」を作ろうとしていて、その中身はなんでもいいっていうか、「作りたいドラマ」がないっていうか、魂のないドラマよ。
嫌われたくない、話題性のあるキャスティングをしたい、綺麗な画面を作りたい、ほんのちょっとの受け入れられやすいメッセージをほのめかせたい、などそれをいろんな制約で調整しながら実現すること自体はとても大変そう。お疲れ様でした。でもそんなの知ったこっちゃないわな。
序盤のキャラづけとかからわりと成功狙いまくりのあざとさぎりぎりだったけど、テコ入れの方向が「新次郎の活躍」「惣兵衛のはつラブ」「雁助とうめの大人の恋」とかでヒロインの活躍は「ありましたよ」と後付けで言われる感じで、ひとつの作品としてみたときにあまり誠意を感じないのよね…
RTs 「そんなの知ったこっちゃないわな」、ほんとそういう気持ち。やっぱ、作り手の誠意の無さはくそくらえだす級だったんだねえ。あさちゃんが「くそくらえだす」って叫ぶとこは良かったんだけどねえ。
まあでも、批判もあるし、疑問を感じている人もたくさんいるしな。タグには基本、作品を好きな人が大半なわけだから。
私、一時期いた場所で、まーーーったくいろんなことに疑問を持たない集団ってのを見たことがあって、もちろん、つっこみどころか悪口や不満も出さないから、悪いことではないんだけど、それって、抗う気持ちがなくて、すべてに従うことを受け入れてるんだって、そういう人がいるんだって知ったというか
ただ、あのまったく疑問を持たなかった人の中にも、さすがに昨今は疑問を持つこともあるんじゃないかとも思うし、もしかしたら、かつてはいろんなことに疑問を持ってあらがってた人の中にも、もうあらがうのをやめたって人もいるのだろう…
疑うこと、突っ込み、悪口のまったくない集団では、ネガティブな話題は、何かを壊してしまう不穏なものとして避けられる。
抗わないのが美徳ってあさきたみたい。
ストレス軽減のために、TLは私にとってとても平穏につくっているので、目を覆いたくなるひどい言葉はない。それでも「(女が)ギャーギャー言いたてるのはみっともない」と口をムギュッとされつづけている感触はどうしても消えない。あの校長の話も酷いと思ったが、まずは言葉にするのを我慢した。
我慢してやり過ごして、雰囲気を悪くしないようにと、それをまず自分に課してしまう。でも、みんなが我慢してやり過ごして、雰囲気を悪くしないことを優先してきたから、こんなに生きにくい社会になってしまったのではないか。それは我慢してやり過ごすべきことか、毎回、真剣に検討した方がいい。
RT 雰囲気悪くしないように、出すぎて叩かれないように、我慢し、笑顔でやり過ごして、疑問を口にせずむしろ疑問を持たず、置かれた場所で咲くことに甘んじて、それで今のこういう社会があるんだけど、それが賢明であり美徳だよと、それも幸せの形だよと後押しするのが #あさが来た なんだよなあ
#あさが来た 第8週「京都、最後の贈り物」の頃のツイートを読み返してて、今3月まで来てもやっぱりその感覚とほとんど変わってないな(というか、回数を経て補強された)と思った。あのころはまだ、物語としては今よりずいぶんカッチリ構築されてた感もあるが。編集しつつ再掲してみる
1.同じ家に生まれた姉妹はまったく別の環境・生き方になった。あさにはあさの、はつにははつの幸せがある。一見、それで「多様性」を謳っているように見えながら、実は真逆のようなベクトルを感じる物語(主観です)。フォロワーさんが評していた「トップダウン」という言葉を思い出す。
2.「多様性の逆ベクトル」「トップダウンの物語」は、よのやふゆ、かつての菊といった人物たちが「叩かれがち」なTLにも表れているように思う。美和にすら、妾話を自分から断るまでは「あざとい」という評価があった。それは主人公姉妹(と夫たち)が愛され応援されている証左でもあるけれど
3.ヒロインサイドと対立する人物の価値観や人生に向ける眼差しの軽さにも思える。ごちそうさんの和枝やカーネーションの玉枝は、ヒロインと対立している最中もTLで非難されず、むしろ彼女たちの境遇や価値観に視聴者の思いは集まっていた。ドラマが彼女らの人生を尊重して書いてたからだと思う
4.同じことはヒロインの相手役にもいえて、圭太はもとより悠太郎や政春、あの伝説の周防さんにしても、ドラマ内でもTLでも、未熟さや利己的など負の部分はきっちり糾弾されたうえで、それでも魅力的だと愛されていたように思うが、新次郎の負の部分はかなりスルーされて「理想の夫」扱い
5.ヒロインサイドは旧来的・日本的ポリティカルコレクトネスを貫いていて、その「軸が定まった、わかりやすい物語」から「元気がもらえる」として好感されているんだろうが、私はどうしてもソーシャル・インクルージョンから遠ざかる物語のように感じて、この違和感をずっと考え続けている
6.考えるに、1つは「シンプルでありたい」「健全でありたい」「環境に関わらず良く生きたい」という、今の人々の願い(他人にどうあってほしいかではなく、自分がそうありたいという気持ち)を反映できる物語なのかなと思う。あさやはつの姿にその思いを託せるというか
7.現実には先行きが暗くて不安な時代だから、元気で明るい物語が見たい、シンプルに泣いたり笑ったりできる物語が見たい気持ちもあると思う。朝ドラはこれまでもいろんな作風のドラマがあったし、まして今多くの人に支持されてるんだから #あさが来た はこれでいいんだと思いつつ
8.私はそのシンプルさに疑問を感じてる。陰影や襞が足りないと。シンプルは裏を返せば多様性の除去のリスクを負うんじゃないかと思ってる。「それは今回のテーマじゃないから」と言われても割り切れないのは、私が勝手に「最近の朝ドラは社会の多様性を意識する傾向にある」と感じていたからだろう
再掲おわり。当時、多様性との逆ベクトルって書いてたけど、今はそこに「抑圧」って言葉を加えたい。
そして来週はラスト3週目なんですけどサブタイが「おばあちゃんの大仕事」。あさちゃんの大仕事ではなく(笑)。わかりやすいというか、素直なドラマではある。それにしても、あさ来たで称揚されている「やらかい力」とやらのヤバさは、保育園に落ちたから日本死ねとか、女は2人子ども産んで育ててからとか、世の中のいろんな出来事とものすごくリンクしてくる。