『将軍江戸を去る』(Eテレ芸能百花繚乱より)

初めて見た演目。ついでに初めて見た中車の歌舞伎。最初の彰義隊との場面なんかでは「なんか普通に幕末が舞台の舞台みたいだな〜(変な日本語)と思ったんだが、海老蔵が出てきたときに「あ、これ歌舞伎だわ」と思った。中車が出てきたときにそう思えなかったのは仕方あるまい…。

切れすぎる切れ者で至誠がないって感じが私の慶喜のイメージで、団十郎とはまったくニンが合わないと思いきや、確かに「これが慶喜か?」と言われればうーん…とはなるけど、でも、これがいいんである。いろいろ言われるのよく目にするけどわたし団十郎の大きな存在感がすごく好きだ。こういう血気盛んな面を持ち合わせた役をしても気品があってね〜。それに、黒塚にしても今回にしても受ける演技がすばらしい。(註:2013.1.21に書いた文章。まさか団十郎が逝くだなんて思いもしなかったのに涙)

海老蔵が扮する高橋伊勢守。失礼ながら、こーゆー、切々とした役もできるんだ!と驚く。長セリフ、聞かせた。第一、メイクが、たたずまいが、とにかく美しい。この華は他の追随を許さないところである。

で、中車の山岡鉄太郎。もう、声がガラガラになっちゃってて哀しい。やっぱり歌舞伎において美声って凄く大事だなと思う。中車の歌舞伎界への挑戦は、今まであたりまえのように見ていた歌舞伎が、どのような芸であるかということを、見る者にあらためて感じさせる契機になった。本人にはむごいことかもしれないけど、面白い機会だなと思う。観客として、よりますます、歌舞伎を大事にしていきたいなと思う(チケットお高いのでなかなか行けませんけど汗)。もちろん中車のことも応援してます。

もとい、けれどその声も、鉄太郎の役どころからするとそれほど不自然でなく、なにせ芝居のうまい役者であるからして、慶喜を相手に必死の説得をする長セリフは安心して…どころかグッと入り込んで聞けた。泣きの芝居の歌舞伎の「型」は父・猿翁との稽古のたまものだなあ、とNスペを思い出しながら見た。団十郎の怒りや悲憤の「型」もすばらしかった。こういう「型」も歌舞伎を歌舞伎たらしめる重要な要素で、これがあるから感動できて、満足できるんだなあと思う。

ところで真山青果という劇作家が書いて昭和9年初演したというこの作品はシリアスなセリフ劇で、動きも少なく、主要人物3人の長セリフはそれぞれ漢語・文語の連続。論理も緻密だ。せっかくなのでちゃんと理解したいと思えば、常に脳内辞書の変換モードや論理的思考力をトップギアにしておかなければならず、非常に疲れもする芝居である。けれどそれだけに、最後の千住大橋の場面でのカタルシスは、祝祭的な「助六」とか感覚的な「鏡獅子」とかとはまた違った、深いところからこみあげてくるものがあり、歌舞伎って面白いものだなと思った。

歌舞伎に浅い中車のために掘り起こしてきた演目かと思いきや、これまでにもたびたび上演されているようだ。他の役者の鉄太郎も見てみたい。・・・・と書いたあとで知ったんだけど、5月の明治座でやるそうです。慶喜染五郎。鉄太郎、勘九郎。伊勢守、愛之助。こちらも豪華だなあ、見たい見たい!