『街道をゆく 1』と、いま司馬遼太郎を読むということ
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1978/10
- メディア: 文庫
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ふつう、歴史に関するものを読むときは、「大和朝廷」とか「桓武天皇」とか「江戸・元禄期」とかいうふうに、特定のトピックや人物や時代に、最初がピントが合っている。あるいは「芸能史」とか「天皇史」とかの場合でも、だいたいが年代記形式だ。
対してこのシリーズの場合、まず「みち=場所」があって、そこにまつわるトピックが出てくる。ってつまり「旅行記」なんだけど、なんたって脳内辞書に古今東西の歴史をあまねく蓄えている人だからして、その「何が出るかな♪」状態はもはやドラえもんの四次元ポケットに近い。ってこれで魅力伝わりますかね。うーむ、このワクワク感を、いったいどう表現したら良いのであろうか。
つまり数日間の奥州の旅のうちに、会津戦争や松平容保のことはもちろん、遠く平安初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂や、歌人・源融、僧・徳一など、縦横無尽な逸話が繰り出されるのである。当然、旅の情景や出会う人々のことも記される。稀代の人気小説家だから、当然、文章も魅力的。
この1巻であれば、「竹内街道」で20代の日本語学者、ロジャ・メイチン君と一緒に旅するのだが、彼を紹介する文章、
ケンブリッジで言語学をやり、日本語学の修士号をとった。その後京都大学にきて、ここで日本語学を仕上げるべくうろうろしていたが、しかし適当な先生を見つけることができず、ぼう然としていたところへ泉井久之助教授の目にとまり、妙なことに西洋言語学の修士課程をやってしまった。気の毒というほかないが、言語学としての日本語研究というのは世界的にも特殊であるだけでなく・・・(後略)
こんな数行だけで面白い。ちなみにこのメイチン君、日本での住まいの近くにある「深泥池(みぞろがいけ)」の語源について考察すべく司馬に尋ねるのだが、思いつきを口にした司馬に、「きわめて分析的な態度で別個の見解をのべた」ロジャくんは、旗色の悪くなった司馬が「それより、大和の石上神宮へゆこうか」と、はぐらかすと、今度は「いそのかみ、ね…いそのかみのいそ、は石の字をあててありますが、石という文字にまどわされてはならないでしょうね。いったい、い、というのは何でしょう。岩、磯、石…」と再び日本語の世界にのめりこんでいくのである。いいキャラだww
甲州街道を下った八王子にて、当地で、老舗の履物屋の女主人として店をきり回しながら、徳川慶喜について『最後の将軍』をすでに上梓したあとの司馬も舌を巻くほどの篤学の人であるKさんと会うくだりも面白かった。
この1巻は昭和40年代後半に書かれたものだから、Kさんは当時アラフォーであったと思われるのだが、高等女学校時代、上級生が学芸会で演じた真山青果の『将軍、江戸を去る』がきっかけだというのである。慶喜が高橋伊勢守に向かって言う「3年このかた、第15代の将軍にすわって、慶喜の苦労、そちゃ気の毒とは思わぬか」というセリフで電撃と受けたのだ、と。当時の女学校および女学生すごすぐるwww
真山青果の『将軍、江戸を去る』って今でも歌舞伎で時々演じられていて、そう、香川照之が中車の襲名披露公演で山岡鉄太郎をやったアレである。慶喜役は故・団十郎だった。そうだ今(2013/5)は、明治座で勘九郎の鉄太郎、染五郎の慶喜が上演されています。
今(2013.5.14記す)、ちょうど、『八重の桜』で大政奉還〜王政復古のあたりをやっていて、小泉孝太郎の演じる徳川慶喜の評価が青天井状態なので、司馬の慶喜評についての一節を記しておく。
慶喜のおもしろさは、百才のもちぬしでありながら、さらには華麗な権謀の才をもち、しかも幕末のある時期、京都にあって宮廷と薩長勢力を相手にほとんど独演のような―――幕府の威権をかりないという点で―――大小の芝居をうちつづけつつ、最後にまるで車軸が折れたように絶対恭順の姿勢になり、世をすてたような生涯をおくってしまったところにある。
この人物は幕府の根拠地である江戸を離れてほとんどひとりで京に駐在し、大した謀臣ももたずにひとりで反幕勢力の権謀とたたかった。ひとりでこれだけの仕事ができるのは、徳川歴代の将軍をみても、最初の家康と最後の慶喜しかいない。が、それだけやっていてもなお、江戸の幕臣から、
「二心殿」
といわれて、幕府を天朝に売りわたすのではないかとうたがわれていた。慶喜のなかに尊王賤覇という史的価値観があることを江戸の幕臣たちは嗅ぎとっていたのであろう。慶喜は、やる気さえあれば鳥羽・伏見で勝つことができた。結局は勝つだけの兵力をもちつつ、前哨戦でやぶれただけで江戸へ逃げかえってしまい、多少の曲折ののち絶対恭順の生活に入るのである。
司馬は、その後の長い人生、絶対恭順の姿勢をひとすじに貫いたからこそ、慶喜は類のない政治家であったと評するが、同時に、市井の慶喜研究家、Kさんの、
江戸へ逃げかえったときは慶喜の京都情勢への観察はまだ甘かった、自分が隠居するくらいですむとおもっていた。ところだだんだん情勢のきびしさがわかり、いのちの程もあぶなくなりつつあるのを知って、はじめて恭順に入ったのだ。追いつめられ追いおとされて、そうするよりほか道がなかったのだと思う。慶喜の側近の人の遺した話でも、毎日泣いていたそうだ」
という意見も載せている。
司馬史観、といわれる。歴史好きを自称しながら司馬の言を引くのは浅学を露呈するようなものかもしれない。そもそも司馬は(膨大な史料をあたって執筆するスタイルだったとはいえ)研究者ではなく小説家、随筆家にすぎないのだというのが通底する認識だろうし、没してすでに15年以上、彼の存命中と変わってしまった歴史の定説も多いのだろう。でもこの巨人ぶりはどうしても魅力的で、抗えないところがある。
器が大きいのだ。専門家からみたらザルなところもあろうし、特に明治以降の見方については(自身が兵隊にとられた年代であるだけに)賛否両論あるわけだが、ともかく古代から現代まで、日本だけでなく世界にも、あらゆる歴史に精通していて、そのうえでものを書いている雄大さと繊細さとが同時に感じられること、読者をナメてないエンターテイメントであること、そしてなんといっても膨大な著書があること。やはり今なお唯一無二の存在感だと思う。
司馬の良さを味わうのに、このシリーズはうってつけなのだ。また、彼が旅して見た風景の多くが、現在、もはや失われているだろうことは想像に難くなく、だからなおさら大事にしたいと思う書きものたちである。
別件。
この本、古本で買ったんだけど、前の持ち主がところどころに線を引いてるのがツボで。最初は「高麗津」とか「琵琶湖水軍」とか「古代の種族名」とかに引いてあるので、大学のレポートにでも使ったのかな、ぐらいの気持ちで眺めていたら、この御仁、何を思ったかだんだんエスカレートして、
「低血圧がこの島の風土病であるように、まったく安全保障の感覚がなくなってしまう」 とか、
「上方では如才のない、いい加減な口上手のことを、「あの人はジュンサイなお人や」という」
なんて文章に、ダダーッと豪快なフリーハンドで線を引いているのである。仕上がったレポートが読みたいものである。そして第3章以降にはまったく線がない。おいこら。