夫婦の生活は、「秘すれば花」だ(?)

1年前に結婚式をやったオークラへ食事に行った。
1年目の特典で、ホテルから招待券が届くのだ。

「サンダルはご遠慮ください」なんて、小憎らしいオーダーをつけるようなところでのディナーなんだから、それなりの格好をしなければならない。
その辺の居酒屋に行くよりも、準備には時間がかかる。
未だに夫にびっくりされるぐらいに面倒くさがりな私だが、
夫婦で夜のお出かけをするために、同じ家でそれぞれ身支度する夕方の時間はけっこう好き。

トム・クルーズニコール・キッドマンと夫婦だった頃に共演した映画『アイズ・ワイド・シャット』の冒頭を思い出す。

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知らず知らずのうちに倦怠期に入りかけてる夫婦役を演じるふたり。
夜のパーティに出かけるために、ふたりがバスルームで身支度するシーンは、まるで彼らの実生活を覗き見てるような気分にさせる。
妙に生々しく、淫靡なシーンなのだ。

それを見たとき私はまだ20歳そこそこだったので、
自分の感じた「エロさ」がどこからくるものなのかわからなかったけど、今なら何となくつかめる。

隠そうともせずに剥きだしで着替えたりメイクをしたりするふたり。
ぱりっとしたシャツを着たトムがバスルームでヒゲを剃ったり、
ニコールが夫の前でドアも閉めず、黒いドレスをまくりあげて用を足したりするシーンは、
お互いしか知らない、家の中の夫婦生活というものを赤裸々に描き出していた。

その羞恥心のなさが、いかにも「夫婦」という感じで、ふたりのセックスを見せられるよりもむしろ、ひどくエロっぽく感じられたのだ。
うん、いいシーンだったな、あれは。

夫婦って、人の目がある場所では、無意識のうちにちょっと互いの距離をとって振舞うというか、なんとなく「性の匂い」みたいなのを消し去ろうとするところがあるように思う。

自分が他の夫婦を見るときも、そうしてもらったほうが何となく安心する。
「この人たちは社会的に宣言し認められた生活上のパートナーなのだ」と思いたい、というか。

ズバリ書くと、夫婦であれば当然存在するに違いない「セックスの影」みたいなものに蓋をしておきたい、という意識が無意識のうちに働いてる気がする。
夫婦の側でも、夫婦を見てる側でも、両方ともに。

仲が良さそうな夫婦というのは、見ていて当然気持ちのいいものだが、その仲の良さというのは、
「二人には共通の趣味があるから会話が弾みそうだな」とか
「家事や育児を協力しあってやってるんだな」
とかいう視点で感じたいわけで、間違っても

「このふたり、あっちの相性良さそうだなー」とかいうことを思い浮かべたくはないのだ。

トム・ニコール(元)夫妻とは違って美しくもなんともない私たち夫婦の身支度は、ほかの人が見てもエロさの片鱗も感じられないだろうが、よそゆきの服に着替えてアイラインなんか描いてると、
「こうやってるうちに、
 家の中で知らず知らず身にまとってる濃密な我が家の「気」を少しずつ払い落として、誰が見ても不安のない“清く正しく安定した夫婦”像へと近づいていってるな、よしよし。」
と、勝手に、ほくそ笑む私である。
夫婦って、お互いしか知らない共犯者だなーと思う。
それが楽しい。

準備完了の私を見た夫が「えらい着飾ったなー」と驚いたので、
「え、はりきりすぎ? 恥ずかしい?」と一気にひるんだ気弱な私だったが、
「ま、いいと思う。うん」と言われてそのまま出かけた。

私がこんな(自意識過剰な)ことを考えながら出かける準備をしていることを、夫は想像もしてないだろう。
いや、もしかしたら、こういう気持ちは男女問わず人類普遍のもの(?)で、夫も無意識のうちに「二人の巣から出る儀式」を楽しんでるのかもしれない。
どっちなのかはわからない。聞いてみたりはしない。
共犯者同士は、心の底の底までを明かしたりしないほうがいいのだ。

ホテルの中華店で洒落た広東料理のコースを(タダで!)食べ、高い紹興酒をロックで飲みながら(お酒は手出しなので、夫がごちそうしてくれた)、この1年間のことをふたりで思い出してた。
具体的には、この1年で、どこでどんなものを食べたかについて細かく挙げていった。
フレンチ、イタリアン、もつ鍋、刺身に焼き鳥、もつ鍋、餃子、回転寿司、カニ、焼肉。
私たちの場合、それには洩れなく、大量のお酒がついている。
メタボの恐怖に怯える日も遠くないかもしれない・・・。

あるいは、その前に、飽きるのだろうか? 
夫婦の食事と会話は、かわりばえのしないものになっていくのか?
1軒だけでは飽き足らず、2軒目でも飲みまくるなんでことは、なくなっていくのかなァ。
結婚生活、まだまだこれからだ。