『あまちゃん』終わりましたーーー

放送中はTwitterはてなハイクでちょいちょい感想をつぶやいてたんだけど、ブログ記事にはまとめられないまま、半年が過ぎてしまいました。毎朝、放送があって、面白さや感興がどんどん上積みされていくため、まとめるヒマがない感じでした。ネット上ではもちろん、著名な評論家や、多くの雑誌などでも「あまちゃん」のすばらしさが語られ、今さら私なんぞが何をか言わんや・・・ではあるけれど、やっぱり半年間、本当に楽しく見てきたので、何かしら書いてみようかな、という気になって、書き始めてます。

愛すべき登場人物たち、ちりばめられた小ネタ、すぐれた劇中音楽、元気が出てくる作劇・・・いろんな要素があるけれど、「あまちゃん」の魅力の根幹は、「肯定感にみちた作品」ってことがあるんじゃないかと思ってる。直前が、あの「純と愛」だったので、なおさら痛感したことだ(笑)。(「純と愛」のしんどさについては、コチラにまとめてます。最終回の純ちゃんの悲愴感といったらなかったよ・・・)

ええ、もちろん、性悪説をとる朝ドラの方が珍しいんですよ。日本の朝は明るく爽やかなほうがいいと、ほとんどの作り手が思って、そういうドラマ作りを試みてきたはず。でも、じゃあ性善説を、世界の肯定を、力強く貫き、見せてくれる朝ドラばっかりかといったら、決してそうじゃなかったよね。

あまちゃん」の物語には、数多くのテーマ(サブテーマ)が内包されていた。母と子や、家族の関係の再構築。さまざまな形の友情。田舎と都会の対比やそれぞれの問題。落ち武者もとい影武者問題、“地味で暗くて向上心も協調性も個性も華もないパッとしない子”からの脱却など、自己肯定の問題。青春時代からのしがらみから解き放たれ、中年たちが“生き直す”こと。拝金主義やスター誕生の残酷さと、その反面の、生きていくための日銭の大切さ。fフィクションの世界に生きるということ。才能。初恋。そして震災と、その先の日々。

それらのひとつひとつが、朝ドラにおいて、特に画期的だった・・・というわけではないと思う。凹凸のある母親や、家族の愛憎や、簡単に成長しない主人公などは、過去作にも、いろいろ探すことができるはず。ただ、それらを「描ききったな」と思えるドラマは多くなかった。やっぱり脚本家のレベルの違いだよな〜と思っちゃう。ここまで膨大なテーマ(サブテーマ)に挑み、その多くが、見ていて消化不良感なくストンと胸に落ちるってホントすごい。あらためて思ったよ、クドカンは日本の宝だ!

これらの膨大なサブテーマはすべて、「誰もが立ち上がる力をもってると信じる」という大きなテーマにつながってたと思う。東京でいじめられてたアキ。幾度もバリアに拒まれて東京に行けないユイ。25年間、過去に囚われて生きてきた春子と鈴鹿。時が止まったままだった春子と夏の母娘関係。卑屈の塊だった安部ちゃん。報われない男性陣、大吉に正宗にヒロシ(ひとまとめ笑)。ダイバーになれなかった種市。奈落の吹き溜まりのGMT、不届き者の太巻。あまちゃん社会人の水口。倒れた足立先生に疾走した妻よしえ。そして、震災でダメージを受ける北三陸。若い子もオバサンも、パッとしない子も美少女も、男たちも(ひとまとめ笑)、みんなみんな、立ち上がる力を持ってた。立ち上がれた。

ひとりでできたことじゃない。みんながみんな、巻き込み巻き込まれ、ぶつかって、やがて肯定し合い、癒し合った。男を取り合ってた、若くてバカでかわいいアキとユイ。栄光のお座敷列車のあと運命がふたりを分けてからも、ふたりはずっと互いを意識し合ってた。ヤンキー化したユイとの、海女カフェでのケンカ、すごかった。ほかにも、選挙では序列をつけられたGMTメンバー。山の手貴族化してた足立家と、北三陸のゲスくあたたかいい面々との融和。春子と鈴鹿、太巻、三者が三者とも苦しみ続けた25年の関係が氷解するレコーディングルームでの一幕。北鉄を希望にする人々、その思いを乗せて走らせようとする大吉。震災後の夏は長内夫妻のことを挙げて、津波が襲った地に留まる心境を語った。立ち上がる力は、きっと誰でもがもっていて、それは、人とかかわることで引き出されていく。

「主人公が○○屋さんになって・・・周囲とぶつかりながらも・・・やがて結婚して・・・」みたいな、ふわっとしたプロットで始めたんじゃないのかな、て思っちゃうようなドラマたちとは一線を画してた。描きたいことが最初からハッキリしてて、それを描くために、朝ドラっぽいのもそうじゃないのも、膨大なサブテーマや登場人物、エピソードが用意された。そして、手数の多さ、言葉の選び方・詰め込み方、演劇的な見せ方、音楽との融合、パラパラ漫画・・・数々のテクニックを駆使しつつ、普遍的な場面では堂々と王道を行ったりもした。

震災を描くということが前々から注目されていたけれど、作り手が「震災を描きたかったわけじゃない。人生には震災もあるということを描きたかった」と言ったとおり、震災も「みんなが立ち上がる力」を描くためのひとつのエピソードだったと思う。けれどやはり、震災があったからこそ、「立ち上がる力」という大きなテーマが設定されたのだと思う。

そういう意味で、テーマ自体がすごく的確で意欲的なものだった。でも、よっぽどうまくやらないと、そういうのってホントに薄っぺらく寒々しいものになるからね〜。ホント、このテーマに挑んだのがクドカンで良かった。あまちゃんチームで良かったよ、と、今、「八重の桜」を見ながら強く思う…。

肯定感にみちた作品とはいっても、ネガティブな側面がなかったわけではない。エグ〜い場面もいろいろあった。芸能界の残酷さもあれば、田舎の人間がよそもんを嬉々としてクサすような際どい場面もあった。だいたい、登場人物からして、みんな何かしら困った人たちだった。おどおどしてるかと思いきや、時に能天気で自分勝手な主人公、青春時代の傷を引きずって始終イライラしてる母親、言葉が足りない祖母。だが、それでも愛せる、だからこそ愛せる、ってのがクドカンの本であり、チームあまちゃんだった。随所に笑い。そして時折やってくる、涙や、どでかいカタルシス! 

初めてウニを獲ったアキ。梨明日で春子が歌った「潮騒のメモリー」。最初のお座敷列車。20年前に春子を、いま、アキを大漁旗で見送る夏ばっぱ。選挙の順位発表における埼玉ちゃんときゃんちゃん。「潮騒のメモリー」の秘密。夏ばっぱと橋幸夫の再会、無頼鮨での「いつでも夢を」。病院でみんなで歌った「いつでも夢を」。前述した、レコーディングルームでの春子と鈴鹿と太巻。トンネルの先の光景に滂沱の涙を流す大吉と虚無の貌になるユイ。GMTとアキの「地元に帰ろう」。そして、鈴鹿ひろ美の「潮騒のメモリー」。三代前からマーメイド。

クドカンの作家性を存分に生かしつつ、暴走(笑)まではさせなかったPの導きやDの演出、彼らの連携も良かったんだと思う。きっと、三者が信頼しあってたんだろうなあ。そうじゃないっぽい最近の「八重の桜」を見てるので、その稀少さを思うよ。ちょこちょこ大河のグチ挟んですいませんね。他作品をsageて好きな作品をageるなんて無粋なやり方だろうけど、他の作品で「ドラマを作るのって難しいんだな」と痛感すればするほど、あまちゃん(に限らないが)のすばらしさを思わずにいられない。

こまごました小ネタで笑いをとって人気を博したように報じられがちだけど、どっこい、非常にホネのあるドラマでしたよ。あまちゃんを、性善説的な、肯定感にみちた作品というのは、登場人物や、作品世界に限った話じゃない。脚本家やスタッフは、「誰もが肯定されるべき存在であり、立ち上がる力をもっている」というのを全力で信じているだけじゃなく、自分たちが紡ぐその物語が、視聴者に届くことも、全力で信じていたと思う。や、放送開始当初から好評だったから、楽だった部分はあると思うけど。それにしてもブレが全然なかった。視聴者ナメてるな、と思うことが全然なかった。

実際、それで「テンポが早すぎる」「ネタについていけない」と脱落していった従来の視聴者層がいることもわかっていただろうけど、自分たちが描きたいものを優先した。それでいいんだと思う。いろんな作品があって、視聴者がそれぞれ自分の好きなものを選ぶだけの話なんだから。作り手に、こっちがわに迎合してほしくない。迎合の先にあるのは業界の衰退だよ。

ブレないな、とあらためて思ったのは、登場人物をひとりも死なせないという形で震災を描いたことだった。週刊誌の記事にしろ、あまちゃん愛好家にしろ、「震災で誰かが死ぬはず」という前提で見ていたところがある。「この中で誰が死ぬのか」という考えがよぎったことのない視聴者はほとんどいなかったはず。

実際にあれだけの犠牲者が出たのだ。死なせないことは、リアリティを損なって、ご都合主義的な作劇ととられる可能性もあった。でも、敢然と死なせなかった。「あまちゃん」は立ち上がることを描くドラマだから。さすがに、死を扱ってしまったら、残り1か月で「無理なく」立ち上がる姿は描けない。視聴者も、5か月間これほど慣れ親しんだ北三陸の人々の誰かが死んでしまったら、そこに気持ちが囚われすぎてしまう。物語のスピードがそこで止まってしまう。避けたのは、英断だったと思う。

ひとりも殺さない作家は偉大だ、と、昔なにかで読んだことがある。子どもとか動物とか死で感動させるのは簡単なのだ。あまちゃんでは、誰も死ななくても、視聴者はみんな、震災を生々しく思い出していた。惨すぎて目を背けたくなるのではなく、あらためて心を寄せてしまうあんばいで描く手法は、同じくNHKで「その街の子ども」を担当した井上剛Dの力も大きかったんだと思うけど、とにかく圧倒的だった。東京の人間が落ち込んで無気力になるとか、何でもかんでも売名行為にされるとか、そういうことも盛り込んでた。それにしても、「おまえに対する売名行為だ」の決めゼリフのかっこよさにしろ、「不謹慎」から生まれた奇跡の歌声と「三代前からマーメイド」にしろ、立ち上がり方の爽快感がハンパなかった…!

そう、春子・鈴鹿・太巻の過去の真の昇華とか、合同結婚式とか、半分以上が中年祭と化していた最終週。若者部が置き去りにされてる気がしなくもなかったけど、それも確信犯なんじゃないかな、とも思ってる。

朝ドラって、もともとは主婦が見るものだったのだ。放送時間が繰り上がって、通勤前の人が見られるようになったり、録画機器やBS再放送もあるので、かつてとは事情が違うけど、やっぱり中年のための枠だと思う。なのに、主人公はいつも若い女の子で、しかも、従来の視聴者層がそのまま年をとって高齢者層になっていってたりして、それでドラマと視聴者との間に乖離ができていた。それが、一時期の朝ドラ低迷問題のひとつだったと思う。

クドカンは、アキの母に小泉今日子という、かつてポップアイコンだった偉大な中年をもってきて、彼女のイメージを存分に引用しながら、思いきって中年のための物語を書いたんじゃないかなと想像する。ま、自分と同世代だから、書きやすかっただけってのもあるかもしれないけど。でも、わざわざ「若き日の」まで設定して、20余年の月日を経て溶けてゆき、己を確立し、新しい関係が築かれてゆくさまを描くって、あまりに執拗な筆致。クドカンは、自分たちの世代に向けて、このドラマを書いたんじゃないのかな。働き盛りの世代が元気になれば、世界は直に元気になるし、子どもたちはそれをしっかり見てるよね。中年に片足つっこんだ世代としては、このドラマを中年賛歌としても受け取りました。

だから、若者部については敢えて語り残したのかな、という感じもする。ラストシーンはアキとユイで終わって、ふたりは「これから」の象徴なんだけど、現実的に、この子たちこれからどうすんべ、て思わなくもないでしょ。アキにしろユイにしろ種市にしろ、地元アイドル? 週3でスナック? 瓦礫撤去はボランティア?バイト? みんな、いつまでも親がかりの年でもあるまいし…。でも、北三陸のような地方の若者の、それも生々しい現実なのかもしんない。みんなが堅い仕事についたりして心配なく終わったら、そっちのほうが白けたかも。そこらへんは一朝一夕にはどうにもならない問題で、これからは、仕事とかお金とかじゃない価値観で生きていくしかないのかな、て、クドカンも思ってるのかもしれない。ああいう、元気で、かわいい若い子たちが、地方でも心配なく生きていけるようにするってのは日本の課題だよね。大げさな話になったけど。

ということで、やはりとりとめもなくダダ長い文章になりました。まだまだ書きたい気分ではあるが。好きなシーンとか、セリフとか、特にちょこちょこしたものを、忘れないうちに書き留めておきたい気持ちに駆られる。しかし時間が・・・。とりあえず切ろう。今はあまロスっていうか、あま副作用に苦しんでます。とにかく目にも耳にもすごい情報量だったから、半年間これに毎日漬かってたら、もう民放の1時間ドラマとか、最近の「八重の桜」とか、かったるくて見てらんない。リーガルハイよ早く始まって…!