『八重の桜』 第29話「鶴ヶ城開城」

さすがに今回は、「歴史的事実直球」できましたね、サブタイ。教科書で見れば眠気を誘うばかりのような語句でも、ドラマが積み重ねられていると、たった一言にものすごい重みがありますね。「鶴ヶ城開城」。この一週間、その一言を思い出すだけで小さく震えが走るようでした。実際、選挙特番のため繰り上げて放送するのがもったいないぐらいの、でもいつなんどきに放送しようがびくともしないような、いわゆる「神回」だったんじゃないでしょうか・・・! このレベルに慣れそうな自分が怖い。「今年は特別、今年は特別」と言い聞かせることに余念のない私です。

相変わらず描写が細やか。総攻撃が始まった今、もはや、籠城戦が始まったころとはまったく違うテンションなんですね、皆。

乏しくなった兵糧(補給路)を確保するべくマッチゲ父さんも出陣することになるのですが、八重が「この砲撃の中では無理だ」と止め、父上が「このままでは飢え死にする。誰かが行かねばなんねぇ」と答える。至って普通のやりとりのようだけど、これまでこのドラマ、家族が「出陣してはだめだ」なんて言うシーンは皆無でしたからね。マッチゲ父さんの方も、非常に静かなテンションで、もはや戦意とか高揚感はないんですよね。「城内の(それも一時的な)延命のための仕事でしかなく、そのために死ぬことになる可能性も高い」という淡々とした現状認識。

首脳陣の軍議も砲声でたびたび途切れがち。ただ、やはりこの人たちがいるのはもっとも安全で奥まったところで、砲弾が飛んではこないわけですよね・・・とちょっと冷めた目でも見てしまいます。なんたって女たちが砲弾を濡れ布団で包んで吹っ飛ばされてるわけですよ、表では。

まあ、その軍議も頼母を追い出したころの勢いは皆無。「冬になれば」といっても、どうみても冬まで兵糧がもちそうにありません。てか冬まで城壁がもちそうにありません。列藩同盟も次々に降伏し敵ばかりが膨れ上がる状態。ここ数週、キリキリイライラしてた梶原平馬も、自分がまとめた列藩同盟が脆くも破れるに至って意気消沈しています。

そんな首脳会議のメンバー、大蔵にもたらされる妻の悲報。もともと思い込みが強く、「あっちがダメならこっちの案で」と彼岸獅子入城をやりとげるような、類まれな切り替えスイッチを搭載してる大蔵さん。妻の死を、一瞬で弟への怒りに転化させるんですね(苦笑)。「なんで生きてんだ、今すぐ死ね」ってすごい言葉ですが、山川大蔵を語る上で欠かせない逸話として伝わっていますね(苦笑)。史実ではこういう“是非もなし”なシチュエーションではなく、もっと普通に、もっとナチュラルに発せられた言葉のようですが(苦笑)、登勢の死と結びつけたのがうまいなあ、と。てか、そもそも、このエピソードを採用するとこがすごい。えらい。

だいたい、登勢は何も不慮の事故に遭ったわけではなく、戦死ですからね。飛んできた砲弾を濡れ布団で鎮火、って、女にそういう仕事させるまでに戦況を悪化させつつ手をこまねいている首脳陣(むろん自分を含む)の責任は、やはり重いですよね。大蔵にしても、単なる悲しみではなく、自責の念もあるからこそ、とんでもない八つ当たりに走ったってことではないでしょうか。

「何をしておる(早く腹を切れ)」と目ん玉ひんむくのは熟達した演技といっていいのかわかりませんが、「これぞ玉鉄の真骨頂(微笑)て感じ。「こりゃ、拒否したらソッコーで兄に斬られるな・・・」て感じで刀を抜く弟・勝地くんに、言葉にならない悲鳴をあげながら抱きつく母・艶(秋吉久美子)は迫真でした。「もう十分だ、これ以上死ぬことはねぇ」ってセリフも最高のチョイス。もちろん「自分の息子だけは死なせたくない」のが本心でしょうが、とっさに口をついて出るのが「もう十分だ」なんですよね。これまで既に数多の死を見てきている。ここからも戦況の推移が聞いてとれるわけです。

その、死んだ嫁、キレる大蔵、圧倒されて死のうとする年若い健次郎(中の人は立派に成人してますが、健次郎は白虎隊にすら入れない年齢だったわけで)、それを必死に止める母、また、孫嫁の仇を討とうと勇み足を踏むもさっそく転ぶ老いた祖父・・・などなどの姿を、一部始終、そっとのぞき見ていた容保が、「秋月」と呼ぶわけですね。ここまで、ドラマではたぶん10分やそこらだったと思うんですが、もうホントにスムースで唸りました。主人公サイド / 首脳陣 と戦況の変化を描写しつつ、大蔵の暴れん坊エピソードを盛り込みつつ、容保に「もうだめぽ」と決心させる。

「覗き見・偶然の立ち聞き等がきっかけ」なんて展開、ふつうなら感心されないところなんだけど、すごく「あり」な感じだったんですよね。平時ならカッチリしている武家社会の序列や生活が、籠城戦という非日常で崩れてる部分があって、家臣の妻や母、年少の者の実状を殿さまが見る隙間が生まれているわけです。先週からそういう描写はいくつもありました。容保が城内のあちこちを見回ったり、女子たちに声をかけたり、それこそ八重を召して話を聞いたり。

先週も書きましたが、このドラマの容保は、会津の人々(ここでは武家の人々をさす)のために戦を始めたのだと思っています。「ふりあげた拳をおろさなければならない」とは、江戸城総攻撃が回避されたときの西郷隆盛のセリフですが、恭順の嘆願が新政府軍に通らなかったことを含め、結局、会津人もそれと同じ気持ちになっていた。だから「幕府のため、天朝のため」という原理で藩を動かしてきた容保は、「会津のため」に戦をしようとしたのだと思います。

だから、白虎隊を出陣させても、小田山を奪われて既に有効策のない状態でも戦を止めなかったのは、むろん後手後手に回っている面もあるのだけれど、家臣たちの大半がまだ意気盛んだったから、ということではないかと思うのです。しかしもう違う。首脳陣も銃後の女子たちもすでに疲弊して戦意は低下し(一部、寝起きの悪かった某兵衛さん以外www)、大蔵がキレたように(まぁ実際は大蔵はもともとああいう人なんでしょうがww)、ストレス過多で城内での衝突も起こっている。それを目の当たりにした容保が「会津のため」選ぶべきは、ここに至って、「戦う」から「戦うのをやめさせる」に変わったわけです。

とはいえ、上に立つ者としての責任を痛切に感じている容保。いつも向かっている祭壇の前で悔恨の念を洩らします。おそらく、その前に、照姫に降伏を明かしたという設定でしょうね(女たちに照姫の口から伝えてもらうために)。照姫と容保とのシーンも本当に久しぶりでした、というか、考えてみればこれまで数えるほどしかなかったのですよね。最近では、出陣を見送るシーンでは照姫を一顧だにせず、鳥羽伏見のあと会津に戻ったあとも、「何もお話ししてはくだされぬ」の容保だったのでした。邪険にしているのではもちろんなく、照姫が優しく懸命だからこそ「よりかからってはならない」という態度ですよね。こういう点でも、自分を厳しく律していて、やはり少なくとも本作の容保には自己保身とか甘えとかいう概念から遠いという造形だと思います。

にしても、ようやく殿の本心に接した照姫のリアクションが流石すぐる。子どもたちの凧揚げの話とは!! 「過日」っていう切り出し方が高貴なお方よのう。「子どもらか・・・」とわずかに表情をゆるめる容保。凧の上がるのは、彼も見たでしょうしね。こういうときに子どもの存在が希望になるのは人類普遍の感覚ですし、脚本家は、八重のことも念頭において、やりとりを書いたのかなとも思います。小さな少女のころ殿に言葉を賜ったのを大切に胸に留めて大きくなった、という八重の言葉に、胸打たれたはずの容保だから、余計、照姫の「子どもら」という言葉が響いたことでしょう。

史実では、多くの人が携わり、段階を踏んだはずの和議工作なので、詳しい方には物足りなかったでしょうが、尺の問題がありますのでお許しください(なぜ私が謝る)。秋月さんファンの私にはhshsでしたわ。強風の中、大きな白旗を掲げてよろよろしながら帰城する絵がすごい・・・! 敵陣でボコられながら「急いでください! 今このときも戦闘が続いていて味方は死んでいる!」と彼が訴えていたとおり、まさにその間に、マッチゲ父さん、討死。

先週すでに「自慢の娘」問題(問題?)は語られていたので、いまわの際のやりとりは、先週見逃した人への補足的なものだったのかな、と。マッチゲさんを乗せた戸板を運んできた兵たちに、お母さんらが「ありがとなし、ありがとなし」と声をかけているのが細かい演出だなと思いました。現実的に、瀕死の身内を見たらそんな言葉の出ないことだってあるでしょうが、超劣勢の中、怪我人を運んで帰ってくるのは、敗走する際にものすごくリスクを増やすことだから、相当有難いという思いもやっぱりあるよね、と。

そして、持って帰ってきたはいいが、このような遺骸をどうしていたのだろう?という疑問のよぎった人もいるのではないでしょうか。多くは空井戸に投げ捨てるしかなかったようですね。もちろん、城外の遺骸はそのままで、新政府軍は、停戦後も葬ることを許さなかったとか・・・。

城内の者が降伏を告げられるシーンは、女子のみでした。大河で、高貴な女人が女たちを集めて敗北を告げる・・・というと、2008年「篤姫」の江戸城明け渡しを告げるシーンを思い出しますが、そのとき下座にいて、ざわめく女衆を「静まれ!」と一喝する役目(?)だった稲森さんが、今回は上座です。ことさら眉を寄せたり顔を強張らせたり声を張り上げたりすることなく、ただ、青ざめた顔で、粛々と告げる姿が美しい・・・。

「あら?主人公いなくね?」と思ったら、男衆のほうにいるのでした。んもう八重さんたら〜と、ちょっと笑っちゃいそうになるんですが、容保への直訴をおいといても、のちの展開を考えると、ここでこっちにいないとまずいわけですよねww

で、この場面については「出たよ、目立ちたがり屋の女主人公」って感じで引いてる人も多くて、まあ某姫や某姫のトラウマがいかに大きいかってことをNHKさんには重く受け止めてほしいところでもありますが、私は、今回の八重無双は全然。パッとこの場面だけを見たらそりゃ過去の悪夢がよみがえるでしょうけど、これまでこのドラマをずっと見てきてるわけですから。蓄積されてきたものがあるので自然に感じられたし、逆に、「ドラマなんだから、ここぞと言うときぐらい、やっぱり主人公が活躍しちゃってくれないと!」という思いもあります。いつもいつも必然性なく出しゃばってる女主人公とは違うんですよ。

まず、八重さんはすっかり、戦闘員として認められてるんですよね。少年兵を指揮し、夜襲をしかけ、大砲で応戦し、夜間の見張り番もやってるし、銃弾のリサイクル運動も彼女が中心で、飛んできた砲弾を濡れ布団で抑えて殿さまにレクチャーまでしました。完全に戦士です。三郎が死んだときに「私の方がずっと強いんだから」と言った言葉に偽りなし、です。

現代だって、運動会や合唱コンクールが終わるころにはクラスは一致団結しているし、そこで奮闘する人は一目置かれるもの。まして戦争などという命のかかった事態ですから、味方に尋常ならざる一体感が生まれるのは道理。もはや、「女だから」とか「家格が、お役目が」とかいう平時の尺度はガラガラポン。活躍する八重さんが「勇敢すぎる女スナイパー」として認められないわけがありません。権八父さんも「城から出るときにはお前が鉄砲隊を指揮してくれ」と頼んだし、降伏交渉に行く秋月さんも、八重の鉄砲に守られながら城を出ました(このときの八重さんの命中率!)。

よって、殿の御前にふつうに控えている八重さんですが、また、とはいってもやはり彼女は女で、男たちとはスタンスが異なるので、無礼にも声を上げてしまうわけです。城に入ったときに(神保内蔵助や官兵衛らに)「私も戦います!」と大演説をぶったり、先だって殿と直接お話ししたり、という経験も、彼女を強気にさせたのでしょう。

八重は、英雄なんかじゃありません。当然、政治のことも経済のこともわかっていないし、女だてらに鉄砲に夢中の、風変わりな娘だと思われてきました。戦争になるまでは、鉄砲の腕があることを(夫以外)誰ひとり評価していません。ただ、腕や知識は本物だし、人と違う道を真剣に歩む過程で培われた一本気や意志の強さに抜きんでるところがあったのです。そういった様々のバックボーンが半年の長きにわたって描かれてきたのですから、八重が、この場にいて、声を上げることは、私にはとても腑に落ちたのです。

そして彼女の「殿さまには絶対に死んで欲しくない」「会津は逆賊なんかじゃない」という思いは、藩士の総意でした。後ろで泣き崩れるモブの人の演技も迫真。女主人公の演説、ってだけで鼻白んだ人が、むしろお気の毒。綾瀬はるかの魂のこもった演技、それを受ける容保の演技も相変わらずすばらしかったです。

「一命をもって皆を守る」と言った容保は、もとより自分の首を差し出すつもりだったでしょう。「自分が許せない」とも言っていたのです。人間、もちろん死を恐れる気持ちはあろうが、生きる方がつらいときだってあるでしょう。「皆の口惜しさを晴らすため」「会津の誇りを守るため」と懇願されたからこそ、生を受け容れることができた。もちろん、もっとも悲しむべきは、戦争で落命したり、家族や家を失ったりした人々です。けれど、養子で藩主になって以来、京都時代にも、戦争の前後を通しても、一生涯「会津のための人形(ひとがた)」としてしか生きられなかったのかな、という悲劇性を、このドラマの容保に感じます。

砂塵舞い上がる中、降伏式に向かう容保。予告でも目を奪われたシーンです。綾野さんは時代劇の素養などないはずですが、気合が所作ににじみ出ています。首をこう、ちょっと前に突き出すような歩き方が、どんな屈辱をも甘んじて受ける、という覚悟に感じられて・・・。土津公(保科正之)以来の由緒ある会津藩主が、板垣やら中村ごときの前に平伏する図には、思わず会津人目線で胸かきむしられました。

それにしても、会津戦争を通じて、終始一貫、見事な女たちの描写が続きました。実は立派に女性を賛美しているドラマなんですが、主人公にケチはつけても、そのあたりに対する批判は聞かれないものですね。まあ、やはり、当時、藩を経営するのも、革命も、戦争をするもしないも、男たちのすることですから、会津人ではあっても(容保含め)男性陣に対して冷徹な描写がなされるのは当然かもしれません。

今回の見事な女たち・その1、照姫。先の容保とのシーンや、女たちに降伏を告げるシーンに続いて、白旗に大書。声で説明されることはなかったけれど、小さな白い布をかき集めて接ぎあわせた旗であることは映像でわかりましたね。もはや城内には大きな白い布が(包帯で使われるなどして)なかったということ。二葉の手が動かぬことを察し、代わって筆をとる。立膝も勇ましく、黒々とした墨で一気呵成に「降参」と書きあげたあと、上げた顔には、敗者には似つかわしくない誇り高さが浮かんでいました。一言のせりふもない、息づまるシーン。

その2、二葉(以下、女たちみんな)。明け渡す城の廊下を隅々まで拭きあげる。幼い妹に「汚いままで渡しては、会津の女の恥だ」と言いました。「会津の恥」ではなく、「会津の“女の”恥」です。ここにも、「掃除=女のつまんない仕事」なんていう卑下はなく、むしろ自負や誇りの響きがありました。

そして、入城した板垣がちゃんと気づくんですよね。ハッとして後ろを振り返ると、塵ひとつ落ちていない美しい廊下を、自分たちの靴が汚している。新政府軍=侵略者であり、負けても誇りを失わない会津、という隠喩の表現として卓越していました。ここもまた、一言のせりふもないからこそ息をのむようなシーンでした。新政府については、今日も相変わらず下っ端たちはゲスでしたけど、久々登場の吉川さん西郷が「新しいこの国は、会津の犠牲に応えなければならない」と言うシーンもありました。会津の敵ではあるけれども、指導者たちが鈍感でない作りはいいですね。視聴者を単純な善悪二項対立に逃げ込ませない。

その3はもちろん、殿さまに思いをぶつけた八重さんなんですが・・・。そうか、ここで尚之助と別れさせるのか!と。今回すでにそこまで行くとは思ってなかったんで不意をつかれました。前半、まだ夜間砲撃が続く中でのシーンが久々にしっとりしていたのは、別れの前段だったんですね。相変わらずドSな脚本だ!!

「今日だけで2000発は超えています」と具体的な数字を出す尚之助さまに惚れなおす私。もちろん、まさか1から2000まで数えたわけではなく、この、皆が絶望しつつある戦況にあっても、何らかの数学的、統計的アプローチで戦況を見ている、冷静な尚之助さまなのです。

会津は打たれ強い。私は、国とはそこに住む人の事だと思っています。会津は…八重さん。あなたは強い」

今をさかのぼること20話以上前に、大蔵が顔を歪めて言った「八重さんは会津そのものだ」と異口同音なんですが、視聴者への受け止められ方の違うこと(詠嘆)。大蔵さん、ドンマイ! 君は慧眼だった。

「そんなら尚之助さまもすっかり会津のお国の人だ」 (にっこり)「んだなし」 

ハイッ、尚之助さまの「んだなし」いただきましたーっ! て感じでした(悶絶)。脚本家と、中の人の、殺し文句製造っぷりが憎い!憎い!憎い!

それにしても切ないのは、とてもいい雰囲気だけれども、二人の気持ちにはずいぶん乖離があることです。これまた10話以上前に「たった一人の旦那さまだもの〜〜」だなんて言ってた八重ですが、この受け答えからもわかるように、もはや彼女にとって、尚之助はすっかり「大切な会津の同志」なんですよね。父と夫が先に城に上がるとき、夫に一言もなかったことにもそれは現われていました。

対して尚之助はというと、彼女の「鉄砲というアイデンティティ」を全面的に肯定しながら、一貫して、「そんな風変わりな女を妻として愛している」わけです。彼はその愛があまりに大きいからこそ、八重に「人並みの奥方」たることを求めない。八重を、そのままの八重として、すべて受け容れ、愛している。八重を永遠のミューズとしている大蔵と同じセリフを言わせたのもその証拠です。けれど八重は(のちにジョーが控えているというドラマの便宜上も)まだ幼く、そのことに気づいていません。

そして尚之助は、嫁にはなっても、八重がいつまでも「山本家の娘」である点も、とても大事にしています。京に発つ前の覚馬に「家を頼む」と言われたことも、入城前の権八がチビ八重の描いた鉄砲の画を懐に入れたのも、城壁に辞世の句(あれを“辞世の句”と風吹さんに解釈させたのも脚本うまい)を残す八重に母が泣きつくのも、いろいろなことを見ていて、胸に刻んでいる。

史実でも八重は猪苗代の謹慎所に行こうとしたと言われていて、その胸中は正直、わかりかねますし、ドラマでもはっきりとは説明していません。想像するに、やはり戦争での一体感、「ここで一人、戦士の立場を免れることはできない」という極限の精神状態が続いていたってことでしょうか。

ドラマではっきりと説明がなかったのは、尚之助の告発も同じで、けれど説明し尽くさなかったからこそ、衝撃と余韻がすごかったんだと思います。視聴者も、突然裏切られた八重の目線になって、「どうして、どうして」と深く考えることができた。なので、以下は私の想像、解釈です。

ドラマの尚之助は始め、八重が藩士の列に加わるのを止めませんでした。むろん、唯々諾々と従って加わらせたわけではなく、前夜の母とのシーンも見ているのだから、当然迷いはあったでしょう。けれど彼女のすべてを肯定しているから止められなかった。迷いつつ並んでいたところで、あの歌が始まり、八重が祝言の思い出を語った。その横顔を見て、とっさに声を上げた。

ギリギリのところで、「八重(が無意識に自分に求めている姿として)の一番の理解者」であることよりも「八重に生き延びることを望む夫」であることを選んでしまった。尚之助が、最初で最後、八重の意に反した自分の意思を表したのが、八重を生かすためだったという、このドラマチック! その瞬間は「うわー、そう来たか!」と仰天させ、見た後では、「そうか、これしかないよな!」と思えるぐらいに大納得させる、見事な別れの演出でした。

「覚悟の決断」というよりは、「とっさの判断」だったことは、毅然とした告発と裏腹の、その後の尚之助の表情、丸めた背で去っていく足取りが表わしていました。つまみ出されようとしながら自分に詰め寄る八重の姿を見る顔は、自信をもって決断した人の表情ではありませんでした。傷ついたような、打ちひしがれたような、尚さまには似つかわしくない心もとない顔をしていた。これまでいついかなるときも包み込んできた八重を裏切ったことも、告発した結果、八重と今生の別れになるかもしれないことも彼にはわかっていて、彼にとってもそれはあまりに突然の展開だったのでしょう。

けれど、そこで「あなたは生きてください」とか「私のことは忘れて」とかは口にしないのが尚之助クオリティですよね。八重は会津そのもので、打たれ強くて、敗戦後の辛苦も乗り越えるだろうと。裏切られた、と思わせて別れた方が、彼女が前を向いて生きやすいはずだと。そんなことまで、とっさに判断してしまったんですよね、きっと。その大きすぎる愛ゆえに・・・(泣)

がらんとした城内に残された八重の嗚咽。三郎の死後の半狂乱とも、父が事きれるときの哀切とも違う。何もかも、何もかもを失くした人の涙。こんな悔しそうな泣き方もできる女優さんなんですね。崩れた城壁から本丸を見上げるラストカットは前回と同じです。今回は砲声がやんでいて、城は無残な姿で、けれど空が抜けるように青い。

「そんでも、空は変わんねぇのか・・・」と主人公が洩らす言葉に、万感の思いを抱かずにいられません。「国破れて山河あり」の一節があまりに鮮やかに映像化された一幕でした。八重(に代表されるあまりに大きな犠牲を払った人々)でなくとも、「こんなにつらいのに空は」と思うような瞬間が、古今東西の人類普遍に、そう、私たちにも、人生何度かあるはずです。

開戦までも既につらい展開が長かったうえ、4週にわたって籠城戦が描かれると知った時には、「なんと長いことだろう」と落ち込んだものでしたが、終わってみるとあっという間だったようにも思えます。それほど密度が濃かった。視聴率がどうあれ、震災や、先の大戦時をも想起させながら、ここまで踏み込んで戦争を描いたのは、もはや偉業ではないでしょうか。緊張感や、死や、痛みや、内部対立。緩慢に滅びに向かう疲弊。それらと裏腹の、こんな非常時だからこそ輝く生命力や高潔な精神、一体感、非常時でなければ交わることのなかった主従や、けれどやはり戦争の代償があまりに大きいこと・・・。

尚さまが去って行った瞬間には、「もう、新島襄も長谷川さんがやってくれていいよ! この際、“前の恋人に瓜二つだから恋に落ちた”みたいなベタな設定カモン!」ぐらい思ったんですけど、予告で映ったジョー・オダギリのあまりに幕末日本人離れした美しさに、新しい世界に向かって思いを馳せた(涎を垂らした)私がいたのも事実ですww 

あまりに凄まじい幕末絵巻でしたが、ふつう、ここで終わる幕府側や白虎隊モノと違って、ここからまた立ち上がっていく姿が描かれることにこそ、「八重の桜」の意義があります。「斗南」の名が示されていたように、その道は決して容易なものではないでしょう。尚之助の今後や、八重が彼の大きな愛に気づく姿も、きっと描かれるでしょう。そのうえで「それでも、生きてゆく」八重を、これからも見つめていきたいと思います! ここからも、八重の人生は地続きなのです!