『八重の桜』 第46話「駆け落ち」

先週に引き続いて「内輪のスキャンダラスな話をチャチャッと叙情的にまとめてみました」みたいな話、しかも先週は弱冠23歳で熟した演技力を見せつける美月ちゃんだったけど今週は先週の最後で子どもっぽいウソ泣きしてたあの子やん、と思うと先週よりさらに期待値低ーーーくして見始めたんですがね、これが意外に面白くって。

ひとつは、時代背景。今回、もともとは「明治の青春」てタイトルだったらしく、確かにそれ聞いた時点では「何それ地味、何やるか全然わからん」って思ったんだけど、見終わってから考えると確かに「明治の青春」だったなーと。

今回の事件の当事者たちの言動はもちろん、そこここに「お江戸は遠くなりにけり」てな感じが漂ってましたね。帝国主義の趨勢や徴兵令の改正を話題にし激して盛り上がる者たちもいれば、小説“なんぞ”にうつつを抜かし、ややもすれば本業である勉学を怠る者もいる、エリート校の学生たち然り。「最近の若い子は軟弱なんだ。あんつぁまがあれぐらいのころは藩のために…」と愚痴る八重然り。

軟弱な若者の描き方はいかにも「戦争を知らない子どもたち」ってイメージで、昭和の戦後生まれや、あるいは「ゆとり」といわれる現代の若者にも通底するように描いたんだと思うけど、人間は古代文明の時代から「最近の若いモンは…」と言い続けてきた生き物なので、とても普遍的な話なんですよね。一方で、薩摩だ会津だというのが「国」で、「♪勝手知ったる少ない仲間と敵だ味方だと騒いでる♪(B'z『Pleasure '91〜人生の快楽〜』より)だった時代から、イギリスやロシア、アメリカが仮想敵として本格的に意識され始めているのには、明治という固有の時代の色を感じさせます。

「母親だって人間たい。心迷うときもある。みんな、それば隠して生きとっと。久栄さんのお母上は人間らしか人て思う」蘆花の語る時栄像には近代的な香り。「人間の内面」とか「個人の尊厳」みたいな(←適当に書いてます)。そういうのは、江戸時代には、とんとなかった発想ですよね。武家は殿さまへの忠誠こそが唯一絶対の存在意義…みたいな時代には。

今回、覚馬が「明治生まれか。己の才覚だけで生きていく自由もまた、恐ろしかろう」と言ったとおり、「自分が進む道を自分で決めなければいけない」のは時に自由より不安の多いもので、軟弱に見える明治生まれたちは、旧世代にはなかった苦悩をも背負っているわけで、そういった流れで「人間の内面」とか「個人の尊厳」とかが俎上に上がり始めるのですね。旧世代は「そんなものに拘泥するなんてくだらない」としか思えなくても、新世代にとっては大事なこと、必然なんです。

新世代を「軟弱者」と切り捨てる八重は旧世代、「自由の恐ろしさ」に一応の理解を示す覚馬は旧世代だけど大局観をもつ人物、「新世代だの旧世代だの何それ美味しいの?」的に時代の違いを普遍性にまで落とし込める佐久さん、そして時栄さんへの共感を示す新世代の(しかも落ちこぼれ扱いの)蘆花…という、面白い構図でしたね。

時栄の不義を「人間らしさの発露」と位置づけたのは、今回の白眉だったように思います。前回ものすごくちっちゃくまとめたのが不満だったので、ほんのちょっとしたセリフでしたけど、針小棒大に捉えてしまいましたww

というか、このセリフを言う太賀くんがすばらしくてだね!!! 大河常連役者の太賀くん、今年は「あまちゃん」にも出てましたが、『江』の秀頼役でドラマ的にヒーローのはずの秀忠を完全に食ってた熱演は皆様の記憶にも新しいところだと思います。私が彼を知ったのは2007『風林火山』の竜若丸役で、出番はたった一話ながら、「あのアホ殿(中の人は左團次さん。もちろん超好演)からこんな立派な若殿が生まれるわけない」てのが玉にキズ、てぐらいに立派な若様ぶりで、その悲劇的な末路をいっそう印象的に見せてくれたのでした。思えばあのころまだ14-5歳だったのね…。

今作でもおそらく実質的に一話限りのゲスト出演なのでしょう、もったいないね〜。いや、一話しか出ないからこそ、こういういい役者である必要があるのだよな。猪一郎がいきなり時代の寵児になってて「その過程を見せろよ!」と思ったり、「蘆花ももうちょっと前から出しとけよな〜」と思ったりするんだけど、尺の問題を思えば、むべなるかなといったところでしょうか。てか、八重が主人公で明治編は20話弱しかないって、いったいどういう取捨選択をするのが正解だったんでしょうね?

よし、今作での蘆花は、太賀くんの好演のおかげで、これはこれでいいとして、ここはいっちょ、徳富兄弟を主人公にした大河をあらためてやるしかないな…と妄想を始めるわたくしなのでありました(後述)。

閑話休題。「兄貴に比べたら俺は取るに足らん蘆の花たい。ばってん、俺はそぎゃん花の方がよか」と笑う太賀くんがもう、すごく良くて。なんか必要以上に良いシーンに見えてしまうんですよね(めろめろ)。

そして、今回初めて知ったんですけど、久栄ちゃんは成績優秀で、レミゼを原典ですらすら読んじゃうし、葦の花といえば清少納言の一節がすらすらと口をついて出てくる才女だったんですね〜。面白い。だからそこらへん、もうちょっと以前から描いとけよとは思う。

放送後のツイートで、「作り手は、リツ(エミ註: 土下座回の薩摩っ娘ね)から今回の久恵までは“明治の女性の群像編”としたかったのかな」というものを見かけて、なるほど慧眼!と膝を打った私です。

リツ(過去の恩讐との葛藤)、みね(恋愛結婚)、捨松(アメリカ仕込みの才女、薩摩人 大山巌と結婚)、時栄(不義=近代人的自我の発露?)、そして久栄。こうして見ていくと、いろんなタイプの女性が描かれたし、最初のリツと最後の久栄とを比べると、ずいぶん時が流れたなあという感じがしますね。「やっつけ、ブツ切り、間に合わせ」感の甚だしい明治編に、これは面白い視点を与える解釈ですよね。

私、久栄が「うち、学問が好きや」と言うところがなんか好きで。なんかほんと、隔世の感があってね。覚馬が「管見」で「女子も男子と対等に学ばすべし」と書いたとき、それは画期的考えだった。八重や女紅場の学生はおっかなびっくり、あるいは切実な気持ちで学問を始めたわけです。久栄の時代になると、もう、女学校や、学問は、あたりまえにあるものなんですよね(もちろん、久恵が裕福かつ開明的な家の生まれだからですが)。

でも、そのあとの「おばさま、おおきに」には、やっぱり違和感がありましたね。ていうか、その前からなんだけど。

明治編を「明治の女性の群像編」と解釈できるような組み立て方をしたのは、ひとつには、八重自身が明治において何かハッキリとした歴史的事績のある女性ではないからかもしれません。八重はあくまで覚馬の妹であり襄の妻であり、彼らを見つめ時には支え(時には振り回したww)存在。であれば、その「八重の目から明治を見つめる、描き出す」のを明治編の骨子にしよう、と作り手は意図したのかもしれません。リツに始まる様々な明治の女性たちも、八重を通じて紹介しようと。

もしそうだとしたら、ある部分では、なるほどな、と思えます。「八重の桜」である以上、明治編は中央政局をぎっちり描くのはそぐわないし、何も中央政局ばかりが歴史だとは思いません。地方の歴史、学校の歴史、庶民の、女性の歴史、どんな歴史を描くことにも価値があると思います。「八重の桜」ではOPの最後、無数の女性がピンクの傘をさして桜が咲き乱れるようになりますね。思えば、あれが「近代の夜明けを生きたいろんな女性を描いていきますよ」ってことだったのかもしれない。

けれど、描き方にはやっぱり残念さが残りますね〜。それぞれの女性と八重との絡ませ方は疑問が多かったし、「じゃあ、明治の八重って何をしてたの?」と思い返してみれば「クッキーやらワッフルやら焼く傍ら、土下座したり腕相撲したり兄嫁を追い出したりしていた」という記憶しかないのは、主人公があまりにもかわいそうなんじゃないでしょうか。

明治を「いろんな人物の群像」として描くなら、八重は土下座やら腕相撲やらの(悪いイメージしか残さない単純な)スタンドプレイは慎んで、一歩引いた形で人々を見つめつつ、自らも近代人としての自我に目覚め、葛藤するとかさー。まあ、確かに、史実の八重さんは葛藤キャラではなさそうだけれども(笑)。

今回にしても、「久栄の母親代わりとして」って頑張り方は、なんっか方向性がおかしいんですよね。だって不義事件は久栄が幼子のころだったならともかく、それなりに何でも分かる年頃になってるんだから、母を追い出しといて母親代わりになれるわけないもん。

ユキちゃんとの再会は会津編からの視聴者としてうれしかったし、「迷ったら母親らしくじゃなく、八重ねえさまらしく」ってセリフは、これも「自分らしさ」を大切にするという近代人的感覚が示されたのかもしれないし、見てて単純に良いシーンだったけど、本来、悩むべきは、「どうしたら母親らしくなれるのか・・・・」じゃなくて、「あのとき時栄さんを追い出したのは間違っていたのか…」「許せなかった私、時栄さんの苦しみに寄り添えなかった私は至らない人間なんだろうか…」的なことなんじゃないかね、まずもって。あんつぁまは許そうとしていたのだ。

なんか、そういうことスッパリ忘れたような顔して、「母親になろうとしてるのに反発されて悩んでる私」みたいなそぶりを見せられるとなー。だから毎週ちゃんと見てない人の方が楽しく見られるんですよね、きっと。でもそれって大河としてどうなのよ、と思うよね。

また、みねが唐突に死ぬのは、この時代、死は今よりもっと唐突なものだったろうからと思えるにしても、八重に「久栄をよろしく」と言い残すのには違和感があったよね。あの姉妹にそういう精神的つながりがあった描写はほとんどなかったもん。死を前にしたからこそ湧きあがる思いだったかもしれんけどさー。

おっかさまが、「みねも平馬も久栄も、どうしてみんな母と別れねばなんねーんだ」と慟哭するシーンにはこちらも胸を掴まれました、風吹さんはこの作品で数少ない「ちゃんと年を取っていく人」で、その存在感にはすばらしいものがありますね。そのセリフのとおり、山本家は悲しいさだめに何度も見舞われる。でも、明治編で「山本家(嫁いだ八重も含む)」ってすごく存在感薄いですよね。

みねの結婚も時栄の不義も(←フラグ立ててた割に回収が悪かったから)久栄の反抗期も、なんかなし崩し的印象になってしまいました。家族としての形、互いの関係性を描いてこなかったから。特に、覚馬の存在感が薄すぎる。覚馬ときたら、京都の恩人としての存在感も、山本家の家長としての存在感も薄いってどういうこと。クレジットは二番目なのよーっ!? 「近代の夜明け」的視点から「家」じゃなく「個人」を描くことに力点をおいてドラマを紡いできたということかもしれないけど、近代ってあくまで近代であって現代じゃないですからね〜。

クライマックスでの、蘆花の長台詞。「(前略)俺はそぎゃん人間の本当ば書きたか。書かんと自分じゃおられん。食べるために小説ば書いとるんじゃなか。小説ば書くために食べると!」 こんな“やっつけ感”のドラマの中で、クリエーターの「業」を、ものすごい直球で訴えられると、太賀くんの演技がすばらしいだけに、ドラマ全体とのギャップがありすぎて、一種、妙な心持がしました(笑)

八重が「人がやらねえことをするときはそういうもんかもしんねえな」と返すのは、かつての自分の「やむにやまれぬ心」を思い出し、重ねたからですよね。人がやらないことをやってきた自分だからこそ「ふたりを応援する」という結論を出した。まあ、善男善女をターゲットにしたドラマ的には妥当な落としどころでしょうか。

自分は、あくまで八重は旧世代の人間として突っぱねてもよかったんじゃないかなーと思いましたけど。民治ほど老いたのならともかく、八重はまだまだ現役世代。世代間の断絶ってそう簡単に融和しますかね。蘆花の勢いに気圧されつつも、「事を成したいなら一人でやっていけ。ハナから女を連れてくなんて腰抜けだ」ぐらいのことを言って、久栄を思えばこそ、ふたりを引き離してしまっても良かったのでは(そして久栄にも恨まれて、「わだすはまちがってたんだろうか…」と内省)。のちに蘆花が会津の女たちをモデルに書く作品たちのことを考えても、遺恨が残るぐらいでちょうどよかったように思います。

その他の雑感。

・剛力さん、ユキ役めっちゃ良かったよ。去年の武井さんといい、事務所の売り出し方のせい?でやたらバッシングされるけど、こうして見てると、やっぱり大手事務所が投資を集中させようとするだけの器を感じるよ。

・小説に夢中の東大生たちに怒り心頭のクネ次郎先生。なんか怒り方が兄に似てきたな…と苦笑したのは私だけでしょうか? この弟には、兄に対する劣等感はなさそうだな(笑)。

・「子どもが千人も。おかげで子だくさんの父親になれました」。だからその過程をしっかり見たかった。

・時栄さんに出ていかれたせいかあんつぁまの髭の手入れが…(違)

・清水さんに頬を撫でられるジョー先生の顔の小ささ。

・みね役の三根梓ちゃんはほんと綺麗な子ですね。

・てか、実際、今回いきなり出てきた蘆花がいきなり兄・蘇峰への劣等感を語ったり小説を書いたりしてるのって、歴史に特に詳しくない視聴者の皆さんはどんな感じで見てたんですかね。「ハァ?」て感じじゃなかったかな。

・…ということで(?)徳富兄弟大河について、放送後のマイツイートを書き留めておきます。

今日も安定の八重ちゃんクオリティでしたが、大河常連の太賀くんの好演のおかげで、徳富兄弟が主人公の大河をやれんもんだろうかという妄想が始まりました #八重の桜 #絶対実現しない

太賀くんってまだ20歳なんだねぇ…。風林のときはまだ子どもだったもんなあ…。将来が楽しみですね。毎年のように彼を呼んでるNHKよ、役者に恥じぬ作品をつくりたまえ。

絶縁と復縁とを繰り返し歴史に対してどんな功績があるのかわからない、むしろ罪悪がありそうな気もする兄と、文豪と呼ぶにはあまりにも破廉恥で通俗的な小説を書く弟。…だなんて、良い子なだけが取り柄の大河ドラマの、対極に位置するテーマですよね☆ だがそれが見たい #大河ドラマ #絶対実現しない

ていうか、大河ドラマ化が実現すると、自分が興味ある歴史上の人物の、アクの強いとことか業の深いとことかがことごとく削り取られ、冷めた味噌汁の上澄みみたいな味気無さにされると思うと、むしろ実現してほしくない気にすらなるよね。…週末とびこんできた松陰妹ネタも手伝って相当やさぐれてます。