『天地人』救いようがない
さて、帰って、録画しておいた今日の『天地人』を見ましたよ。
謙信亡きあと、越後の国は言うに及ばず、北条・武田も巻き込んで関東一帯を揺るがした『御館の乱』。
これが大河ドラマで描かれるのは初めてのことで、往年の大河ファン・歴史ファンは、当初どんなに楽しみにしていたことでしょう。
蓋をあけてみれば、5話分もほどもさんざん尺をとっていながら、相変わらずブツ切れで繋がりに乏しく、深みも広がりもない出来ばえ。
『御館落城』という、タイトルだけはいっちょまえな今日の放送も、もうわかりきってはいたものの、何ともちっちゃくまとまって、前半最大の山場にしてはどうしようもなくお粗末なものだった・・・。
玉山さんの景虎とあいぶさんの華姫は本当に清らかで美しく、拙さはあるものの精一杯の演技で、そこはとっても好感がもてました。
ちっちゃい息子を人質に送り出す場面、一緒にあの世に行こうと覚悟を決めて涙ながらに抱きあう場面なんかは、あのブツ切れの脚本であっても、じんわり泣けたぐらいだ。
もっと脚本・演出が良かったら、のちのちまで記憶に残る悲運の夫婦になったに違いないのに、
と思うと、見てる私が無念でおいたわしくてしょうがないッスよ。
そもそも歴史という、いやがおうにも盛り上がる筋立てを、みっちり1年かけて味わうことができるという大河ドラマの醍醐味は、いったいどこへ。
たとえば一昨年の『風林火山』であれば、山本勘助や武田信玄、上杉謙信といった主役級はもちろんのこと、
馬場信春や駒井政武、小笠原正時や高遠頼継なんていう、目立つ部類ではない人物、さらには、伝兵衛や太吉、おくまといった、架空の人物でさえ、しっかりとキャラクターが立っていて、愛すべき「生きた人」として感情移入できたし、厚みのあるドラマ世界を形作っていた。
彼らひとりひとりについて、今でもはっきりと、「見せ場」や「名せりふ」が思い出せる。
それが、もう15回も数を重ねた『天地人』ときたら、どうよ。
毎回、「ご決断を!」とか、「今こそ総攻めを!」としか言わない無能にもほどがある上杉の重臣たち、数だけは6,7人もいて毎回ひとりひとりが顔アップで映されるものの、まるで個性というものを与えられていない上田衆。
じゃあそのかわりに、ヨイショしまくられている主要人物が魅力的か?といえばそうではなく、いつも「私を使者に!」とか、「越後のためなら!」とか、バカのひとつ覚えを繰り返して出しゃばってるとしか思えない。
現代日本の政治家が言う「国民のために」という言葉ぐらいに、なんの真実味も感じられないセリフの数々を言わされる役者陣、このドラマは彼らにとって暗黒の彼方に葬りたい歴史になるんじゃないでしょうか。
なーんて、こき下ろしつつも、未だに律儀に毎回見ている私は、結局、イラついて突っ込むことすら、「しないよりはマシ」と思っているのであって、ほんとに大河ドラマが好きなんですね・・・。
この日記を読んだ人には、普通に「じゃあ見なきゃいいやん。」と思われるはずなんだけど、そういうわけにはいかないんですよー、大河オタクは。
ええ、救いようがない一番のおバカさんは私ですとも!