『女たちは二度遊ぶ』吉田修一
- 作者: 吉田修一
- 出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング
- 発売日: 2009/02/25
- メディア: 文庫
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口に入れた果物の種を吐き出すように簡単に、ドライに書いているようでいて、
たとえば一ヶ月に百万円使えれば、百万円の生活をし、一ヶ月に十五万円しかなければ、十五万円の生活をする。上も見なければ、下も見ない。たとえ「どっちがいい?」と訊いたところで、「どっちでもいい」と答えるような、真里はそんな女だった。
とか、
来るはずがないと思っていたことでも、こう何週も待ちわびていると、なぜ来ないのか?と考え始める。頭では来るはずがないとわかっているのに、心では来ないはずがないと思っているのだ。
とか、
そのうち、心のどこかで、どうせこのまま消えていくに違いないと思うようになっていた。心配していたわけではない。そうなればいいと思っている自分がどこかにいた。理由は分からない。ただ、自分だけが、あの渋谷へ向かう電車の中に、まだ残っているような気がしたのだ。
とか、いちいち鋭すぎる。
どんな登場人物もどうしようもないのは吉田修一の作品すべてに共通していて、この短編集でも例外ではないが、出てくる男たちの単なるどうしようもなさに比べ、女たちの「どうしようもないけど心に残る」感はなんだ。
11人の女と男がそれぞれ主人公になる、つまり11の短編が収められているのだが、女たちはすべてくっきりとした輪郭、陰影で鮮やかに「どうしようもなさ」を描きわける一方、男たちについては誰が誰だかまったく思い出せないほど「同じようにどうしようもなく」書いているのだ。もちろんわざとだろう。吉田修一らしい「女賛歌」ともいえるかもしれない。
書けといわれれば11編どころか、20でも30でも100でも、女たちとそれを巡る男たちについて書けるんじゃないか?と思わせるものがあった。短編集って、ある意味、長編よりも作者の力量を感じるところってあるなあと思う。
蛇足。ネットかなんかでドラマ化されてるらしく、それぞれの主人公である水川あさみ、相武紗季、小雪らが文庫版の表紙を飾っているのだが、ベッドで読んでいると夫がやってきて「何これ、TSUBAKIの小説?」と言った。