『あさが来た』 第18週「ようこそ、銀行へ」
新次郎の三味線の音が好きで、道楽にもそれなりに寛容だったあさが、千代の多様性は何で頭から否定するんだろ。母と娘だから?世代の差? そんなの気にしないほうがよっぽど魅力的だし、あさらしく思えるのに。対立させるための対立で、不自然な作劇だなーと #あさが来た
千代との話を重点的にやるんすか…面白くなるんですかそれ商売の話を具体的にやるより…
\早く赤毛のアン翻訳しろー!/
「赤毛のアン」の翻訳さえ始めれば、「自分が子供の時のエピソードがことごとくこの本に書いてある!何これ予言書?!私の人生なんなの!?」ってなるはずだ…そこからは超面白くなるはずなんだ… #あさが来ない
#あさが来ない 品性素行に特段の特徴がないあさに娘と衝突させるには(なぜそれが必須か知らんが)、母娘両方に欠点を与えるしかない。結果として娘にだけ妙に邪険なあさと母への不平以外なにも詰まってないみたいな娘の衝突という不毛なものが続いておるように思えます。赤毛のアンの翻訳まだー?
千代は明治の大店のお嬢様らしからぬ言動だし、かといってあささんの仕事ぶりも大概ゆるふわ描写だったから「お母さんは九転十起してきたのだよ!わかってやって!」って気持ちにもなれず、加野屋とあさの業績を滔々と述べられ「それ本編でやってくれたら説得力あったのに」と思うばかり #あさが来た
サトシ事件(新次郎のゆるふわトラウマ克)、正吉往生、亀ふゆ、五代、雁うめ、そして千代&藍之助←イマココ主人公の情熱や奮闘が描かれる場面が本当に少なくて。あ、東京物語があったけど…あれは情熱や奮闘じゃないよねえ。子供世代との対峙を学校設立に繋げるんだろうけど… #あさが来た
榮三郎が相変わらずいい演技をしてて、商売の実力のほどはいまいち不明にしても、若旦さんもええ按配に貫禄でてきましたな、てな鷹揚な感じがすてき。この人だから義姉とも長年うまくやってこれたんだろうなーって思える。昨日の「うちの家内は勘弁して」もリアルだった #あさが来た
#あさが来た。本編の出来の良し悪しとは全然関係ないけど、食卓が和室でお膳からテーブル&椅子になって、お給仕をするうめやかのが立ってなくちゃならないのが、なんか気になる。2人ともいい年なんだからしんどかろう、座らせてあげてーと思っちゃう。膝を痛めてたりしたら正座もきついだろうけど…
幕末維新で苦労した母(叔母)と、明治生まれの娘(姪)との違いや対立は、#八重の桜 でもやったよね。徳富蘆花(太賀くん!)と久栄(門脇麦ちゃん!)でサブタイ「駆け落ち」。当時はぶつ切りエピソードでモヤモヤもあったけど、今思い返すと、時代感覚の違いはよく描けてたなあと。#あさが来た
八重(江戸生れ)と久栄(明治生れ)の「勉強」の捉え方の差を描いたり、不貞の汚名を着た久栄の母を蘆花が「人間らしい人」と表現し、人間性の発露や個人の尊厳に先鞭をつけたり。 URL #あさが来た は朝ドラだから、そこまで求めるのは酷かな?
西島さん演じる山本覚馬のセリフ「明治生まれか。己の才覚だけで生きていく自由もまた、恐ろしかろう」も、うまいセリフだった。合わせてみると面白い。まぁ、千代ちゃんは、己の才覚だけで生きていかなきゃいけない生まれ育ちでは全然ないわけだけどもね。#八重の桜 #あさが来た
#あさが来た が中弛みしてる、って最近よく言われてるけど、中弛みじゃなくて、今までの積み重ねがないから説得力がない、が本質だと思うんよね。あさちゃんの座右の銘「九転十起」がここまでに描かれてきたならば、娘との対立の見え方も全然違うはずなんよ
「仕事の描写が見たい」という意見に「いやいや、これホームドラマだから」って返すやりとりがテンプレ化してる #あさが来た だけど、私は「 ホームドラマ(朝ドラ)に説得力を持たせるための仕事描写」をしてほしいんだよなー。そのことを言い続けてる。
ごちそうさんをお仕事ドラマだと思ってる人はいないだろうけど、悠太郎の、建築や都市計画への情熱の蓄積が描かれてきたから、満州行きにドラマが生まれた。カーネの糸子も、彼女の仕事ぶりが描かれてきたから、娘たちの反抗や自立を視聴者は身を入れて見られたわけでしょ。
仕事人として・家庭人としての側面は分離してるんじゃなく、どちらも当人を構成する必須要素で、互いが互いに影響を与え続けるわけでしょ。#あさが来た は仕事面をゆるふわ描写し続けてきたから、その辺、白岡あさという人のアイデンティティーがすごく弱いんだよね。今の停滞感の原因はそこだと思う
「萌え」と「泣き」で頑張っきて、とても支持されてきたけど、それだけじゃやっぱり物語の推進力は弱いよねっていう
「いや、今のあさ来たにも全然満足してます」っていう人は、それはそれで各々満足できる理由があるんだろうから、それでいいと思うんですよ全然
土方と対峙したり、蔵を調べたり、帳簿さらって宇奈山に目をつけたりした頃のあさちゃんは、新婚の(ちょっと変わった)若奥様ぶりと、将来の女実業家の萌芽をあわせもっていて、とても説得力があったし魅力的だったよね。だから「この調子でいくんだなー」って想像してた部分もある #あさが来た
@tomosakata 「特に性格はない」って(笑)。身も蓋もないけどそのとおりですね(笑)。あさと新次郎を「おもろい夫婦」として描くのがドラマの主眼のひとつらしいんですが、見た目も関係性も綺麗ではあれ、特に面白みはないですしね…。確かに真田丸の有難さでいろいろおつりが来ます!
キャラの関係性が固定化されていて何も変わらないから「商売の拡大」「九転十起」が肌感覚でわからず「お、おう…」ってなる。家族も仕事も変わっていくものだから、固定化したらしぼむしかない。難しい。
結局、加野屋の中でドラマを展開させてる現状があさというキャラを窮屈にしている気がする。もっとこう、外に出てるあさを描いた方が面白いはずなんだが、なんでかコップの中の嵐ばっかり描こうとする。朝ドラだからしゃーないんだけど。#あさが来た
>RT ごとう屋さんだっけ?銀目手形廃止騒動時の奥さんの店が大阪一になってたと、へぇさんのセリフ+イメージ映像のみで語られるエピ1つに、「脚本が繋がった! あさの仕事が実を結んでた!」って喜びの声が続出するくらい、これまで仕事描写がなかったんだよね… #あさが来た
母娘の確執を念入りに描くのも結構だけど、それならばもう少しあささんの仕事のほうをしっかり積み上げて見せてほしかったなぁ。お仕事のほうはなんかおとぎ話の世界みたいにとんとん拍子にいって、親子関係だけリアルに生々しくやられたんじゃなーとは思う。#あさが来た
物心ついて以降はひたすらムカついてる千代ちゃんと、ひたすら「ダメなやり方」しかしないあさママに、未来思考過ぎる先生の登場とか、千代ちゃん周りの話はご都合優先の作り物感が凄い。(´・ω・`) #あさが来た
玉木宏の演技、ほんに面白いw #あさが来た
しかしまぁ、朝ドラやなぁ。きらきらの時代劇の扮装でやる、割に古いタイプの朝ドラ。朝ドラだからそれでいいんだろうけども。 #あさが来た
お仕事上の注意は、掃除にあいさつに真心。計算間違いに気をつけて。朝ドラやなぁ(朝ドラです)。いや、昨今の朝ドラのお仕事描写の中でもかなり… #あさが来た
しかし、糸子と違ってあさは「本当に悔しい思い」を一回も味わうことなくここまで来ている感じで、それが本当にとても不満。動く歩道に乗ってる感。ずっと拳銃を持っていれば全部理解できるんだけど。
どうしても糸子を思い出してしまうよねぇ。カーネーションは頭で作ったんじゃない、現実の生きる感覚にとても添っていた物語だった。理想とか毒とか、表層的な言葉が無意味に思えるくらい、生きることのみっともなさと美しさがあった。
とはいえ、あさと千代を通じて母と子の在り方や女性の生きる道について感ずるところ考えるところを述べておられるツイートもたくさん見られるので、こんなシナリオでもこーゆー話題は朝ドラでは鉄板だ。だからやるんだよね、何度でも何度でもー #あさが来た
私知ってる。あさは「破天荒じゃないからつまらなくなった」んじゃなく「感じはいいけど特に性格はない」からつまらないんだよねw 昨日フォロワさんと話してたんだけど。銀行がうまくいってるから無理に山場を作る必要ないんじゃなく、ずっと銀行スルーしすぎだから深みがないんだよね #あさが来た
@tomosakata へぇそうだす。皆さん語ってはるんだす。いや真面目な話、ドラマに共感したり逆に反発したりそれを客観視し言語化することで、自己の体験や価値観を再確認したり発展させていくのは物語の効用の一つですよね。朝ドラは(主に)女性にとってそんな役割を果たしてきたのですよね
@tomosakata 私はタグにはネガコメ含め多種多様な意見があって然るべきと思ってますが、「楽しんでいる人」を揶揄するのは失礼ですよね(自戒)。作品への批判やモヤモヤなんかは、真顔でばかり書いてると「いやいやまぁ結局はドラマだし…」なんて思ってふざけた口調で書いちゃったり…
いちいち意識したり言及したりすることはなくとも、「それまでに見たもの」の積み重ねと比較をしながら、人は新しい作品を見ている。新しい作品を生み出すことは、無数の先行作品との無言の戦い。#朝ドラ #大河ドラマ #あさが来た
TLに #あさが来た ご一行さまの豆まきの写真やリポートがたくさん流れてきて、ほっこり楽しい気持ちになれました。みなさんありがとうございます^^
あさは当時相当苦労して仕事してたはずなんだがスルスルっとここまできてしまった印象。ここへ来て女子行員を通して女性の働くことの難しさを描こうとしてるのかな。それよりあさがどれだけ大変だったか見たかったなぁ。 #あさが来た
>RT ほんとそれな。あさがどんなに良いこと言っても薄っぺらいんだよね。本当は無数にあっただろう九転十起の奮闘がほとんど描かれてきてないから、あさの言うこと為すことに裏付けがなく、口先だけに見えちゃう。波瑠さんは口調も中年らしく変えてきてるのになあ・・・ #あさが来た
女子行員を最初に採用したのは史実らしいけど、展開もセリフも本当に類型的なんだよなー。反対する上層部をヒロインの責任感で説得→面接→訓示→新人教育。扮装してるだけで中身はめっちゃ現代的だし、この作品独自というものがない #あさが来た
「男が生きやすい社会。女が間違うとそれ見たことかと後ろ指をさされる。今も変わってないねー」って感想を視聴者に言わせて、作り手は何が楽しいんだ?と思う。ほんとは順序が逆で、今も変わってないから明治時代でもそう言わせてるんだけど、そんなの再確認して「だから頑張ろう」って #あさが来た
普遍性を描いてるつもりなんだろうけど創作の怠慢というか能力の限界に思えるんだよな。現状認識もメッセージもあまりに旧態依然すぎて。二項対立すぎて。でもそれが私が知ってる大森美香ではある。と、自分が書いた『ハングリー!』の感想を読み返して思うなど。以下タグ無しで #あさが来た
主人公の向井理が「普通のレールに乗って就職・結婚していく奴ら」に嫌悪感劣等感を抱きつつ、メジャーデビューを目指してバンドやってる30才、というあまりに古くて類型的な設定だった。なのに自分は母親の脛をかじっている矛盾。その自己批判はものすごくぬるい。それが私が唯一見た大森美香作品
それでこのドラマ、向井理の彼女が国仲さんだったんだけど「バンドやってる(無職の)英介は好きだけど、レストランのオーナー兼シェフになる英介は嫌だ」ってゴネる銀行員、っていう謎の設定だったんだよな。本当に謎なドラマだったよ。終了時の感想 URL
そんな謎なドラマを1回しか見逃さず、しかも見た回の感想は全部ブログに残しているヒマな視聴者は、ええ、私ですw
でも『ハングリー!』は向井さんの流行俳優株価が最高値の時に作られた、いわばPVドラマだったので、ぬるかろうと古くて類型的な設定&展開だろうと、それはそれでよかったんですよ。まぁ演技力の弱さを露呈してPVになりきれなかったので目的を果たせたかどうかは微妙だけど私もほぼ完走したしw
でも #あさが来た はさ、以前フォロワーさんがツイートで喝破しておられた通り「現代を生きる女性を援護射撃するふりをして、実は後ろから撃ちまくってる」と思うからなー。だから毎日ネガツイしちゃうの。嫌な人ごめんね。ちゃんとモヤモヤしたいの。呟くんじゃなくて発言したいの。だからタグ。
あさ来たは、高齢者や男性など力を握ってる人の機嫌を損なわずに、女性の権利主張をするのがクレバーである、という話なんだろうな。今日のあささんの主張が高齢視聴者に受け入れられるためには、すんまへんすんまへんとあさが頭を下げつづけ、男性陣に教え諭される積み重ねが必要だったのでしょうね。
数字は苦手だろう、信頼が損なわれる、女だと間違いがおこる…それを跳ね返すくらいの賢さと馬力と根性のある優秀な女でないと男社会では働けないのは現代も変わらない。男性はとくに賢さも根性もない普通の人でも働けるのに。そこが不平等だからクォーター制が必要なのに逆差別なんて言われる。
女は力のある人間を立ててうまくやれっていうのは、要は浮気は男の甲斐性とか、掌で男を転がすのがいい女みたいな旧態依然なことで、アホちゃうかと思う。もちろん経験や知識など見習いたい人の意見は立てるけど、「女」は「男」や「年長者」を立てないと上手くいかないっていう雑なくくりがおかしい。
普遍性と類型的なのは違うんだよね。類型的に描くと類型を再認識させるだけで、メッセージも教条以上のものになり得ないんだよな。胸に迫る感動がない・物語を使う意味がないし、実質的には退行じゃないのかな。#あさが来た を見てて感じるのはそういうこと。その点、物語から普遍性を導き出すのは→
→カーネやごちはすごくうまかったと思う。オリジナリティあふれる物語の中に、時代性や、登場人物たちの独自性と同時に普遍性もあった。古い時代を、ただ自分の人生を生きてた登場人物たちが今を生きる私たちの背中を押してくれた感じがした。朝ドラでそういうことをやってくれたの。
大阪一の女商人と言いながら、ゆるふわお花畑で優しい人間関係やいろんな幸せを描いた綺麗なドラマなら、それはそれでいいんだけど、実はその中にそうじゃないものが入ってるよね、っていう。旧態依然とした価値観、むしろこれからみんなで克服していきたいよねっていうものが。 #あさが来た
作り手は無自覚なんじゃないかなーと想像してる。「このほうがきっと最大公約数的な支持を得られますよね。たくさんの人に楽しんでもらえますよね」っていう感覚で善意なんだと思うんだけど・・・
たかがドラマにすみませんw
やっぱりちゃんと勉強したいなって思わせてくれたから、まれ→あさ来たの流れにはとっても感謝してるw
『ハングリー!』の自分の感想読んでると、「30歳で音楽をあきらめて新たな夢へ…って、その設定自体が悪いわけじゃないんだけど、モラトリアム期の閉塞感とか挫折感みたいなのを変に織り込んでくるからいけない」って新次郎さんにそのまま移行できそうなこと書いてたw 大森さんの手癖かww
嫌われないように、炎上しないようにと最大公約数的に作るのって現代の特長っぽい。後退とも言えるけど、そうでもしないとどこから矢が飛んで来るからわからないからそういうものにならざるをえないんだな。
>RT そうなの!それそれ! だから、たかがドラマなんだけど、ベッキーを叩きまくるのとかとも繋がるし、「ベッキー叩いてた人は安藤さんのこともめちゃ叩いてたよな」とか、「そういう風潮っていつからだっけ?イラク人質事件?」とか、いろいろ頭の中で考えがつながっていっちゃうんだよね。
あさの謙虚さを美徳だと捉えてる人が、ベッキー叩き関連でのマツコ発言「昔と決定的に違って週刊誌の報道はネット批判に繋がり1人の人間の人生をボロボロにできる」「ネットを含めた世論の形成のされ方に恐怖を感じる」を批判してた。ベッキーは自己責任じゃないか、と。
「柔らかい力」は美徳であり賢さかもしれなけれども、現実には炎上しないため、自己責任を問われないために発揮されることになるんじゃないの? 炎上前提、厳しい自己責任前提の社会。そんな社会を作りたいんだっけ?って。
たかがドラマにすみませんw(再)
「当時の問題は今も変わってない」んじゃなくて、「今問題になってることが当時から続く問題である」かのように見せてるの。それは「この物語は現代にも繋がっている」とか「私達の物語だ」と思ってもらうためのテクニックなのかもしれないけど、あんまりそういう風に感じないのは題材との距離感かな。
でその解決方法がまた「男や年長者の気分を害さないように」だから神経逆なでさせるのよね。
まあぶっちゃけ原案本も初版が88年の雇均法施行直後の意識で書かれてるなーと感じるところはあったのだけど。むしろ「当時と今で変わってない」の時の「当時」ってその88年という感じ。
人と人との関係は少なからず争いを孕むものであり、ときにはしたくない喧嘩を買ってまでやる必要が生じるわけで、ときどき啖呵こそ切るものの大体の場合「すんまへん」と言ってるうちにいばらの方が避けてくれてたんだよなあ、あささん。そういう人に働く心構えを説かれても鼻白む。
素敵で優しい箱庭世界だけど主人公なりに苦しみや悲しみや切実さがあってそれを踏ん張って乗り越えている、だから彼女は私の仲間でこれは私達の物語だ…というのもある。ごちはこれかな、個人的には。何しろ他人の心の中や人間関係の本当のところはわからないから、ある意味リアルだよね。
あさきたは…素敵で優しい箱庭世界の中で展開するのが「年長者や男性のプライドを折らないよう工夫された努力や愛されに特化したキャラクター」であり、そういう造形のものを「さあ、彼女はあなたたちの仲間であなたたちの物語です!」とセリフであからさまに言われると辛いものがある。
あさ来たはねぇ。やりたいことはわかるんだけど、それを実現するための題材選びと、何より筆致に問題がありすぎると思うんだよね。人情劇とホームドラマをエンタメに徹して書けばよかったのに(中薗センセイみたいに)、旧くて安直で思考停止したジェンダー観や社会への眼差しで啓蒙してくるから。
まずもって、「女性の柔らかい力」というキーワードを練って考える能力が作り手に不足してたよね。だからこそ広岡浅子などという、表現したいものとまったく乖離した題材を選んでしまったんだろうがw 結果、「現代女性を援護するつもりが実は後ろから撃ちまくる」ことに。悪気はないんだろうけど…
「一刻も早よ帰らなあかん。この忙しい時期にこないなとこに2人もいててどないすんねん。あんたは大事な男手なのに…」て血肉のある良いセリフだったな。「そないかいらしい恰好して学校行くんやね」も。はつの生活や人生が感じられる。言うのがあおいだからまた豊かな肉付けが。#あさが来た
#あさが来た の親子編(?)は、少なくとも導入部では、朝ドラターゲット層(中年以上)が「親の目」で千代と藍之助を見る作り、親世代に感情移入させる作りに徹底してる。ま、あさ姉妹や新次郎が主演陣だから当然ともいえるけど、この「視点を決めてくれる安心感」がキモなんだよな。優しくて易しい
とはいえ、連れ戻される愛之助が振り返って、あさと女性たちが生き生きと働いている様子をガラス越しに見るシーンにちょっと泣きそうになったわたしであーる。一藍之助にとってあまりにも遠い世界。しかし、TL見ててもこのシーンへの言及ほぼ皆無w #あさが来た
「あさ来たが現代劇だったら多分見続けていないと思う。現代劇だと現実と照らし合わせちゃうから」ってツイートを見かけたこともある通り、(良くも悪くも)綺麗な物語をやりやすくするためだと思います! URL
藍ボンの「本当は商人になりたいのに家の事情でそうなれないもどかしさとか悔しさ」に比べると千代ちゃんの方がなんと言うか年の割に幼いお嬢様が反抗してるだけに見てしまうというか、あささんの否が生ぬるいんよね
それでも、実際はあんまり娘の進路について熱心に考えてるわけではないようにも見えるんだが、表面的には親子の交流があるような書き方というか。そういうところがこのドラマの姑息さだよ。
あさが来た。今週は母娘週と見せかけて嫁姑週なのよねー、という事は、一昨日の、千代ちゃんだけから見ると唐突な、モテるモテないの話から思ってたんだけど、だからって、藍ちゃん諭すのまでよのさんにやらせなくても良いじゃん(T_T)主人公の役割がとことん他のキャラに振り分けられる不思議な作
#あさが来た 年末時点でやまねさんが「周辺要素はみっちり詰まっているのに、核となるはずの部分が空疎に感じられるという意味で、ドーナツみたいなドラマ」と書いておられたが、1月も引き続きそうでしたね。 URL
週タイトルと内容、あってないやんw やっと銀行の話になった…と思ったら、当時の新しいビジネスである銀行業はスルッと成功してて、女子行員を雇うって話。ちょっとした反対を説得して、試験して、面接して、研修して、という選考&育成場面の、なんとも類型的なこと。銀行とか関係ない、ただの接客だし。
つくづく、難しいところ(だからこそ面白いところ)はスルーする、空虚な物語だな、と。なのに啓蒙したさに燃えてるからよろしくないよなーと改めて思った1週間だった。でも朝ドラって昔からこんなもんだっけか。宮崎あおいのすごさが際立つのだけど、そもそも脚本段階からして、眉山家のほうが書きやすいんだろうな。