『八重の桜』 第41話「覚馬の娘」

先週に引き続き、そして先週よりずっと面白かったです。明治史をわかりやすくドラマにする意義をひしひしと感じますね。地方議会、国会、選挙、言論の自由。それらが獲得されるまでにどのような軌跡があったのか、ある意味で(あくまである意味で、ですが)三傑とか源平とか幕末の志士たちよりも、もっと周知されていていいテーマですよね。そう考えると今作での描写だって質量ともに足りないんですけれども、足りないながらも面白さがあるというのはすばらしいことです。

アバンタイトルは、伊藤・岩倉を中心とした政府の面々から。今週は、つとに先週からの連続性が見られましたね。自由民権運動の広がりは国会開設決定を迫っているも、政府は渋っています。全体に、山本兄妹が主人公である以上(そして8月半ばからやっと京都編が始まった尺の制約を考えると)、明治期の政府を扱う時間がこの程度になるのは致し方ないんですが、「なぜそういう態度なのか」をもう少しだけやって欲しいのは先週と同じです。いくつかのセリフを足すだけでもずいぶん違うと思うんですが。

なんか、自分たちの既得権益を守るためだけに、国会なんてとんでもない!て言ってるように見えるんだよね…と思ったら、自由民権運動家となった板垣さんの演説会の様子が、ちょっと、バカっぽいww 勇敢で人情は解するけれどもそれほど頭がよろしくもなさそうな人(婉曲)、ていう前半の描写がここで生きてきたのかwww 民権運動家つっても必ずしもお綺麗なもんではなく、権力闘争に敗れた人がしょうがなくこっちにまわってきてたりもするし、なんのかんの言うて政府に居座ってるほうがちゃんと老獪に見えていて、「おめおめ国会なんて作ったら単純バ(ry に政治を任せることになっちまう」というリスクが、そこはかとなーく、画面から匂ってきていたようなww

西南戦争で国に金がない → じゃあ地方に負担させよう の流れも、あっさりしてるけどすんなり飲み込めるものでしたね。とにかく明治政府は設立当初からド貧乏、というのをもうちょっと前からアピールしてても良かったんですが。まあ、現代日本にしても米国にしても国って往々にしてカツカツなもんですしね。

ともかく、国(中央)の歴史と地方史とが影響を与え合うさまを描く近代以降の歴史ドラマはほとんどありませんから、中央史だけを追っていくドラマより、ある意味、深みが出るわけで、とても興味深いですよね。しかも前近代まで前半で描いているんですから、やっぱり貴重な大河ドラマですよね。前近代から近代への時代の移り変わりに、もちっと力を入れてやってくれたらよかったんですが…。30話代の迷走が悔やまれますね。明治編のお花畑テイストをみんな一緒になってクサしてますが、それって元をたどれば、前夫とのあれこれにやたら時間を割いてたあたりから始まってると思うんですよね。

とまれ、負担転嫁で税の追加徴収を勝手に決めた槇村知事と府議会は烈しく対立。「この逆賊が」とまたも吐き捨てる槇村に、覚馬ではなく周りの議員たちがすかさず「なんやと?!」と色めき立つ、という演出でした。あんつぁまも昔は鉄砲玉だったんですけどね。議員連名で知事の横暴を国に訴えるも黙殺され、知事と国とがグルであると判明。あんつぁまは冷静に次の手。この人も昔はすぐカッカしてたんですけどね〜。

ということで当然、新聞の出番です。そこでは猪一郎もちゃんと出てきます。くまもんバンド登場以来、一貫して、新聞+猪一郎でジャーナリズムの黎明期をしつこく描写してるのは好感ですね。猪一郎があんまり賢く見えないんだけど、それはそれでいいのかもしれないww 徳富蘇峰って日本史選択じゃないと知らない人が多いんじゃないかと思うんで、書き方は大事だと思うんですが、まあ評価しづらい人ですからね〜亡くなってまだそれほど経っていないってのもありますし。

新聞縦覧所、て面白いですよね。新聞片手に息せききって駆け込んでくる無邪気な襄先生をありがとうございました。

で、東京の新聞でまでもクサされ自由民権運動の火に油を注いだ槇村は伊藤に叱られてます。「だって」「だってもクソもない、うまくやれっつってんだよ」「俺は木戸さんから全権を・・・」「いつまでもその名を出してんじゃねーぞクソったれ、元老院という名の隠居所に叩き込むぞ」 ってことで槇村不憫すぐる(T T) 主人公サイドじゃない敵方=権力者サイドも決して一枚岩ではないこと、中央 vs 地方の構図、大久保のころ(草創期)から時代が移っていること、いろいろ感じられる面白いシーンでした。伊藤博文が徹底して悪そうに見えるのは演出なんでしょうか。セリフあのままでも、演技次第で、もうちょっと、伊藤には伊藤の苦渋があることを表現できると思うんだが(セリフがもうちょっと違えばもっといいんだが)、そこは、敵方っぽく「わかりやすく」見せてるんですかね。

苦渋の描写が欲しいのは槇村も同じでしたが、退場回だけあって、こちらは、やや配慮が見られました。伊藤にどやされて策を講じるんですね、先の増税通達は一方的だったので取り消すけど、あらためて増税について議案を提出するので話し合えと。ただし知事には議案を執行する権利があるんですね。要するに段階を踏んで筋を通したけど結果は同じ。むむぅ、やり口が汚いけど、段階を踏んで筋を通せば議会政治は成立してしまうのです。バカじゃなかったのね、マッキー(という配慮)。

でもこっちには新聞があります。「戦いに敗れても義がどちらにあるか世に問うことができる。戊辰のころとは違うんです」。こうして、時代は少しずつ成熟していったんだね…というシーンです。そういう世の中にするために京都という一地方で奮闘・貢献したのが山本覚馬なんですよね。いいシーンだけにもっと盛り上がらなかったのが残念で。

明治以降も会津人に直接的に尽くした山川浩はエラい、会津を見捨て尚之助を顧みなかった山本兄妹は酷い、っていうのはなんか違うと思うんです。人にはそれぞれの事情があり、生き方があるわけで。人を傷つけたり、ある面から見れば薄情だったり、力が及ばなかったりすることもあるでしょう。人間だから。それも含めて、人は必死に生きてるわけです。彼らの誰かを後世の私たちが断罪したり嫌悪感をもったりしてしまうのは、佐幕/討幕のどちらをも単純な正義/悪役にしなかったこのドラマの性質上、もっとも好まれないところだと思うんです。

覚馬は維新以降、少なくとも表面上は会津と距離をおき、今で言う勝ち組になったんでしょうけど、でも彼には彼の格闘があり、世の中に対する成果があった。それを、会津編に惹きこまれていたみんなが、一緒に、素直に、感慨を抱きつつ見届けられないってのは悲しいことですよね。作劇の問題なのはもちろん、見る側の問題…というとちょっと語弊がありますが、歴史を見つめるってことに対するプライオリティが、視聴者の中では低いんですね。「それのどこが問題なんだ」って思う人もたくさんいるんでしょうし、「ドラマをシンプルに(またはキャラやカップル重視で)楽しんで何が悪い」ってのもわかるんですけど、どうなんでしょう。私はやっぱり、歴史…しかも、近現代の歴史(歴史を生きた人々のこと)は特に、自分や「今」との繋がりを感じつつ、みんなで見ていくようになれればいいなと思っています。それはこのドラマがどうこう超えた話になってはくるんですが。

話が本編から逸れましたが、知事が強権を発動しても世論というものがあることを示唆し、あんつぁまは、俺も議長を辞めるからオマエも知事から退けと提案するんですね。その一理あること、また刺し違えの覚悟に打たれた槇村が、「じゃあ、辞めるついでに自由演説禁止の条例を撤廃する」と申し出る。「そうすれば開明派の知事ということで新聞の批判をかわせるだろう」と。するとあんつぁま、ニコリとして「妙案と存じます」。このやりとりが、ほんとに良かったー! のでもっと盛り上がらなかったのが残念で(再)。

「筋通せば文句も言えまい」「だが、新聞がある」「このォッ…!」「俺も辞めるからおまえも辞めろ」「ふっ…痛み分けか…では条例撤廃してやる」

このツーカーぶりですよ。長らく対立してきたふたりが、最後だからこそ、以前、京都の復興を手掛けてきたころの二人三脚に戻る。そこが痛快でぐっとくるシーンなわけじゃないですか。だのに復興期から対立に至るまでの描写が薄くて、槇村が単なる悪役、しかも悪役としても大きな壁でなく、単純な引き立て役みたいになってきたのは残念でした。

覚馬の「敬服してた」ってセリフも上滑りだもん。なんで敬服してたのか、ここではもう、説明しなくても視聴者にわからせないとダメだよね。そうじゃないから、覚馬がなぜ身をひくかよくわからない。小物マッキーのために身を引く必要あったぁ?てな感覚だもん。この回、このシーンに至るまでの描写が十分だったら、きっと、マッキーの「わしはあんたを使ってるつもりだったが、使われてたのは…」「敬服してました」のやりとりは、必要なかったはず。必要ないほうが締まった(このやりとりがあるから、ながら見してる人や、今回たまたま見た人にもわかりやすいんですけどさ〜)。

なんにせよマッキーおつかれさまでした。高島兄は久しぶりの大河だったと思いますが、見映えが良いですね。てかこのシーンの、あんつぁまのデレにやられた! ヘラヘラしてるか困ってるかのジョーもいいし、基本ムツッっとしてるあんつぁまが笑うのもいいですね(でれでれ)。

さて、みねちゃんの恋の顛末ですが、アバンのらくがき、「ワイフ仕入所」ってピンときませんでしたね。同志社の男子学生の犯行なら、女学生たちの威勢の良さを知ってるだろうから、「嫁の貰い手なし」的なことを書いたほうが近いような。あと、八重はこういうとき、女学生をなだめるんじゃなくて、とりあえず一緒にぷんすか怒ってくれていいんだけどな、わたし的に。むしろ女学生が八重の怒りっぷりに引いて「も、もういいですから…」ってなるぐらいで。

みねの恋。これはいらんことはないんです。人間を描けばその背後にある時代も描けるし、同時に、時代を超えた人間の普遍性みたいなものも描けるわけで…。「家族が戦争に引き裂かれた」ってのは本当にそのとおりで、明治前半は華やかな文明開化の時代だけれど、戊辰の長い戦後であり、時代に乗れない人々を振り落としていった大きな変革期でもある。

みねの「3人で暮らしたかった」という思いには、そうだろうなと思いますし、先々週だったか、覚馬・時栄・久栄の家族団らんの雰囲気に入るのを躊躇していた描写を思い出すんですが、逆に、そこだけしか思い出せないってのはありますよね。やや唐突ってうか…。ここまでみねも、お金に不自由しない暮らしを満喫してる感じだったからね〜。そう、この子も籠城戦の一部始終にいたんだったよ、子どもとはいえ…。

「山本家の跡取り」と母から言い聞かされて育った・・・って、そういえばそうだったな、と。明治になってからといって跡取り問題が雲散霧消するはずもないのに、そういうものが山本家に横たわっているとは塵ほども感じない最近だったぜ…。「私はお婿に来てくれる人しか結婚しない」とか日ごろ言っていたのに、伊勢に対する恋心はいや増しに増して…とかいう展開は無理でしたか?

伊勢の父、横井小楠の影も形もないドラマでしたが、まあ一介の青年との純粋な恋愛結婚とするにはこのほうが都合よいわけでね。そのほうが山本家=開明派の表現になるわけで。跡取り問題がドラマに存在する以上、結婚の際に家と家との結びつきみたいなもののに触れないのも変な話なんですが、ま、今さらいいか、どーでも。

覚馬のみねに対する気持ちは、マッキーがらみの暴漢事件で描かれました。あの立ち方、西島さん、良かった…。怒って脱いでたころのあんつぁまを覚えてるから、感慨あるよね…。あのころスバラシイ肉体美を見せたのも、立たない足で立つこの場面のためだったのね・・・(たぶん違う)。みねさんもあれでおとっつぁまの愛を感じてよ、と思うんですが、まあ子どもだということで。

みねに糾弾されても何も言わないところは、本作ではこういう人ですよね。これを潔いととるのか情けないととるかは受け手次第ですね。もちろん何も言わないことは誤解を生む可能性があります。ってことで八重がフォロー。

今回の八重さんはここぐらいで大して見せ場はなかったんですが、全然問題ないじゃないですか。兄に代わって、また生母・うらに代わってのフォロー。うんうん、適役です。

しかし問題は何を言うかだ。「過去は変えられないけど未来は変えられる」…って内容がないよう(泣)。こんな空虚なセリフを考えたのはホントに山本むつみか?! いや、この場面だけが悪いわけじゃないんです。八重の、過去との対峙の仕方に、私は納得いってないんだな、と、この場面があらためて気づかせてくれましたよ。過去は変えられない、未来は変えられる。それは真理ですけど、どういう積み重ねがあって、その言葉にたどり着くかなんですよ。あの場面での八重は、まるで「ユー、過去のことは忘れちゃいなYo!」って言ってるみたいに聞こえてしまったんです。

その辺を掘り下げるのが来週ってことなのかもしれないんですけど、少なくとも、今回の場面でのあの励まし方には、しらけちまったな。自分の結婚観を話してほしかったな。離別や再婚も含めて、「好きな人と一緒にいることの大切さ」。八重だって戦争で家族と、伴侶と引き裂かれた人間だからこそ、その言葉は響いたと思うな。そのうえで、濃い血で繋がっている叔母さんとして、覚馬とうらの分が、そして自分がどんなにみねの幸せを願っているかを話してほしかった。

そう、単なる若い娘のフワフワしたコイバナってだけじゃないんです。山本家の話なんですよね。何も言わないあんつぁまを、大きな愛で包んでいるおっかさま。マタイを読んだり流行りの言葉を知っていたり、みねの恋心も最初に察知したり、それとなく覚馬に心の準備をさせつつ時栄もフォローして、とにかくすごいお母さんなんだけど、結局いちばん大事なのは覚馬なんだよな、ていう優先順位もハッキリしてて、なんかホントのゴッドマザーですよね。絵に描いたような賢婦人や慈母が出てきがちな大河にあって、非常に現実的な、けどすごく賢いお母さんで。

で、時栄がいる。この人はこの人で、覚馬が立たない足で立ってみねを守ろうとするとか、久栄がみねに邪険にされたとか(みね的には単に恋のアイテムをいたずらされたくなかっただけなんだけど)、そういうことでいちいち、動揺したり不安したりする表情を「微かに」見せるのね。あ〜、覚馬は時栄にも、安心させる言葉なんて何ひとつ言ってないんだろうな〜と如実に感じさせる。でも、取り乱すんじゃなくて「微かな」不安の表情ってのがすごくリアル。はぁ〜、この家にはまだまだ火種があるよ、て感じがひしひしとする。谷村美月が惚れ惚れするほどうまいよね。

というわけで、「父さんは何も言ってくれないし、叔母さんは叔母さんで言ってることわかんないし、やっぱりここは時雄さんについていくしかないわ」と決心したみねちゃんです。「何があっても離れんじゃねえぞ!」(なぜなら、俺を見てみろ。)と誰もが心の中で捕捉。「大声でおとっつぁまを呼べ」は、最近の覚馬っぽくはなかったけど、覚馬ってもともとこういう人だったよね、と思えた点ではすごく良くて、やはり晴れ晴れとした気持ちにもなりました。でも、ちょっとさー、ちょっとぐらい、「嫁に出したくない」的なとこ見せてくれても良くない? 「大声で呼べ。」とかっこよく決めといて、いざ出発の日になるとぐじぐじするとかさあ。そこらへん、最近の作り手は、視聴者サービスも足りないと思うの。前半のころの余裕があったらきっとやってくれてた。

唐突だけど、みねちゃん役の三根梓ちゃんスゲーかわいい。っていうか姿がいい。首が細くて長くてね。美人さんになりますよ、彼女は。

そんなこんなしてるうちに、政局はついに動きます。開拓使官有物払下げ事件あ。あったねーそういうの! 黒田清隆は出ないのに大隈重信が出るのは、早稲田創立にもちっとは触れるんでしょうか。大隈の失脚と引き換えの国会の詔書。「2年後(の国会開設)なんてとんでもない、10年後ってことにしよう」。なぜ「とんでもない」のか。当然、今やったら選挙で彼らが負けてまうかなんだけど、なぜ負けたらいかんのか、と、そこをもうちょっと突っ込んでほしいわけです…と、やはり冒頭と同じレベルの願望に行きつきます。そもそも、彼らだって、いずれ国会が必要なことはわかっているんですよね。先進国の仲間入りをしたいんですから。いえ、したいっていうか、「していかないと潰される」っていう危機感をいちばんわかっているのが彼らです。だからこそ将来を見据えて府議会も設置した。

なのになぜ国会はまだ時期尚早かというと、京都には覚馬がいるからいいものの、やはり選挙をする体制が日本に整っていないから。そこを匂わせてくれないと。いかに民権運動が盛んになっているとはいえ、やはり「知る者」と「知らない者」との差がとてつもなく大きい時代なのだから。

そこらへんを山本さんは書こうと思っていたんじゃないかと思うんです、槇村を見てると。「日本という国はまだヨチヨチ歩きの赤子」「だから(エリートが)強い力で引っ張っていかなければならない」そういうセリフを言わせてた。だのに、なんだかんだでスイーツな方向に尺が割かれてるうちにマッキーが退場しちゃったのはほんと残念。今回の「金が足りないから集めなければいけない」という道理もそうだし、近代の黎明期にあらわれた、強烈なリーダーシップで導いていった人物の一人が槇村、という描き方だったと思うんですけどね。

覚馬にグサッと心の臓を刺されてもはや進退窮まる中、虫の息の返す刀で新聞を利用して自分の名声を高めようとした、そんなマッキーはやはり傑物だし、それを知っているからこその、覚馬の曇りのない笑顔だったんだと思います。このように補完をする材料があちこちにあるにはあるので、まだ見捨てたもんじゃないですね。

で、襄が同志社を大学にすると。今までの学校と大学との違いについての説明は次回してくれるんだろーな。ったく、この夫婦は、またニコニコニコニコ見つめあっちゃってさ〜。