『セーヌの川辺』 池澤夏樹

 

セーヌの川辺 (集英社文庫)

セーヌの川辺 (集英社文庫)

 

 

2005年から2008年の雑誌連載をまとめたもの。妻子とともにパリ郊外の町フォンテーヌブローに住んで1年が経った頃からのエッセイで、『異国の客』の続編ということになる。

筆者自身があとがきで書いているように、移住間もないころの見るもの聞くものすべてが珍しいという時期は過ぎているので、暮らしはより平穏で、その分、思索が深まるといった感のある一冊だった。

私にとってこの本の面白さはだいたい3つ。

◆まずは外国の暮らしや文化、その雰囲気を感じられること。クリスマスや聖マルタンという祭りなど、季節感まで感じられる。筆者が暮らす町についてだけではない。スイスやフィンランドやフィレンツェを旅した章もある。南仏の田舎町で語学学校に通う章も。

ヨーロッパは地続きでつながっていて、そこには多様な言語があり、多様な文化がある。たとえばスイス憲法は、フランス語とドイツ語、イタリア語、それにレト・ロマン語という4つの言語を国の言葉としている。州ごとに公用語が決まっている。だから、「A州に生まれた人の母語はドイツ語。では彼にとってイタリア語は外国語か?」というような命題も生まれる。自国の言葉ではあるが母語ではない言葉があるということ。EUは加盟25か国(2006年)の公用語を等しく扱っていて、公式文書はすべて20の言語に翻訳されるという話にも驚いた。

ヨーロッパのどこかにいると、言語は1つではないということを忘れるときがない。母語を異にする人と話をする機会は多いし、それは可能であり、意味が深いということを日々の生活の中で嫌でも教えられるのがヨーロッパの言語生活ではないか。生まれてからたぶん一度も耳にしたことがないラトビア語やリトアニア語で暮らす人々がいて、その人たちもEUの仲間だと意識することは、差異を認めたうえでの連帯感を生む。多にして一という感覚に繋がる。

 

2月のフィンランド、北極圏に入って100キロというキティラの街は零下30度。世界はモノクローム。道路はセンターラインが見えないし、路肩が分からない。スーパーなどで出会う人々はみな派手な格好。黒と白以外の色を目が求めるのだろう、と。

もちろん暖房は必須で、主役は床下暖房だが、その電気はロシアからきている。ヨーロッパの多くがロシアの天然ガスに依存していて、それは政治的に対立した時の脅威になりうる。フランスが原発大国(本書の時期、75%が原子力でまかなわれていたらしい)になったのは、産油国に振り回されないためであるという。

◆2つめは、「外国を経験した目が見る日本」についての知見が読めること。

たとえばヨーロッパには、各地にビーフシチューのような郷土料理があるという。塊肉を切り分けて、ごく細い火にかけて長時間加熱する。農家の主婦が朝、火にかけて野良仕事に出ていって、昼過ぎに戻るとちょうどよくできているという按配。

比べて、日本料理には長時間の加熱という手法が少ない(豆くらい)。米を炊くのにも長い時間はかからないし、魚は煮ても焼いてもすぐに食べられる。日本の食材は厨房に到着した時点でほぼ完成していて、その典型が寿司。なぜこうなったかというと肉食の文化が発達しなかったから。

それを、“日本人は農耕民族でヨーロッパ人は狩猟民族だから”と括るのは早計らしい。たしかにフランスは言わずと知れた農耕大国だもんね。日本は農耕民族というより非牧畜民族である、と筆者は書く。なぜ牧畜がなかったかというと、宗教的というよりは地理的条件が大きくて、日本の国土はまずもって山また山、広い平地が少ないうえ、モンスーン地帯にあって暖かく雨が多い。それゆえ、いったん開拓しても再生力が強く、牧場経営には向かない。それで少ない平地をまずは田畑にして、そこに集約的に労力を投入して作物を得る。牧畜のような粗放な土地利用はできなかった、という。こういう比較文化はわかりやすく、自国を見る角度を変えてくれる。

あるいは、フランスの町は美しいという話。建造物は古いものがよく保たれ、新しく建てるときも街の景観を損ねないよう、周囲と調和がとれるように法律が監視する。広告や看板の規制も厳しい。日本では、厳島神社のすぐそばに新興宗教団体のけばけばしい建物があったり、広告や看板はほとんど出し放題だよね。

というと、フランスのほうが成熟した社会であるようにも思えるが、筆者は別の見方も述べる。キリスト教の世界観では、人は神によって自然という場を与えられ、それをよりよき状態に導く。山野を畑や牧場に、野獣を牧畜にし、さらに都市を作る。そこでは人々の合意や契約が重要だから、法によって街づくりや景観を厳しくコントロールする。

では日本は? 八百万の神の国、水が多く暖かな豊葦原瑞穂の国では、自然は活力にあふれ、どんどん繁殖し繁茂する。人の活力もまた自然由来のもので、それを規制するのは得策ではない、という感覚があるのではないか、と。

自分の目の前にあるもの、暮らし方について、人はわざわざ理由や由来を考えない。そこに問題を発見しても、「昔からそういうものだ」と思えば、変えていくことはとても難しいと感じる。こういった場合も、角度を変えてみること、まったく違う社会と比較してみると糸口になる。

◆3つめは、今から10数年前の世界を見られ、そこからの推移を考えられるということ。この本の執筆当時、フランスではサルコジが台頭し、やがて大統領に選ばれる。新自由主義的な政策をとる一方、移民に対して過激な発言を繰り返す政権。その発言の背景には当然、国民の一定の支持がある。「自由、平等、友愛」を掲げるフランスで移民は包摂すべきものだったが、このころ、フランスでも風向きが変わる。差別や格差が広がり、不満を抱く若者たちが騒ぎを起こす。

今、各国で排他的な自国主義を掲げる指導者が誕生したり、支持率を伸ばしたりしているのは周知の事実。フランスでは極右のルペンが大統領選へ出馬する。それは急激な変化ではない。10数年前には既に、芽を出していたことで、世界はそれをとどめたり修正したりすることなく、むしろ分断の方向へさらに進んでいる。これはどこまでいくのか、どこまでいったら次の風が吹くのか、考えさせられる。