『二度寝で番茶』 木皿泉

 

二度寝で番茶 (双葉文庫)

二度寝で番茶 (双葉文庫)

 

 

 木皿泉は、和泉努・妻鹿年季子の夫婦ユニットで、脚本家。代表作に『すいか』『野ブタ。をプロデュース』『Q10』『昨夜のカレー、明日のパン』などがある。最近作は『富士ファミリー』ということになるのかな?

印象的なモチーフやセリフを使い、さみしくてあたたかい、どこか哲学的なおもむきもあるドラマを紡ぐ。一部の(決して少なくない)ドラマ好きの中で、「特別な脚本家」とみなされている一人である(2人だけど)。

本書は、木皿泉初めてのエッセイ集。エッセイというか、夫(大福ちゃん)と妻(かっぱちゃん)の対談という形で進んでいく。雑談のようなていをとりながら、ユニークで、深さや鋭さを兼ね備えた話が繰り広げられて、すとんと日常に着地する。いかにも木皿泉らしくて何度も読んじゃう。「こういう人たちが、ああいうドラマを書いてるんだなー」とも思う。でも、彼ら(の作品)をまったく知らない人が読んでも、きっと、とても面白いです。

読んでいてちょっとびっくりしたのが、「彼らはずいぶん年かさなんだな」ということ。wikipediaなんかにも載ってるし、最近はちょくちょくテレビにも出ているので、彼らの年(和泉さん1952年、妻鹿さん1957年生まれ)は把握してたんだけど、私より年は上にしても、あまり感覚の変わらない人が書いているようなイメージが勝手にあったのだ。

だから、

「子どもの頃はみんな、家の前の道で遊ぶものだった。当然舗装されてはいない」
とか、

「おもてで遊んでいたら、前かけをして財布を握った母親が“映画を観るというのでついていってた。昔の映画はそれくらい気楽に行くものだった。ただし内容は陰惨なものが多かった」
とか、話の中で出てくると、「おおっ」と思う。

それが、単なる昔話、思い出話にとどまらないのが、やっぱりすごいなーというか、(いい意味で)お金をとれる話なんだなーと思う。


●昭和を美しく語る人は多いけど、当時は偏見と差別が当たり前にあった。小学生の頃、妹の友人の家がそれはそれは貧乏で・・・当時はみんな貧乏だったから、その上をいく貧乏だったということで・・・母は、そんな家の子と遊んではいけないと言っていた。それでも妹が遊びに行ったので母が叱ると・・・(以下、面白くて切ないので是非本文を)。

●自分たちが子どもの頃は、家の前やら、よく道で遊んでいた。今は道では遊べない。田中角栄の「列島改造論」で全国に道路が張り巡らされて、道は国の発展のためのものになったんじゃないか。子どもが遊んだり、人が立ち話する場所じゃなく、一刻も早く消費者に商品を届けるためのものに。それで売り上げ倍増して、高度経済成長が実現した。だから、若い人が道で座り込んでると、年寄りは嫌な気持ちになるのかも? 目的地に向かってちゃっちゃと歩け、と。

●陰惨なものが多かった昔の映画の中で、森繁久彌の「社長シリーズ」はとてもモダンだった。そこに出て来る男たちはシュール。宴会と浮気しかやってなくて、生きる悩みも実感も全然ない。「売り上げを上げること」「女にもてること」が男の価値観。戦争に負けて、「男はこうあるべき」みたいな規範が崩れたのでは。お金さえあれば男として見てもらえる、という新しい価値観ができて、今も続いているのでは?学生運動も挫折したし。いくら男気があっても、お金でもって社会的地位がなければ発言できないのが今の世の中。夏目漱石の小説とか読んでると、親戚がお金を借りに来て工面するのに苦労したり、奥さんのことで悩んだり、次から次へと日常の細々したことが起こって、登場人物が悪戦苦闘している。ジタバタしながら面倒を引き受けている。昔は男の人もちゃんと生きていたのだなあと。

●(柳沢厚労相(当時)の「産む機械」発言について)少子化は、1980年代の内需拡大の結果では。「一家に一台」のキャッチコピーが示すように、それまでは何を買うにも家族単位だったけど、アメリカに言われて需要を増やさなければならなくなった。柳沢さんの言葉を借りるなら、「消費する装置の数は決まってるけど、それを無理やり増やした」。需要を家族単位ではなく個人単位に。そうやって欲望を煽り続けて、家族の意味や価値観や機能を全部つぶしておいて、今さら子どもが少なくなったから女性にがんばってもらわにゃ、じゃムシが良すぎません?

●今は「人のために何かやる」ことを時間やお金に換算しちゃう時代。笑いたくもないのにニコニコしながら人にサービスしてお金もらって、ヘトヘトになった体と心をいやすのにお金を払う。その繰り返しだから、タダで何かをやるのがバカバカしくなる。そもそも、「人のために」にいいイメージがないのかも。押しつけがましいイメージ。人のために何かやることも、されることも負担。タダなんてありえないと思ってる。必ず何かと引換なのだと。

(↑この、「何かと引換なのだと」のあとで、夫の大福ちゃんが「ケチむごい世の中ですね。」って言う(書いてある)の がすごくツボだった!!)

 

物事と物事とをつないで考えたり、派生させていったりが、やっぱりすごいなーと思う。今、私が勝手に要約して紹介したので、そこだけを見ると妙にご意見番的に見えるかもしれないけど、本文は2人の対談形式で、とてもエキサイティングで、かつ悲観的ではなく、楽しい気持ちになれるんですよ。

彼らがどんなふうに書いているかについても、あちこちで直接的に触れているので、脚本家としての木皿泉に興味のある人は大変面白く読めるでしょう。特にかっぱちゃん(妻)のほうの荒くれ脚本家ぶりは意外でもあった。すぐに「降ります」と言ったり(本気で言ってるらしい)、「レベルが違いすぎる」「バカがうつる」とか、暴言も吐くらしいです(笑)。それを悪びれず収録しているところが愉快。パチンコにハマっていた時期もあるらしい。人生経験ですな。管理される人生なんて、みたいな話題になったときに

「自分で考えなきゃ。ドラマ書いてるときもそうじゃないですか。プロデューサーが私たちを型にはめようはめようとするのから、いかに逃れていくか、でしょう? 常に考え続けないと、気を抜いたら取り込まれてしまうから」


と言うのが、すごくよかった。そして、もしかしたらプロデューサーが示す安全パイの型に嵌ってしまったのかもしれない、いろんなドラマのことも思い浮かんだ(笑)。いやいや、戦うのは疲れるし、難しいもんね。木皿泉は戦って書いているんだなあ! 

でも、大福ちゃん(夫)が脳梗塞で倒れたあと、介護しながら仕事しているときに彼女のほうはうつ病を発して書けなくなりプロデューサーに泣きつくと・・・って話はホロリときます。

木皿泉の作品にことさら社会派だったり、怒りっぽかったりする印象はないけれど、こういった社会への目線や批評眼、反骨心みたいなものが生かされているんだろう。登場人物たちが抱える「淋しさ」「やるせなさ」の普遍性と、その背景にある現代性。過去から現代へのつながりを彼らは(彼らなりに)捉えて、作品に投影している。その作品に、私たちは惹かれている。

 

 

 

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