『八重の桜』 第32話「兄の見取り図」

世界陸上開催中につき、雑です。

はぁ〜先週ラストの朝ドラ(うら−みねの別れ)に続き、大河で繰り広げられる本格的な 昼ドラ 劇場だったけど、一話にして片がついて拍子抜けスッキリ。

あんつぁまのこの件については、私、言うほどそこまであんつぁまを酷い男だと思ってないんですよね。そもそも当時、お武家のもとに通って世話する若い女とくれば、それって手をつけて当然…とまではいかなくても、 「手をつけられても仕方ない」ぐらいの通念だったと思うし。まあ、そのあと、うらと時栄とをどんなふうに同居させるつもりだったのか、って考えるとうすら寒いもんはありますが、あのあんつぁまなら、それでもなんとかかんとかうまくやったんじゃねーか、て気がしてくるのが怖いですね。

てか、時栄が完璧にいい人、てか、家事全般完璧で、うらさんと同じスキルもってるー! や、当時の奥さんってのはそういうもんだったんだろうけど。考えてみれば時栄さんもつらいとこなのよね。そういう社会通念だった以上、「手を付けられても仕方ない」っていうか、逆に、手をつけられなかったらもっと悲惨だったかもしれないよね、だってドラマでは最初からあんつぁまにホの字(死語)だった時栄ちゃんだけど、大垣屋に言われて覚馬(逆賊会津人)の世話をしていた以上、実際に手をつけられなくても世間は「逆賊に手をつけられた女」として見ただろうし、そうするとお嫁の行先にも差し支えたかもしんない。結局、あの時代の経済力ある男にとって、女を「囲う」って甲斐性というか、責任とってることでもあるもんね。

時栄ちゃんにしても、17,8で、経済力はあっても目と足の不自由な旦那をもって、赤ん坊もいて、そこに姑と小姑がやってきてさ〜かなりしんどいよね。家の中に、まったく違う方言を喋り、まったく違う文化で育った人々(姑と小姑だから目上にあたる)がやってきて居座るって、現在だって相当なストレスだわな。みねちゃんが反発したりおっかさまを恋しいと思うのも当然なんだけど、みねちゃんに「堪忍え」と言って泣く時栄ちゃん自身、自分の意思で自分の身を処することなどできない、か弱く力なき女子だし、10代前半…それこそ今のみねちゃんぐらいの年齢から奉公に出てたことになるわけだから、実家だってきっとそんなに恵まれてるわけじゃないよね。

そしてあんつぁまだけど、目が見えない&足が不自由&逆賊会津人っていうトリプルパンチは想像を絶するものだよね、あらためて。会津戦争ではもちろんみんなが塗炭の苦しみを味わったわけだけど、会津のために何もできない、家族や友もみんな死んだかもしれない、そのとき両目に光がないってことはさ…「それでも変わらない空」すら見ることができないってことだよね。己の運命を呪っただろうね、見えなくても足があれば、力尽きるまで駆けて会津に戻りたいと思ったこともあっただろうね。そういうあんつぁまの苦しみをすべてほかしといて、最初に「花は愛でることができるな、ふっ」とか言わせた脚本演出がすごいよな、そこで色気ダダ洩れする西島氏もすごいよな!!! 

ゼェハァ。あれ? 一部煩悩が染み出てきましたが、そういうもろもろを考え合わせると、風吹さんの言う「何もかもめぐり合わせだ」って言葉は、うらさんを思えば残酷ではあるんだけど、やっぱり頷けるんですよな…。若いうちは、大人が運命を受け容れる姿を見て反発したくなったりするけど、長く生きていると、良きにしろ悪きにしろ、本当にめぐり合わせだよな、と思う場面はあるもので、自らも夫と息子を戦争で亡くした佐久さんが口にする「めぐりあわせだ」には他人事感はまったくない。切ない。

佐久さんは目立つことはないし、ドラマ的「パーフェクトな母」というわけでもなく、すごく普通のお母さんなんだけど、普通の、すごく賢いお母さんなんだよね。覚馬に対しては母の贔屓目が窺える部分もありつつ、うらが嫁に来た時も、時栄のことも、彼女たちの美点をよく見てる。ドラマでもチラッとやってた「会津に種痘の習慣を広めた」ってエピソード(史実らしい)があったけど、事実、そういう賢さのあるお母さんだから、覚馬と八重のような兄妹が育った部分や、年をとってから京都に移住してもうまくやっていけた部分があるんだろうなーと説得力がある、佐久さん像。みねがうらの赤い櫛をさしたタイミングで「みんながそろった」と改めて言って、時栄に家族の食事の席(覚馬の妻の席)に座らせるとこなんざ、大したもんだよ脚本演出も!!!

今日は八重が覚馬に対する信頼を取り戻す過程がポイントだったんだけど、そこで時栄が一役かう、ってのも良かったなあ。一言もなく、ただ、兄と妹の手と手を結びつけるってのが最高。んで、八重が覚馬に「あのとき(会津戦争)にいなかったあんつぁまにはわからない」と、“それを言っちゃおしまいよ”ってことを正面切って言うわけですが、彼女のああいうキャラにもまったく違和感がなくてね。思ったことをそのまま言っちゃう、ていう、良くもあり悪くもある八重の特徴だよね。本当に、人間関係が修復不可能になってもおかしくないぐらいむごいセリフなんだけど、そうやって感情をぶつけあうことのできる兄妹だったともいえるし、ともかくあんつぁまの器がハンパない。

ひどいこと言う妹を一言も責めず、言い訳もせず・・・人に言われるまでもなく、「あのときいなかった」ことで彼がどんなに自分を断罪してきたか、ってことだよね。てか、あのときいなかったのも本当にめぐり合わせで、覚馬のせいじゃないからね(ドラマではなんか一人で先走って捕まった、みたいな描写になってたけども)。とりあえず前に向かって進んでいるけれど、彼の心の闇は、八重にも、時栄にも、誰にもわからないんじゃないかな…それぐらい深い影、凄味を、西島さんが醸し出してる。前半の、気のいい暴走あんつぁま思い出すと別人のよう。すごい。

黒谷(元)本陣での兄妹シーン・・・ちょっと泣きそうだったよ・・・。京都守護職時代、あの人もこの人も健在で、その頂点に、青白く気高い殿が鎮座していた時代・・・AIZ48の時代ね・・・本当にはるか昔に感じられて・・・。

ちょっと戻って、最初にあんつぁまが本を読めと渡したとき。書庫みたいな暗い部屋の中、八重さんの開く「万国公法」に、外からの光がさすんですよね。まあ、部屋が暗いからせめて明るい窓?に向かって本を開いた、てだけの話なんでしょうけど、その絵がとてもきれいで。

八重もまた、会津戦争で多くを失って傷つき闇を彷徨うひとり。京へ出ても、新政府の人間にまでが、覚馬の妹が鉄砲で戦った女と知っている。「八重と言えば鉄砲」「鉄砲といえば八重」というほどに分かちがたい存在だった銃を手放した妹に、新たなアイデンティティーの柱となる「学問」という武器を渡した。会津と同じく新政府に捨てられた京という町の復興を手伝う「仕事」を言いつけた。ここまでできる人がどこにいようか、あんつぁま最強の兄確定!

そう、会津を失った今、まるで関係ない気がする京都を復興していく・・・って話に気分的に乗れるかどうかが、私を含む多くの視聴者の命題だったと思うんだけど、私、単純なもんで、けっこう腑に落ちたんですよ、ここの説明で。京都は、会津藩士たちと、殿が奮闘した町。京都は、会津と同じく、戦火に見舞われて、新政府に捨てられた町。当時の状況では会津を早速復興することはできない。けれど京都なら。ということですね。

てか、京都は今も日本の大都市のひとつで、観光客であふれているのも、京大や同志社などアカデミックな町であることも私たちは当たり前のように思っているけど、あの時期に本気で復興したからこその今の繁栄、て部分も確かにあるんだね。そら、覚馬がやらなくても誰かがやったんだろうし、覚馬(と襄)だけの力でやったことじゃないけどさ。でも、劇中、槇村正直があまりに軽〜い人物に描かれてるので、あれでいいのかな?て、今んとこちょっと疑問。史実は、さわりだけしか知らないので、まあ何とも言えないんだけど。

岩倉使節団のシーン、いかにも予算なさげなセットだったけど(笑)それも含めておかしかったです。木戸さんのミッチー色がすごい。半沢直樹の渡真利と同じキャラクターとしか思えない…でも不思議と腹が立たない…木戸に近づくんじゃなくて木戸に近づかせるミッチー芸…。で、ミッチーでしかない木戸さんなんだけど、やたら愚痴愚痴言う割に、一歩外に出ればキリッとしてるあたりは、ちゃんと木戸さんしてて、いいです。この、どー見ても気の合わなそうなミッチー〜大久保ラインが、今後いかに共同して新政府を主導していくのか。また、あんつぁまに薩摩藩邸を売り払った西郷さんが言う「薩摩と会津とは似ている〜何かがひとつ違えば薩摩が会津になっていた」の確かな西南戦争フラグっぷり。サクサクしたものではあっても、明治の政治もそれなりに興味深く見られそうです。

あれ? けっこうな量になっちゃったな。てか、超急いで書いたけど、クオリティ的にいつもと大して変わらんな。これがいつものクオリティに達してる、て意味じゃなく、もっと時間をかけて書いても、クオリティってさほど上がらないもんだなってことを思い知った…orz

あ、襄さん。通訳の分をわきまえた振る舞い、政治にまっっったく興味ない感じが如実に出ててサイコーです。てか、かわええ。超かわええ。予告の尚さま…来週まで考えないようにします・・・