『花燃ゆ』 18話「龍馬、登場!」



しかし翌日夜、録画を見ました。冒頭で高杉さんが結婚。三々九度を飲む映像だけで、夫婦の会話ひとつもなし。てか雅役の黒島結菜ちゃんのセリフが未だひとつもなし。高杉本人または塾生らからの結婚に対する言及もなし。バカじゃないの?!

なんかいろいろおかしくてだな、このドラマ。

桜田門外の変の映像もなし。井伊の最後のシーンは屋敷の中。「この時期に雪なんて珍しいね。おっ、きれいなお雛さん。今夜早く帰ってくるからこれを肴に飲もうぜ」と奥さんに。見送った奥さん、ややして銃声(?)に不吉な予感を覚えて「旦那様?」と惑う。えーっと、これは・・・(笑)。手抜きなの? 斬新なの? 椿が落ちるのは、先週の紅葉(松陰刑死)との対比・・・とまで考えて作ってるのかしらこの人たちは? フツーに、「落命の暗喩といったら椿ポトッだよね」くらいのノリな気がしなくもない。

で、長州に届いた凶報・・・に、いきり立つ久坂が杉家の中で浮きまくりです。檀ふみお母さんの「奥さんやお子さんはどうしてらっしゃるのかつい考えてしまいます」は、このドラマの性格上、ありだと思いますが、顔色変えた泰造の「おまえ、この企み、知っとったんか?」に、完全にすわった目で「知る由もございません」と答える久坂な!! 

このドラマって、断絶を意識的に描いてはいると思うんだけど、その方向性がまったくもって見えてこないから見ていてすごくイリイリするんだよね。

今回も、文ちゃんが初対面の龍馬に向かって「私たちにとっては単なる寅兄」「ただ起きて食べて寝て、という、ふつうの暮らしに戻ってほしかったのに」「何がいけんかったのか」と切々と語っていたとおり、文ちゃんは幕末男子を育てるどころか、あれほど“志”連呼の松陰先生以下の志の何ひとつ理解なんてしたくないスタンスなんですね。

大河の女主人公の(悪しき)伝統「戦はイヤでございます」も昨今では「さすがにそれやっちゃバカの一つ覚えと批判されるよね・・・」って感じで作り手側が微妙に避けて来る場合が多いんですが、今年は、「戦はイヤでございます」を変化球でやってるというか、徹底的に生活に寄せて語ろうとしている。

普通に起きてごはん食べて畑仕事しておにぎりやらおまんじゅうやら作って“頬げたこぼれる”だっけ?そういうのが幸せなの。ご丁寧に、久坂の「武士の妻だろーが、しっかりせい!」まで即座に否定したもんね文ちゃん、「それが何だって言うのよ、私は子どもを産んで静かに暮らしたいんですっ!」と。

そりゃわかるんですよ、そのとおりなんですよ、でも、視聴率≒作品の質だなんて思ってませんけど、今年の場合、この描き方が成功してないことの証左が視聴率なんじゃないですかね。視聴者は、現実ではそりゃ平穏無事な暮らしを望んでますよ。でも、それを大河ドラマで見たいか?!て言われたら、そんなもんわざわざ見たくないんだよ大河で。そりゃ大河の視聴者にもいろんな層があるから、“歴史のダイナミズム派”だけじゃなく、“等身大の歴史派”とでも言いますかね、朝ドラ大河みたいなのを好む層もあるけれど、どっちにしたって見たいのはエンターテイメント、イコール、カタルシスですよね。

けれどこのドラマで松陰やら久坂やら高杉やらを描くんなら、どうやったって、平穏な暮らしは実現できないわけですよね。文ちゃんは「松下村塾だって、仲良し男子たちが集まって本を読んだりごはん食べたり腕相撲したりするためにやってほしいのであって、志士活動なんてごめんなんです!!」と言いますが、それは無理な相談なんですよね歴史的に。

だからこのドラマでは延々と、「志を持つ男」と「平穏に暮らしたい女(杉家)」との断絶が描かれているわけですけども。そこに作り手の意志が見えないのが、ドラマが面白くない原因でね。

「断絶」って創作作品のテーマとして普遍的なもので、たとえば坂元裕二とか様々なドラマで延々とそれやってますよね。近作『問題のあるレストラン』だって、成功したとは言い難いけど、そこには「俺なりに断絶を描くんだっ!」という強い意志が見られたんですよ、だから惹きつけられた。

でもこのドラマは、「松下村塾の志士たち。その妻や家族たち。・・・を主人公にするならば、女たちは平穏を願っていたはずだよね、それが視聴者に等身大のドラマとして受け容れられそうだよね」って、それぐらいの気持ちだけで作ってるように見えちゃうんですよ。非常にウエメセで書いてますけど、それ以外の描き方を考えつく知性もないし、「じゃあ断絶ってどういうことなんだろう?」って深くつきつめる思考力もなさそうなんですよ、このドラマには。

ただ延々と、男たちは志を追い求め、女たちは平穏な暮らしを望み、ゆえに断絶の悲しみがある、と、延々と繰り返してる。せいぜい、「おまえは笑ってるほうがいい」「おまえだけは見とってくれ」ぐらいの、上っ面のカタルシスしかない。しかも、そーゆー会話を土間で交わすな、あげく抱き合うなっつーの、江戸時代だぞ!!! 

さらに、「志」連呼するわりに、その中身を描く気もない。普段おにぎり食べたり腕相撲したりしてるだけの若造がニッポン国を憂う図の滑稽さ・・・。

藩の重役のお歴々の前で「松下村塾の熱をどうなさるおつもりか!」と熱弁する伊之助も然り。もっともらしいこと言ってるようで中身がひとつもない。周布政之助、長井雅楽、椋梨藤太と居並んでいて、その違いがまったく見えない。そりゃ彼らは等しく(世間一般の知名度的には)歴史に埋もれていくわけですが、だからといって最初から「負け犬サイド」と記号化して主人公サイドにやりこめられるのを見たって全然カタルシスにはならない!! というのは歴史好きサイドの見方なんでしょうけどね。『半沢直樹』ならそれでいいかもしれないが、「それぞれにそれぞれの理があり義があり信がある」と思えなければ歴史ドラマを作る意味なんてない!! 

つーか、政治の場で「彼らの熱をどーするんですか! 以上、具体的案は無し!」って野党の無能・無責任な追求そのものなのに、いっぱしのヒーロー面してる伊之助って・・・w

で、文ちゃんと龍馬との問答に戻るんだけど、龍馬は結局、「伝説化する松陰」の先触れを担ったというか、「死せる松陰、生きる志士たちを走らす」みたいなことを言って、「家族にはつらいだろうけど、死んだんじゃなく自由になったと思えばいいんじゃない?」と慰めたんですよね。それを、このドラマの「断絶するしかない断絶」の答えのひとつとして提示した格好なんだけど、そんなの全然答えになってないような気がしちゃうのは、やっぱりそもそもこのドラマの描く「断絶」に対して納得いってないからなんだろうなー。

サブタイ「龍馬、登場!」って、これで登場ってなんだかなー。登場というより、これはほとんどゲスト出演に近いのでは? だからこんな、実年齢を無視した年くった龍馬になったんだね? 

このまま、「小難しい歴史や政治を避けて等身大の語り口で」と心がけた結果、「テロリストとその家族との間の断絶」の物語を続けていくのでしょーか? 来週の予告を見てるとまだちょっとよくわかんない。