『お話を運んだ馬』 I.B.シンガー

 

お話を運んだ馬 (岩波少年文庫 (043))

お話を運んだ馬 (岩波少年文庫 (043))

 

 

どんぐり文庫の梶田さんにお借りした本。「エミさんは面白いっておっしゃるんじゃないかと思って」、と紹介してくれました。

大人になってからは少年少女向けのものはほとんどまったく読んでいないのだけど、私に必要な物語はこれかもと思った。書店で平棚に並べてある新進の流行小説を読んでも、ぐっと入り込めるものは少ないし、かといって、傑作間違いなしとわかってはいても、日常生活の中では、なかなか文豪の大作には手が出ないものだ。

小さい子が読む絵本もそうだが、少年少女小説もまた、一般向けの書籍よりは点数(出版数)がだいぶ少なく、よって、ロングセラーが多いようだ。月日の波に洗われてなお残っている作品は、小さな宝珠のように、静かに、変わらない輝きを放っている。話の筋も、文章もシンプルな分、その光はむきだしで、けれどその源は深部にある。子どもがわけもわからず惹かれる物語を大人になってから読むのは、あたたかくて切なくなる、なんともいえない追体験だ。

作者のI.B.シンガーは1904年生まれ、1978年にノーベル文学賞を受賞しているそうだ(知らなかった)。ユダヤ人で、ポーランドの首都ワルシャワで幼年期を過ごし、1935年、ヒトラー政権下のヨーロッパを去ってアメリカに渡る。その後ポーランドでは、300万のユダヤ人がヒトラーによってほとんど絶滅させられた。シンガーは、その人々の命と共に滅びた「イディシ語」で小説を書き続けた。10世紀以来の長い生命を持っていた言語、イディシの存在を私が知ったのは、この物語に出会えたから。

8つの作品が収められた短編集。おそらく梶田さんは巻頭を飾る標題作『お話を運んだ馬』を私にすすめてくださったのではないかと思う。冒頭からたちまち引き込まれた。ナフタリは子どものころからお話が大好きで、長じて相棒の馬スウスが引く馬車に乗って国じゅうを巡り、子どもたちが読む本を仕入れては売る。行く先々でさまざまな話を聞いては、子どもから大人にまで、その話を聞かせても回った。


「いちにちが終わると、もう、それはそこにない。いったい、なにが残る。話のほかには残らんのだ。もしも話が語られたり、本が書かれたりしなければ、人間は動物のように生きることになる、その日その日のためだけにな。」

 


「きょう、わしたちは生きている。しかしあしたになったら、きょうという日は物語に変わる。世界ぜんたいが、人間の生活のすべてが、ひとつの長い物語なのさ。」

 

「物語の力」について考える私に、梶田さんが差し出してくれた「本質」、ひとつの真理。

そう、太古の昔から、きょうという日を物語にせずにはいられないのが人間なのだと思う。喜びも、悲しみや怒りも、驚きやユーモアも、すべてが物語になる。そうせずにはいられないし、誰かの物語に心ひかれてしまうのが、人間。

「人間は動物とは違う」と峻別しておきながら、ナフタリは馬のスウスと連れ添って生涯を過ごす。「スウスには物語がわかるんだ」とナフタリは思っている。一見、矛盾するようだけど、その想像力と愛情とを持てるのが人間なのだろう。

この物語を、子どもたちはどう感じるのかなと思う。子どもに感想を尋ねてはいけないとわかっているけども。

結婚もせず、英雄にも金持ちにもならないナフタリを、淋しいと思うかな。「おかねのためだけではなく、愛の心から自分の仕事をするとき、その人は他人からも愛を引きだすものである。」そんな仕事をいいなと思うかな? 生涯の相棒スウスの存在をどう思うだろう。自分にも欲しい? それとも動物だけがお友だちなんて淋しい? スウスに先に天国に行かれてしまったナフタリに、自分も悲しくなってしまわなかった? 墓地で仲良く眠るナフタリとスウス。2人は幸せだったのかな?

“とんまな人ばかりが住むヘルムという町を舞台にしたこっけい物語”、「ダルフンカ」や「レメルとツィパ」はディテールの数々を子どもが面白がりそう。妖精の話「ランツフ」は、なりはそれぞれ違えど、古今東西にあるのではないかという、人間の普遍を感じさせるお話。

そして、忘れ難い印象を残すのが「ワルシャワハヌカ前夜」と「おとなになっていくこと」で、ずいぶん毛色が違うなあと思ったら、これは作者シンガーの自伝的な作品なのですね。きょうだいがたくさんいて、尊い仕事をまじめにするけれど経済的には恵まれず、貧しい町で倹しく暮らす少年。目立たなくて、たぶんちょっとのんびり屋で、裕福な級友たちからは軽んじられてもいる。

彼は、周りは気づきもしないような小さな冒険をして、しかも失敗したり、自分にがっかりしたり、小さな恋心を覚えたりしながら大人になっていく。それは心躍る物語ではなく、むしろ、はりつめて不安げな、読んでいるほうも心もとなくなるような雰囲気をたたえているのだ。大人として読むと、この少年が物語作家になるのはすごくよくわかる。この感性と、想像力と、そして、劣等感・欠落感が、決して無邪気なだけではない、自分でも気づかないようなさまざまに渦巻く思いを抱えて生きている子どもたちに寄り添う物語を書かせるのだなと。

日常に追われてせわしない母親の「おかしな子だけど、おまえのことはやっぱり愛しているんだよ。」という大いなる愛情を感じて終わる「ワルシャワハヌカ前夜」からしばしのときを経て、「おとなになっていくこと」では、現在の自分の悲しいくらいの幼さと、幼なじみの少女への恋心を自覚し、将来はきっと小説を書くんだと期して終わる。短編2つだけれど、とても大きな物語を読んだ気分。

まだ渦中にある子ども自身に、この物語の不思議さ切なさはわからないだろう、そう思って、なおさらあたたかく切ない気持ちになる私だった。

20世紀前半の東ヨーロッパでの暮らしがいきいきと感じられる描写も良い。