『社会の抜け道』を読んで愚考するのこと (2)

最近、自分の中で違和感が強くなっていたことがある。Twitterでちょっと気になるツイートがあると、気軽にその人のアカウントページに飛んでいく私。アカウントページには、その人のつぶやきが、その人のアイコンと共にずらーっと時系列に並んでいるのだが、その中には、その人がRTしたつぶやきも交じっている。RT=Re Tweet(リツイート)=他人の呟きを自分がもう一度呟くことによって、当該つぶやきを自分のフォロワーへ転送、拡散するというTwitterの仕組みね。

アカウントページをのぞいても、その人自身のものではでなく、まったくバラバラのアイコンがずらーっと並んでいる、というパターンがしばしばある。いろいろな人のつぶやきをRTしているということだ。多くは、何か特定の役者やアーティスト、スポーツなどのファンで、同志でつぶやき(情報やネタ)を共有し、キャッキャウフフしたり、時には議論したり…というものだが、そうじゃない場合もある。さまざまな人の、非常に政治的な、しかも強い主張をもった発言が並んでいるのだ。中韓への批判だったり、マスコミや非保守政党自虐史観への批判、保守政治家を礼賛するようないわゆる「ネトウヨ」的ものだったり、政府や行政批判、大企業批判、電力会社批判&反原発だったり、フェミニスト的なものだったり、パターンはいろいろ。

Twitterの使い方は人それぞれだし、フォロワーの数(RTを含めた自分のツイートがどれだけの人のタイムラインに表示されるか)や層も人によって違う。政治的立場のさだまっていないフォロワーにまで、まさにあまねく「拡散」すべくRTしている人もいれば、心に留まったツイートを自分の備忘録としてRTする、という使い方もあるだろう。だから一概には言えないし、私の勝手な推測というか感覚に過ぎないと承知のうえではあるんだけども。

「政治とか世の中とか、わかんない」「興味ないし、わたし頭悪いし」って向きも多い中、何かしら政治的主張を、それも他人の主張を日々たくさんRTするような現象は、一見、「意識が高い」ように見えて、実は「新しい思考停止の形」なんじゃないのかなって思えるときがある。

もちろんTwitterのアカウントページなんて、その人の一部にしか過ぎないんだけれども、何年かの間、いろ〜〜〜んな人のアカウントページを見てきていると(←どんだけヒマなんだw)、政治的なことをつぶやくにしろRTするにしろ、大人の冷静さや客観性(少なくとも客観的であろうとする態度)、柔軟性に拠って行っている人と、そうではなくて、これはヒステリックだな…て感じのする人がいる…と思う。

言霊じゃないけど、人は口にする言葉で自分自身を作り上げていく部分がある。「(口にしたことが)そうであると自分に思い込ませる効果がある」というか。ネット上の発言もそうだし、RTもそう。他人の政治的発言、しかも強い主張を伴うもの(それはよく切れるカミソリのように明晰だったり、胸のすくような表現力だったりもするが、時に非常に断定的だったり、相手をバカにしていたり、捨て台詞的だったりもする)を次から次へと引用することによって、政治観が深まり、成熟していくようには思えない。やっぱりこれも、刺激的なものに飛びついてるのと似てる気がする。

そしたら、この本に書いてあった。「ツイッターを見てると、政治に関してとにかくダメ出しだけしてる人って多いですよね」。それは、昔の社会運動、敵を見つけて火炎瓶を投げるのと同じようなものではないか、と。そして火炎瓶を投げるのは、戦っているように見えて、実はただのガス抜きにしかなっていない、いや、闘ってはいたのかもしれないけど、政治をやってはいない、と。

非難ってわけじゃなく、自戒を込めて。日々のネットの使い方は、自分がどのような人間たるか、ってことにすら繋がるよなあ、と思える昨今なので。折に触れて自問しなきゃなって思ってる。

思うに、ネットって、「情報が氾濫していて自分を見失う」みたいなことがよくいわれるけど、ほとんどの人は、自分の好む情報だけを集めてるんじゃないかしら。関心のない情報にアクセスすることはほとんどない。そして、自分の好まない情報、自分と対立する思想に行き合ったら、無視するか、仲間内で慰めてもらうか(結果的には無視と同じ)、対立思想を自分の中から排除しようとして、自分の思想を強化してくれる情報、自分の代わりに戦ってくれる情報をさらに集める・・・みたいなことに走りがちな気がする。つまり、自分に都合の悪い論を冷静に吟味しようと試みることはほとんどない。(つづく)