『花燃ゆ』 第16話「最後の食卓」

なんか、江戸護送=死罪みたいな前提で展開していくのが、いかにも「史実ではこれが最後だから、ちゃんとお別れシーンを盛り上げないとね〜」って意図がスケスケで興ざめが否めなかったのだが、サブタイ「最後の食卓」に寅次郎=松陰の姿がなかったのは驚いた。これは一応、編集が間に合わなかったとかではなく、作り手の意図っていうか工夫ってことよね? 

まあ、先週も『塾を守れ!』な内容では全然なかったし、このドラマ、サブタイをその回のキャッチコピーぐらいにしか考えていなさそうでもあるが・・・・

杉家が囲む食卓では、次の季節に実らせる作物の話題で談笑。そのころ護送中の寅次郎は、涙松という眺望ポイントから、今日は大雨で見えない萩の町を心の目で見て「よく見える」と顔を輝かせる。

「寅次郎がいなくても我らは我らを生きねばならない」という父・百合之助の言葉通りの食卓であるし、家族と過ごしたあともなお、「私は私であり続けるだろうか」と、あくまで「自分・じぶん」の寅次郎と杉家の面々の埋められない断絶の表現にも見える。

でも当然、「家族みんな心の中では寅次郎を思っている」のが明白な描写でもあり、時を同じくして、寅次郎は萩の町に家族を見ているのである。雨で見えないけれど、見えるんである。となると、寅次郎のいない食卓でも彼ら家族は繋がっている、という演出なんだろうと思う。

・・・それが、それほど感動的でないのが大いなる問題なんだけどね(笑)。

寡黙で普段は存在感なくて、「地道にコツコツ(別ドラマ笑)」野良仕事に精をだしていて、でもいざというときには息子の不行状の責任をとって切腹する覚悟を持ち、時には鉄拳をくらわして「父を殺してからいけ」とビシッと決めて・・・な、お父さん。今回も、寅次郎を突き放すようで、その実、あるがままを受け止める度量を示している。その系譜は兄・梅太郎にも継がれていて、「公儀に逆らわず大人しく」と言い含めることを拒否した彼は「思うところを述べられないなんて、それは寅ではない」(だっけ?)と、弟の尊厳を尊重するのだった。

一方で母の滝はいつものように笑顔を絶やさずにいたものの、息子の背中を流しながら(もうすぐお別れだから大サービスの、いせやん褌で入浴シーン!!)「また(帰ってきて)話を聞かせてくれますよね」と涙し、未練を見せる。妹の文はさらに未練たらたらで「逃げてください」とまで。ちょい待ち、ここで寅次郎が逃げたら、「あるよ」の獄吏のオッサンのクビはどーなると思ってんだ!!

杉家の男たちは武士らしく覚悟を決めていて、女たちはやはり別離の悲しみのほうに捉われている。という描き方は、以前、高須久子が言っていた「殿方のつながりに女は入れない」を彷彿とさせた。その高須久子は「女がしてあげられること」として彼の手をあたたかな手で包む(魔法使いのまま世を去ったショーイン先生にはこれがギリw)。

文が取り乱してるのも、これが最初の別れだからという意図が作り手にあると思う。これからの幕末、きっと彼女はいくつもの別れを経験するのだ。別れに際しての態度で成長を表現していくんだと思う。・・・でも、そういうのを描くって、朝ドラっぽいよね、と思わずにいられないんだけど。

なんか、いろいろ考えて書いてるんだろうけど、この「作劇上の必要があって」描かれる別離に、ここまで16回ほどもの積み重ねを感じられないのがねー。16回って結構な分量なのに、さほど、絆も葛藤も感じられないんだよね、杉家の中に。仲良しなのも思いあうのも、通り一遍の表現が多かったっていうか・・・。

小田村という人もいましたね。「お前の死が汚されるのは耐えられない」みたいなことを言って涙する、こういうのが大沢たかおの演技の真骨頂だと思うんですが、小田村さんのの役立たずっぷり空回りっぷりしか印象にないので全然感動できないんですね。今回、寿さんが美味しいとこをもってったのは、本当によかったです。彼女と寅次郎との別れはあれしかないなと思わせるものがありました。優香がいい演技をしているだけに、寿のことは大事に描いてほしい。

あと、「詮議のあと、寅はどうなるのですか?」と尋ねる滝さんが笑顔だったのは役者のプランか演出の指示か、うまいなーと思った。内心は不安で仕方がないのに笑っている、滝さんの笑顔って結局そういうものだったのかなと思わせた。

で、ここから恒例の、東出くん大好きタイムですけど(笑)、今回、すごくすごく良くなかったですこと?! 痛切の表情の数々。彼ってやっぱり、見どころのある俳優だなーと思ったのでした。あんなにいい表情するのにセリフ回しがアレっていうのがね、そのミスマッチ感がね、逆に存在感になって、見る者を非常に惹きつけるんですよね(褒めてます)。

「寅兄をもとに戻す本を探して」と、優しくて塾生思いで家族の中にいる兄を求める文に対して、久坂が松陰の志の原点を記した書物を探し出し、結果的に志に殉じる後押しをするのも良い構成だと思った。ここでも、幕末の志士たちと女たちの断絶とが描かれている。で、杉家は曲がりなりにも「我を生きる」を意識してごはん食べてるのに、久坂はその中に入らず、松陰を見送っているんだよね。後を追うように・・・。

・・・まっ、とはいえ、久坂にしろ高杉にしろ、「これ、久坂でも高杉でもねーだろ、そのへんのお兄ちゃんその1・その2だろ」ってのはダメダメなとこなんですけどね。

いくら今が松陰のクライマックスとはいえ、大河ドラマとは群像劇を宿命づけられた枠なのだから(でなければ長編・豪華キャストの意味ないよね?)、こっちでは松陰が生きていて、あっちでは高杉も久坂も生きていて・・・というふうに、すべての人生が説得力をもって同時進行していなければならないのですよ。それが完ぺきにできてたNHK長編として一番に思い浮かぶのが「カーネーション」で、だからあのドラマを傑作と言いたくなるのだ。大河では・・・うーんやっぱり相当遡らないといけないな。

今って久坂も高杉も、別の名前の人物に代えても全然かまわない存在ですもんね。他の塾生たちも同様。藩の面々も、桂さんすらも!! 登場人物、全然多くないのに。どはー