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『下り坂をそろそろと下る』 平田オリザ

世の中

 

 

人口減少、少子高齢化、過疎。そして被災地。タイトルの「下り坂」とは、私たちの国、日本のことである。でも、内容を読んでみるとポジティブな印象。地方各地で劇作家・演出家である筆者が携わった仕事がいろいろと紹介してある。

キーワードは「文化政策」。というと、夢物語を語っているように思われるが、欧州の自治体では文化政策は予算の5~10%を占める重大で、かつ一般的な施策なのだそうだ。

なぜ文化が大事なのか? 小さな町にとって、欲しいのは人口だ。それも、できるだけ若い、独身者や子育て世代に来てほしいから、彼らを呼び込むために雇用や家が必要だと、工場を誘致したり集合住宅を建てたりという対策をする市町村が多いけれど、「そうじゃない」と筆者は言う。若者はそれだけでは来ない。なぜなら、そんな、日本じゅうどこにでもあるような町は「つまらないから」。だったら、つまらなくない町を作ればいい。自分たちの町を肯定できるようなものがなければならない。

そこで紹介されるのは、たとえば小豆島町。人口15,000人にもかかわらず年間100人以上のIターン者を受け容れているのは、「瀬戸内国際芸術祭」を契機にしたアートの力が大きいのだという。定住しなくても、一年のうち一定期間、滞在するクリエイターやアーティストもいて、行政はそういった人々も「関係人口」としてバックアップしているそうだ。

また、温泉の知名度も低下してきた城崎では、いわゆるハコモノ行政の産物だった「大会議館」を滞在型のアートセンターに作り替えた。舞台装置を建て込めるホールはもとより、スタジオが6つあり、宿泊施設や自炊設備も完備している。滞在費は無料なうえ、城崎の温泉に1回100円で入ることができる。開館3年目には世界13か国、40団体から申し込みがあり、トップクラスのクリエイターや将来を嘱望される若手も多く含まれているとか。

特に面白いなと思ったのは、筆者が関わって四国学院大学の入試(推薦入試の一部)を変えたこと。軸になるのはグループワークで、出題例はたとえば

・レゴで巨大な艦船を作る
・組体操をやってみて、危険度や対策を協議
・四国の観光プロモーションビデオのシナリオを作る

など。これは、成果物を評価するのではなく(演劇を作れという課題でも演技がうまい子が評価されるわけではない)、グループワークの過程を評価するもので、たとえば

・自分の主張を論理的、具体的に説明できるか
・ユニークな発想があったか
・他者の意見に耳を傾けられるか
・締め切り時間を意識し、議論をまとめることに参加しているか
・地道な作業を厭わずに、チームに貢献できるか

などが採点基準なのだという。また、その後には個別のインタビューもあって「あと30分あったらどんなことができたか」「印象に残った他者の発言」など、グループワークに関する質問を受ける。

これが入試といわれれば、少なくとも私たちの世代まででは、「えー、めんどくさ」「苦手」と思う日本人が多いんじゃないかな。私だって自信ない。でも、それは、「自分の意見を言う」「議論に参加し、建設的にすすめる」「とにかく時間内に成果物を作る」ような課題に慣れていないというか、ほとんど経験がないからというのもあると思う。

現代の若者に、しかも四国という一地方の大学に通おうとする子たちに、こういった力が必要なのは、地方こそ「文化資本」の問題に向き合うべき だからだという。

思考力、判断力、感性、主体性、多様性理解、協働性、そういったものの総体を社会学では「文化資本」といい、これらのうち、特に「身体的文化資本」は子どもの頃から知らず知らずのうちに決定されていく。それらを育てるのは「本物」であり、となると、(世界水準の)芸術や文化に触れる機会が多い東京や都市部の子どもが圧倒的に有利なのである。また、文化資本の格差は当然、貧困の問題とも密接に結びついている。とても不平等な環境で子どもたちは育っていく。

「だから、文化資本の育成は教育が担わなければいけない。特に地方は」と筆者は言う。かつてのように、島や町から出ずに一生を終えられるのならば必要はない。でも、そうはいかない現代社会だ。

被災地、女川や双葉の章では、「安心はない」というところから始めなければならない、という言説が印象的。とりわけ、子をもつ親は「安心したい」と思ってしまうが、その言葉は私たちが「安全神話」に囚われている証左である。厳しいけれど「もはや絶対の安心はない」というスタンスに立って、なんとかして、低線量被曝の時代を生き抜いていかなければならないという(念のため、筆者は国内すべての原発の稼働に反対している立場)。

そのために、今必要なのは、先頭でぐいぐい引っ張っていくタイプの強いリーダーではなくて、「雨ニモ負ケズ」の宮沢賢治のように、オロオロと共に歩きながら、「けが人はいないか」「忘れ物はないか」と見て回ってくれるリーダーではないかというのが筆者の持論。

私たちはどうしても、「なんとかしてほしい」と望む。もちろんそれが政治や行政の役割なのだけれど、どんな問題も、魔法のように解決することはない。万能の特効薬はない。それに、この国ではいつどこで大きな地震や災害が起きてもおかしくない、と認識せざるを得ない。そんな時代では、政治や行政に求めるものや、その参加の仕方も変わっていかなければならないのかもしれない。

カリスマを熱狂的に支持する危険性は、ヒトラーやかつての民主党政権含め、歴史が証明している。 「わかりあえないという起点から出発する」というのは筆者のポリシーで、Eテレ「東北発☆未来塾」で講師を務めたときもそういっていた。

お上に求めるのではなく参加する。人が簡単に分かり合えないことを受け容れる。そのためにも文化は大切なのだと思う。筆者も書いているが、地方は長年、首都圏のために資源や人材を提供する存在だった。一兵卒として、満蒙開拓団として、集団就職の若者として。今でも、偏差値の高い子は東北大へ、東京へと都市に向かう。国家のためでなく地方のための人材をどう育てるのか?どこで育てるのか? 文化資本に重点を置く教育はそういったこととも深くかかわっているのだと思う。

さて、この本のタイトル「下り坂」は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を意識している。明治という新しい時代、一等国を目指して突き進む日本人の群像を描いた大作小説は、戦後の復興や高度経済成長の「上り坂をぐいぐいと上って来た」団塊以上の世代にとって支えになり、誇りになってきた部分も大きい。

その「上り坂」に比して、これからの日本は「下り坂」なのだと、本書の冒頭と末尾で筆者は繰り返し述べる。日本はもう工業立国ではなく、もはや成長することはなく、アジア唯一の先進国ではない ということ。

そんなことはわかっている、と私なんかは思う。とっくに自明じゃないかと。そんな世界で生きていかなきゃいけない。私たちも、子どもたちも。でも、あくまで論理的に淡々と著述する筆者が、随所で司馬遼太郎の文章を引用し、また、冒頭と末尾では金子光晴の詩を引きながら、その「淋しさに耐えて下り坂をゆっくりしっかり下りて行こう」なんて、やけに叙情的に書いているのを見て、思った。

これは、「坂の上の雲」を理想にしてきた人々に向けて書いているんだな、と。そういう人々にとっては、「下り坂」って、これだけ諄々と説かれても受け容れ難いほど、厳しい事実なんだな、と。私の周囲で言えば、「下り坂? そりゃそうでしょ」と割と簡単に言われそうである。それって大事なことなんだな、私たちがこれから下り坂を働いていく世代なんだな、と思う。