『あさが来た』 第7週 「だんな様の秘密」 ツイートと追記(長文注意)
はつ達の納屋周辺や炭鉱のセットのハリボテさ加減は、「作りもんですから。ファンタジーだから、そのつもりでね。野暮なツッコミはなしよ」って作り手の声明なのかなあ。短期間しか使わないから予算が…だとしても、いくらなんでも昨今のNHKドラマ班にしてはあからさまなハリボテで。#あさが来た
あさのお仕事パートの中でも商才や経営手腕といった部分はかなりファンタジックにきてるけど、「若い女じゃ話にならん」な坑夫たちを、相撲やピストル、プラス!「女のやらかい力」でコマすハッタリ展開は #あさが来た の作風にはしっくりきそう。意外とコマさず、あさちゃん成長パートにするかも?
蔵で棚卸し、帳簿をさらって宇奈山に目をつける、実地検分のため自分で歩くとか、いいディテールもあるんだけど、大店の旦那たる正吉が現時点で「あんたについていく、米屋敷も売る」とまで見込むのがリアリティなくて、こっちはついていきづらいんよな。嫁におんぶに抱っこすぎるだろと #あさが来た
その辺りを近藤正臣の芝居でカバーするのも作り手の工夫で、その工夫は実際かなり功を奏してるけどね。「仕事で大成した女の一代記としてだけでなく、普通の妻や女性としての姿も描いてて素晴らしい」的な見方の人も多いので、朝ドラにおけるお仕事描写は作り手の按配でOKなんだな。 #あさが来た
このへん、描写がどうしても大味になって、視聴者もそれを深く気にしないのは、金融・経営という業種職種も大きいのかもしれないけどね。モノ作りや接客業と違って、見た目のわかりやすさがない仕事だから。 #あさが来た
で今週は、あさちゃんが炭坑で元気よくやってる間に、夫たちの秘密をやるわけだけど、本日のメラメラ五代さんを見るに、彼が秘密を暴くとまではいかずとも、 あさの知らないところでそれを知るぐらいには関わってきそうだね。かなり苦しい弥七の割込も彼のキャラで押す作り手は豪腕! #あさが来た
姉妹どんぶりなんて何のその、の最強よのさん爆発であるが、あの申し出を受けて加野屋に囲われて、衣食住・何より子どもの将来が保障され旦那さんもそこそこいい人だったら感謝する女性だって大勢いたはずで、一概に無礼で無神経な行為じゃないのは賢いはつさんにはわかっている #あさが来た
てか、あらためて、今井屋が自慢の娘に援助しなかったのは私の好みじゃない流れだったなあ。史実通り、はつが今井の妾の娘で、その当時(父の代(から代替わりしてて…とかだったら良かったけど、それじゃあ「今井の両親の子育てが特上だから良い娘たちが!」にならないもんね、ふっ… #あさが来た
「お家のために子どもを!」攻撃に傷ついてたあさちゃんが一転、「日本の明るい未来のために掘って掘って掘りまくりましょう!」と高らかに宣言。エグいエグい。#あさが来た でもついに 朝ドラ名物 ”無自覚の暴力性" を正面きってやるのかな? いや先週の着地があれだったから高望みはすまい…
週タイトル「旦那さまの秘密」は新次郎(彼が出ないと何だか平和だわ…w)と惣兵衛だけでなく、鉱山の男たちも指してるのかな。富田靖子が「夫(坑夫たち)の秘密」=「男たちの弱さ」を知っていて、あさに伝授すると。(もちろんその弱さは坑夫だけじゃなく新次郎や惣兵衛にも通じる) #あさが来た
しかし美和に断られはつにも断られ、ドラマ的にふゆの外堀は埋まったよ! やっぱ栄達からふゆへの「お父ちゃんと呼べ」がきいてくるのかなー。”山王寺屋の娘”に準ずるふゆが、藍之助を連れて見かけ上の加野屋の妾に…。そしたら、ふゆ役13歳の女優さんを玉木宏と絡ませずにすむし… #あさが来た
炭坑は男の仕事と見られるが、初期は夫婦の共同作業であった。狸掘りという掘り方で、掘り出す人を先山、掘った石炭を運ぶ人を後山という。先山を夫が後山を妻が務める事が多く、家内制手工業の体であった。西洋の掘削技術の浸透と、女性の坑内作業禁止の法令が出るまでは続けられた。 #あさが来た
「あとやま」って言葉、時々聞くもんね。大学の近くの古そうな(失礼)焼肉屋の名もそれだった。由来が炭坑かどうかはわかんないけど >RT
提灯でめっちゃ怒られたのに、あんなにすぐ暴発するピストルを懐に入れていたとは、どーいう言い訳をするのかw 刀やピストルで脅す(力を笠に着る)って話以前に、労働環境まだナメてるやんw えらいすんません、ではすまされまいぞ。 #あさが来た
さすがに爆発はなくとも、借金逃れで落ちのびてきたんだから、はつ姉さんたちの家も川が近いとか山際とか、地盤が悪い、災害=死の近い場所に住んでておかしくないし、天候次第で作物は育たず餓えも深刻。おまけに年寄り+女子供世帯。山王寺屋も実はシビアな環境だよね #あさが来た
手紙「それでも女たちは笑顔を絶やしません」で酒飲む男たちを戸口から笑顔で見守る女たちの画がな…。貧しさイコール暗さではもちろんないけど、「貧しさの中の明るさ」の捉え方が、あさの目で見たからなのか、ユートピアちっく。このままいくのかなあ。ところで新次郎こっちに来そうね #あさが来た
しっかし、あさの啖呵にはカタルシスがあるな。波瑠さんがこんなに啖呵の似合う女優だとは思わなかった。願わくば宮崎あおいのも見たいとこだけど、はつさんに「くそくらえだすー!」は無理でしょうか #あさが来た
あさ自身はピストルで脅す気などさらさらない。でも、ピストルを持っているだけで人は怯え、女たちは地べたに額を擦りつけて命乞いをする。力(権力、武力、財力…)ってそういうこと。行使せずとも持っているだけで脅しになりうるし人を動かせる。あさ、持つ者の自覚と責任に目覚めるか #あさが来た
でも同時に、「持っている」ことは、使いようによっては、すばらしいことも成せる。自覚と責任に目覚めたうえで、あさちゃんは生来の明るさと根性、情熱で人を巻き込み、「持っている力」で大きなことを成していく。のですよね・・・ #あさが来た
2.途上国並みの貧富の格差、封建地続きの厳然たる階級格差、不平等な労使関係が存在する時代に経営者一族に生まれたあさは圧倒的な強者なのだけど、視聴者向けになるべく薄めて感じさせないように作っている。ビジネス展開がエンタメにならざるをえないのはそういう事情もあるのかなと #あさが来た
5.フィクションは物語に描かれた時代ではなく、それが作られたいまの時代をおのずと反映してしまうという真実を思うと、天性の行動力を兼ね備えたエリート階層のヒロインが世の中を変えるという物語はいまだから成立するのだろう。少なくとも「おしん」制作当時は考えられない選択かと #あさが来た
6. 富める一族をヒロインに据えたことが気に入らないわけではまったくない。硬直したイデオロギーをもつ世代でもないし。ただ、少々物足りないのだなぁ。ビジネス展開がとりわけ。その理由を考えてみた次第。#あさが来た
確かに、「強者目線」のドラマのほうがウケがいい(何となく、ネット上では)っていうのは今の時代なのかも。しかし、それが共感によるもの(時代物においては、裕福な人のほうが自分に近い?又は、弱者には共感したくない?)なのか、憧れ・仰ぎ見る視点なのか、俺には判断できないんだよね。
逆に、近年の朝ドラの主人公の貧乏描写に対する拒絶反応はどこから来るものなのか。あまりに自分に近いから見たくないのか、それとも貧乏=穢れとしてとにかく自分から遠ざけたいのか。主人公が貧乏なのは嫌なのに、準ヒロイン的な人物が貧乏なのはなぜ平気なのか。
>RT 準ヒロインだから貧乏でも平気なのではなく、はつが「貧すれども鈍せず」で、落ちぶれたことを自己責任であると粛々と受け容れ、なおかつ実家や妹の援助も断り、常に強く賢く誇り高くあるから、視聴者に受け容れられてるんだと思う。そして貧しさの切実さは決して描かれない #あさが来た
んで、案の定、新次郎登場。イヤな予感しかない(笑) 妻は花嫁道具を売っぱらってまで鉱山の購入代金を捻出したというのに、山奥までカゴで来るのにどんだけ特別料金払ったんじゃい。「嫁の稼いだお金で買い物や遊興」はよのさんだけじゃなく新次郎も同様であるw #あさが来た
で、今朝の #あさが来た を見ると、あさは武器の威力(脅迫力)を炭坑の人らに教えられたけど、その不毛さは新次郎から教わるんだな、やっぱり階層の違う人からは学ばないんだなと。武器を捨てて言葉がけをして生身で組み合う。それでフラットであるという描写は美しいんだけどどこか表面的に思える
対話で対峙するには様々な知識や想像力が必要だけど、「明るい日本のために誇りを持って掘ってね、あなたがたが一番偉い」と言うあさちゃんは、坑夫の仕事が命がけの危険を伴うのは変わらないこと、石炭が富国強兵(自分が捨てたつもりの軍事力)につながることにピンときてなさそうで。#あさが来た
加野屋が持ち主になったからって「これまでと給料は変わらない」=彼らの暮らしを主人公が即ひき上げてやれるわけじゃない、と以前明言したのは、現実的で良識的な脚本だよね。へたな話なら「主人公のおかげで俺たちの暮らしが良くなった、ありがとうございます」になるからね。 #あさが来た
武器の不毛をなぜ新次郎が知っているのか?や、今後、富田靖子が何を言うのかって興味はある。あさが猫ちゃんアップリケの代わりに両替屋の基本を教わったように、掃除の代わりに新次郎の秘密を聞きだそうとするうめ。商売の世界に浸かる雁助は貸し借りを持ち出されると断れないんだなw #あさが来た
山王寺屋パートで「持たざる者」のしんどさや「持てる者」の無自覚の暴力性の自覚について扱わなかったから、そういうのはもうやらないドラマなんだな(それが悪いと言ってるわけじゃない)と半分思ってるけど、大学設立のときやるんじゃないか、ってツイートを見てなるほど?と思った。#あさが来た
考えてみたら、はつは貧乏になっても「持てる者」として培ってきた無形資産(親からのちゃんとした愛情や教育、それで得た素直さや賢さや自尊感情)を使えたわけだから、「持たざる者」の話にならないのは道理なのかもしれないな。#あさが来た
あ、その際に、妻へのラブいセリフは収録しないでいただきたいw 結婚前のはOK #あさが来た
さて新次郎の秘密が判明したわけですが、ズコーッ。そんなことかい! 子供時代ならいざ知らず、それで家を飛び出るわけでもなし、商売に関わらずとも30過ぎまで家(店)にいるんだし、遊ぶ先にもいろんな人がいる。酸いも甘いも嚙み分けた大人になるでしょ普通。この作劇は弱くない? #あさが来た
両替商なんてイヤだお金は怖いと言いながら、どんだけの金を使って遊んでるのかと。誰かが働いてくれてるからおめーが働かないですんでんだ。そんな自己矛盾に悩んでる様子もなし。金稼いで食わせていくことがどれほど大変なことか。おめーこそ炭坑に残って働いてみれ、ですよ新次郎さん。#あさが来た
九州行きであさと揉めてた時期に毎晩出歩いて相手と全然向き合おうとせず(年単位で!)、あさが本音を吐露してからやっと「かわいい」だの「心は一番女らしい」だの歯の浮くセリフを吐いたときもこいつサイテーだなと思ったが、マジくそくらえだす級のだめんずですね新次郎さん #あさが来た
ま、でも、よのさんも趣味人(笑)だし、もともと芸事が好きな血はあるんだろうね。しかし成人した健康な男子が働かないで大金使って遊ぶのだけはいっちょまえ、の言い訳としちゃクズですぞー。あと新次郎は芸事の才能あるから、よのさんから微妙センスは受け継がなかったんだねw #あさが来た
「あさが危ない目にあうことには本気で怒る」設定だと視聴者に思わせといて、坑道に入るという危険は気にせず一人でさっさと帰る新次郎さん。それでも視聴者は「カナリアで危険を表してる!」や「来る時と籠が違う!」とかのほうに反応してて全然気にしてない。作り手が優秀なのかねえ。#あさが来た
実際、来たときと駕籠が違う(スケールダウン)とかほんと細かいよね。演出マターかな、脚本段階からかな。相撲では両者に四股名をつけるぐらいのシャレが欲しかったが(もちろん「あさの山」で決まりでしょ!)山の男たちにはそういう感覚はないんだろうね。粋人進次郎はあわわしてたし #あさが来た
「わて、こない見えてもお茶にはうるさいんやで」いや、おまえはそーゆー人間にしか見えないからw ここでふゆをさりげなくクローズアップするとか、ほんとわかりやすい演出だな。「さりげなく親切」な演出も人気の要因よね。さりげないと思わせるのがコツ。「気づけた」って喜びになる #あさが来た
玉木さんは若いときからコツコツ時代劇をやってきて、努力と実力が今作で広く認められて、これから同世代では時代劇方面で抜きんでた一人になるだろうね。しかもアホボンも二枚目も洒落者も荒武者もできるバリエーションの広さ。不惑に向かう俳優としてはすごい武器になるよね。#あさが来た
ということは、雁助がわざわざ「のれん分けなんてとんでもない。ずっと正吉の下で働かせてもらいたい」と言ったのも、当然フラグになるんですよね。#あさが来た
ふう、ツイート転記するのも疲れる量(笑)。今後は省力化する方向で考えよう・・・
※以下、めんどくさい話なんで、お読みになるかどうかは「自己責任」でお願いします(笑)。
さて、ツイート中でも紹介したやまねさんのブログにあるように、「あさが来た」は一言で言うなら「まぎれもないプロの職人芸」で、私も第一週目ですでに泣かされたクチだし今も毎朝楽しんでるんだけど、あまりにも「愛されドラマ」なもんで懐疑的な目で見ちゃう、ってとこです。そうです、『まれ』の反動です。嫉妬です。
『まれ』のどこがダメでどこが不快だったのか、それに比べて『あさが来た』のどこが良かったのか。一方で、『まれ』を大事に思っている人はなぜそうなのか。いろんな人がいろんなツイートしてて興味深かったです。私も、いろいろつぶやいて、「そうか自分はこう思っていたのか」と発見したような気持ちになったり、さらにそのツイートに対していろんな反応があったりして、出してみる/投げかけてみることって有意義。
まれとの比較に限らず、あさが来たの良さについて「テンポが速い」「ストレスが少ない」「元気が出る」という意見をよく見ます。丁寧に言うと「テンポが速い・・・のに説得力も感動あるストーリー展開」「ストレスが少ない=人物造形も話の流れもわかりやすくて納得がいきやすい」「登場人物が魅力的で応援したくなって・・・こっちも元気が出る」とでもいうか・・・。その意見、よくわかります。あさが来たは、ほんとに見やすい。
翻って、まれは見づらいドラマだったなーと思います。それは脚本の問題であり演出の問題でありetc。
そこで私が考えるのは、どんな理由であれ「だから合わない・きらい」と思った人と、「それでも(?)あのドラマが好きだった・しっくりきた・印象に残る」と思った人との違いです。
それは、まれに関心がない(あるいは不快感しかないとか)人にとっては
「そんなの感覚でしょ / わかりきってるでしょ(たとえば脚本演出が拙劣だから)」
って話なんだろうけど、
「欠陥があったとしても自分は大事に思った、それはなぜなのか? そして、なぜそれは他の大多数の人には受け容れられないのか?」ってのは、やっぱり気になるもんです。
まれがOKな人・NGな人、何か共通点があるのだろうか? 朝ドラは日本を代表するドラマ枠で、「枠」の視聴者というのが多いはず。今の社会とのかかわりは? 「枠」の視聴者の傾向は?
そうやって考えたとき、私にはどうしても「自己責任」それに関連して「生きづらさ」って言葉が浮かんできます。いや自分はそんな言葉とは関係なく「まれ」が好きor嫌いなんだ、「あさが来た」が好き/嫌いなんだ、と言う人もたくさんいるでしょう。そんな一人一人に対して「いや、絶対そうでしょ」って言うつもりはありません。自己責任「だけ」が理由とも思ってません。
そこが(見方によっては過剰に)気になるのは、私が普段から、またずっと前から、「自己責任」という考え方に嫌悪感や危機感、もっといえば恐怖感を持っているからだと思います。社会的に弱い立場の人の「生きづらさ」を軽減することはできんもんか、と考えているからだと思います。
このあたりを説明しようとするとそりゃもう長くなるし、自分語りも入るし、何よりまだしっかり分析できているわけでもないし。これから私が自分の人生の中で考えていくこと・・・というか考えたくなくても考えちゃうことだと思います。よって、とても個人的な問題だとも思うんだけど、でも私が現代社会で生きているからには社会的な部分にもまたつながっていくんじゃないかとも思っています。どっちにしても、思うことあればまた書くかも。
あそーだ、あと今回、私、こういう、センシティブなことについて自分の意見書くのって、あんまり怖くなくなってるな、と思った。まったく怖くないわけじゃないけど、なんだろ、友人流にいうと、「私はこういう人間だ、と言ってるだけであって、”こうしてほしい”と言ってるわけじゃない」と私も思えるようになってる。
これは、年を重ねて厚かましくなったというのもあり、”意見出し慣れ” したというのもあり(ママじゃなの経験は大きい)、でも一言で言うと「動くことに意義がある」ってのを前より強く感じてるからだと思う。声を上げること・行動することで何かが伝わる・何かが動き出す可能性があるなら、多少のリスクを払ってもそうしたらいいじゃないか、と思ってるからだと思う。
その「リスク」の中には、「自分の発言/行動で誰かを不快にする・傷つけるリスク」もあります。それで「しまった」と思ったら謝るしかない。いや今さら謝られてもね、ってこともあるだろうし、謝る機会がない場合、そもそも傷つけたことに気づけない場合もある。その代償としては、批判されたり陰で叩かれたり、そっと離れていかれたりすることになるんだと思う。それは甘んじて受け容れるしかない。声を上げる・行動するってそういうこと。
(以下、自己責任推奨部分終わり(笑))
で、こーゆーこと考えるための材料のひとつとして「あさが来た」は私にはとても有用だったんですけど、考える材料になることはあらかたいただいた気がするんで、そうなると、この先、このドラマを見続けるには別のモチベーションが必要になるんですが、果たしてそれが自分の中にあるのかどうか、ちょっと疑問に思えてきた今日この頃。
私、新次郎さん萌えもないしね。中の人には超感心してて、世間の評価も上々だし、今作が今後のキャリアに生かされるのが楽しみですが、私は「新次郎・粋の所作集」ていうスペシャル番組を作ってもらって、それだけ録画保存すればいいかなって感じ)。五代さんは今んとこ面白い当て馬でしかないし。五代友厚の業績をやってほしいと願うのは朝ドラにふさわしくない願いだろうし。「まれと比較しながら見てしまう」っていうのが念頭にある限り、私は職人芸を素直に楽しめないわけなんでね。はてさて。