子ども向けを超えた子ども番組

子どもが生まれてから、Eテレ=教育テレビをよく見ている。小さな子どものある家庭での視聴率は、80%くらいいってるんじゃないかと思う。ママ友たちとEテレの話をすると、どなたとでも、なんと盛り上がること! 

「夕飯の支度どきに子どもがおとなしく見てくれてると助かるわ〜」というのが出発点だったんだけど(はい、まさしく「テレビに子守をさせてる」状態ですねスイマセン)、歌に合わせて体をゆする→ふりつけを真似る→声を出して歌うなど、子どもが成長にしたがって体全体で楽しんでいる姿を見るのは堪らない楽しさだし、番組そのものにも、わたし参ってます。

  • イスをネタに、よくもこれだけの、しかもどれもこれもシュールなコーナーを作ったな!と驚かされる「みいつけた!」や(登場人物はコッシー(腰)、スイちゃん(イスを逆に)、スワリン、モミヤン(マッサージチェア)などだし、「イスとりゲーム」とか「イスダンス」とかのコーナーがある)。

  • サクくらいの年齢の子には鉄板の「いないいないばあっ!」。



中でも最近の私のお気に入りは「フックブックロー」と「にほんごであそぼ」である。

フックブックロー」は“日々はんせい堂”という本屋が舞台だけあって、「けっさく君」「もくジィ」「しおりちゃん」「ゴジ・ダツジ」「ルビィ」など登場人物の名前が書物関係に統一されているのも、「みいつけた!」と同じく心憎いところ。

また、「にほんごであそぼ」は、狂言師野村萬斎や歌舞伎役者・市川亀治郎文楽の豊竹咲甫大夫などが伝統芸能の世界を垣間見せてくれる。けして、亀ちゃんが出るから好き〜〜〜!と盲目的に言ってるわけじゃないのよ。まあ出てきたら家事の手を止めるけどw


これら二つの番組には「“子ども向け”という硬直した概念から自由!」って共通点がある。

たとえば、「フックブックロー」は、主人公のけっさく君はいい年をしたフリーターで、しおりちゃんは婚期が遅れるのを気にしていて、ゴジ・モクジの双子は5浪中の受験生という何とも世知辛い設定だったりするし、取り上げる歌にも、耳あたりはいいけど、実はかなりビターな『Sweet Memories』(松田聖子)や、'60年代後半のフォークの名曲『悲しくてやりきれない』があったりする。

にほんごであそぼ」では、金子みすヾの「みんなちがってみんないい」のように、いかにも子どもの教育に良さそうな詩もやるけれども、同時に、「立って半畳、寝て一畳」みたいな、なんか身も蓋もないようなフレーズや、「銀河鉄道の夜」でカムパネルラが姿を消してしまう世にも悲しいくだりの朗読、さらに進んで「咳をしても一人」なんて、むしろ頑是無い子どもには聞かせたくないような・・・というのまで、無邪気に紹介する。

サラリーマンNEO」に代表されるような、昨今のNHKの柔軟性、前衛性は、子供向け番組においてまでも存分に発揮されているというわけだ。

私は、早期教育のようなものにまるで興味はないし、子どもを読書家にしたいとも思っていない。自分自身が学力・学歴というものに全く無関心な親をもってそれが心安かったし、読書が趣味でも大して人格者に育たないのは自分がきっぱり証明済みだ。でも、「子どもにはまだ早いかもしれない」ものを扱っているこれらの番組には大賛成。

あいさつとかお片づけとかをわかりやすく教えてくれるコーナーはありがたいし、「おなかのへるうた」とか「どんぐりころころ」のように子どもらしい歌ももちろん小さいうちに知ってほしいんだけど、特に子どものために作ったものでなくとも、いい曲や優れた詩、秀でた文には、DNAに訴えるようなところがある気がするのだ。白秋でも漱石でも近松でも聖子でも(←聖子も同列w)。

それらの意味を、今のサクはもちろん理解できないだろう。うわべだけを掬い、あるいは誤解することもあるかもしれない。けれど、そういった危険性よりも、響きの美しさや、音韻・リズムの面白さ、文間に漂う悲しみや恐ろしさといった負のイメージを、わけもわからず感じることの尊さを私は思う。

「すぐに理解できないもの」は無意味ではなく、むしろ、そういうものによって子どもは育つ面も大きいんじゃないだろうか(これね、近年の安っぽくて薄っぺらくて単純な大河ドラマに対しても声を大にして言いたいのだが!)。・・・などと私なんぞが力説せんでも、そういう意図で作られてる番組ですよねわかります。ちなみにサクはこれらの番組、全部大好きでマネっこしまくり。

や、もっともらしい理由をつけてみただけで、単純に、自分が見てて面白いってのが一番大きいのだよ。高村光太郎の「冬が来た」(これはユニクロCMでも別部分をやってたな)とか、有島武郎の「小さき者へ」とか、遠く忘れていたような、あるいは知りもしなかった詩をやったりしてくれるんだもん。なんか豊穣な気持ちになるんだよね。