『富士ファミリー 2017』
またやってくれてうれしかった。やっぱり好きだ。毎新春やってくれんかな。ささやかな晴れやかさが、お正月ドラマとしてとても気持ちいいのよね。大家族モノっぽいようで、たとえば一人暮らしをしている人が見ても、自己疎外しなくてすむんじゃないかな、ていうような、淋しさを孕んだあたたかさがある。
今回は、「忘れる、忘れない?」の話。人は忘却をコントロールできない。
笑子ばあちゃんは、忘れていた戦時中の白メシのことを不意に思い出す。若くて見目いい男へのときめきを忘れてない。家族みんなのことをちゃんと覚えてる。ナスミのことも。
鷹子はキーちゃんのことを忘れていた。キーちゃんに言ったことも。キーちゃんの予言も。
日出男はナスミのことを忘れてない。忘れられない。それが愛子になんだか申し訳ない。愛子はナスミを忘れようとする日出男にモヤモヤする。ナスミが忘れられるのなら自分だっていつか忘れられるんじゃないか。
ぷりおは忘れたい。先生が起こした事件も。今までの自分の生き方も。でも当然忘れられない。
悲しいけど、忘れる、忘れないは、生きてる人間には、どうしようもないことなんだなあ。でも、「信じる」はコントロールできる。何を信じるかは自分で選べる。
笑子ばあちゃんは、長生きして幸せだと信じる。ナスミとまた会えると信じる。鷹子は夫の「大丈夫」を信じる。日出男は、おじいちゃんになっても若くて綺麗だった愛子を覚えてると信じる(それは、若くて綺麗な時に亡くなったナスミとの並列だろう)。ぷりおはこれからも尊敬し続けると言う。
そして、人はいつでも生まれ変わることができる。「おはぎちょうだい」なんて簡単な言葉ででも。誰かに何かを求めることも、何かを求められることも、どちらも福音なんだ。私たちはすぐに落ち込んで、でもいつでも気を取り直して生きてく。
忘れるか忘れないかを、生きてる人間はコントロールできないけど、死んだ人間には選べるんだ、っていう書き方がユニーク。作家の羽田圭介が演じるテッシンは、すべてを忘れて新しく生まれ変わる。自分で納得したタイミングで「次に行く」ことができるんだね。ナスミは、みんなのことをもうちょっと見ていたいから、まだ行かない。でも、みんなが彼女を忘れたり、みんなが死んでしまったりしたら、「次に行く」こともできる。それは自分の意思なんだよね。生きてる私たちはみんな自分の意思で生まれてきた、と思える理屈になって、面白い。
木皿泉の脚本はもちろんだけど、役者の演技を堪能するドラマでもあるんだと思ったなあ。
鷹子の不安げな表情も、長女としての優しさもいい。高橋克実との長いやりとりはユニーク。ドアを開けたり閉めたり繰り返すのもさ、あれ喋りの中で自然にやるの難しいと思うんだよね。
仲里依紗は、カバーズで司会してるときより、他人になりきって演技をしてるときのほうがものすごく自由に見える。役者ってそういうものか。吉岡秀隆の日出男の、大げさに目を剥いて叫んだり、腰を引いたりする演技もツボに嵌る。日出男と愛子のシーンで泣いちゃったよ。その傍らに黙って幽霊のキョンキョン! すんごい顔してた。羽田さんと一緒だったら俳優がいかに芝居できるかがよくわかる。いや、事前番組で木皿泉が言ってたとおり、羽田さんはあれだからよかったんだと思います。
片桐はいりあってのドラマなのは言うまでもない。息子6歳も笑子ばあちゃんにめちゃめちゃツボってた。作りまくった芝居なんだけど、鼻につかないんだよなあ。おはぎをもってナスミを待ちながら「寒くないか、泣いてないか、しっかりやってるか」みたいなこと言うシーン、泣けた。もう普段は誰からも頼られない、むしろ庇護の対象として見られているばあちゃんの愛。
そして、片桐はいりの作り込んだ芝居とは対極にあるぷりおですよ。でーさん、ものすご自然に「富士ファミリー」に入ってきたなw さすがだww もちろん、あてがきの見事さも大きい。理系男子で、「それはこの地方の民間療法かなんかですか?」とか、西門悠太郎(@ごちそうさん)からいただいたっぽい要素も随所にありつつ、「まだまだ尊敬していたいんです!」みたいな、口語としてはあまりに不自然なセリフは、東出さんの不思議なセリフ回しだから何となく「お、おう、こういう人なんだよね」ってなるのよね! 木皿さんたち、わかってるー!