『俺だって子供だ!』 宮藤官九郎

俺だって子供だ! (文春文庫)

俺だって子供だ! (文春文庫)

結婚十年にして父親になったクドカンが、臨月から3歳の誕生日までの3年あまりにわたる、娘「かんぱ」との日々を綴ったエッセイ。週刊文春における連載。

それこそ「石を投げたら当たる」ってほどに数多ある育児ブログ。ここもそのひとつでありましょう。しかしさすがにプロは違うね。これ読んでたら、自分のブログのクッソおもしろくなさに絶望しそうになった。ま、俊才クドカンと己を比べてもどーしよーもないのだが。

かんぱちゃんが両親の血を受け継いで将来的にユニークな子になるとしても、0〜2歳の段階で特別変わった子のわけがない。なのにとっても面白く、ユニークに感じられるのは、やっぱりクドカンの目線、切り取り方、表現が卓越してるからだよね。映画やら連ドラやら舞台やらやりながら、よくもまあ、毎週まいしゅうこれだけ書けるよな。確かに編集者もついてるし、子育てってネタには事欠かないし、連載1回の文章量は多くないにしても、フリとオチがちゃんとあるし、笑わせるし、文章もしゃれてるし。

過日、いただいたメールの中に、女性の書く育児日記について「臆面ない自己肯定が前面に出」がちなもの、という文言があって首肯したのだが、そこへいくと、このエッセイには全編に羞恥心が匂い立っています。クドカンが男だから、ってのもあるけど、やっぱりそこがプロなんだと思う。もう一歩いきすぎると自意識過剰で逆に鬱陶しい、というギリギリのところまでの羞恥心。クドカンの愛すべき芸風だ。

もちろん、基本的には親バカエッセイで、その部分も楽しく読める。でも、私がこれ読んでホントに良かったなと思うのは、ときどき筆を割かれる「子どもがいない夫婦時代によく言われたこと」とか「ひとりっこについて」とか、「子どもがファミレスで騒ぐこと」とかへの言及。あるいは、「子どもって、自分に理解できる許容量を超えると、スパッと無視するよね」みたいな、子どもの生態の観察を一般化したもの。どれも、ズバッと書いてあるのにマイルドで、しかもユーモアを失っていない。

また、バカバカしいほどおかしい中にもあたたかな人間性がにじみ出るのは、彼の本業の作品とまったく同様だ。

かんぱちゃんと行った公園で、ちょっと大きな男の子に叩かれちゃって、「こら!謝りなさい」と叱られたその子が自分の娘に謝るのを待っている時間を指して「この瞬間が俺の公園デビューだった」と述懐するクドカン。「自分の子どもの親だけじゃなく、社会ぜんぶの子どもたちの親になりたい」と書くクドカン(しかし、その直後に、まだまだそれには遠く、たった半年前に警官に職務質問されたばかり…と続くところがまたw)。

最終回の末尾で、連載に関わった編集者や、奥さん、読者…と感謝の言を書き連ね、「最後にかんぱへ。生まれてよかったね」と締められているのを読んで、ぐっときた。凡百の親が、「生まれてくれてありがとう」と書くところを、「生まれてよかったね」。このたった一言に、クリエーター・クドカンの真骨頂を見る思いだ。この客観性、この羞恥心、そのうえで感じられる、親としての抑えきれない愛情や願い…! 私もこれからサクに言おう。「生まれてよかったね」。やばい、今、ぐーぐー寝倒してるサクの顔を見たあとでこれ書いてたら、ちょっと泣きそうになってきた。

そのあとに続くあとがきには、単行本化(かんぱ3歳5カ月)と、文庫化(かんぱ5歳8カ月)に際して、それぞれクドカンとかんぱちゃんが父娘で行った対談が収められている。ここでも、クドカンの自然な父親っぷりがムンムンと発露されていて、超萌える。こないだ遊びに来た、サクと同じくらいの娘をもつ友人に「母と息子の関係がなんともいえず眩しい」と言われたんだけど、私は、父親と小さな娘のやりとりに、それと似たようなものを感じているのかも。