『社会の抜け道』を読んで愚考するのこと (5・完)

何かについて考えたり、考えなかったりするのは、持ち回りじゃないかなと思う。考えるキャパシティには限界があって、その限界は、人によって違うのはもちろん、同一人物の中でも上下するもの。ひとりの人間が興味をもてるトピックは限られているし、時期によっても違う。「何も考えたくない、ニュースを見るのも疲れる」って時期も人生にはあると思う。「考えない練習」って本が売れたのもすごくよくわかります、私自身、考え過ぎたくなくて、拙劣な小説を書いてその中で革命を起こしていたわけで(笑)。

育児や介護の問題も、自分が当事者である時期にもっとも関心が深く、その時期が過ぎれば別の話題に目が向くのは自然なこと。また、「考えない習慣」で生きている人もいるが、その人にはその人の来し方があり、個人を責めてもどうしようもないことだ。

だから、考えられるときに考えられる人が考える、って考え方でいいんじゃないかなと思う(どんな文章だ)。「考えてる人/考えない人」って対立構造で捉えない。いま考えてる人も考えられない時期があるかもしれないし。いま考えてない人も、考えている人がいれば、何かのきっかけでつられて考え出すこともあるかもしれないし。別に考えることがそれ自体でえらいわけじゃない。ただ、考えることを卑下もしない。考えている内容が未熟でも、そういう段階を経て考えは熟していくものだ。「自分、あまちゃんのくせにエラそうに…」って萎縮しちゃえば、それも思考停止につながるおそれがある。

この本の「革命なんてちっとも良くない」「世の中はちょっとずつ変えていくしかない」って主張は、地味で、まだるっこしくて、求心力が低いような気がするけど、私には希望のように思えた。「多少考えたってそう簡単に変わらない」じゃなくて、「考えていれば、ちょっとずつでも、世界は変わっていく」。自分が、誰かが。そこここで何かについて考えている人がいる限り、絶望する必要はない。

最後に、今さらだけど「考える」ってなんだろう、と考えてみる。「感じる」とか「思う」とどう違うのか? 思うに、感じたり思ったりっていうのはその場限りのことで、考えるとは、感じたこと思ったことひとつひとつを忘れないで、重層化していくことじゃないかな、と。感じたり思ったりを積み重ねていくためには、見たり聞いたり触れたりする機会が随時必要。だから、しつこくすること。考えるって、体力のいることじゃないかなと思う。体力…思考体力? 

さらに思うに、体力にしろ知力にしろ、自分がもっている力を使う、というのは、基本的に、楽しい、やりがいのあることのはずだ。そして力は使えば使うほど、伸びていったりもする。だから、考えることも、本来は面白いことじゃないかなって思う。もちろんつらい問題について考えるのはつらい。だけど興味深い考えごとも、世の中には、いろいろあるはず。

國分: 一見ものがあふれているように見える消費社会では、知恵が奪いとられちゃう。自分で探さなくなる。だから、みんなつまらなさそうにしている。で、つまらさなさそうにするからどんどん商品が投げ込まれるんだけど、結局のところは、もっとつまらなくなってしまう。
古市: 永遠に満足しないサイクルに組み込まれてしまうわけですね。
國分: 消費社会の根底には、消費と不満足の悪循環があると思うね。

國分:うまく遊べないときに、人は退屈する。だから、うまく遊べなかったり、楽しめなかったりすると、人は外から仕事や課題を与えられることを求めるようになる。自ら自由を捨てて、何かに従いたくなる。人間が従属へと向かう契機のひとつには、自分で楽しめないということがあると思う。自分で楽しめないと退屈してしまうから、外から仕事を与えられた方が楽だという気持ちになるんだよ。だから俺は、人はきちんと遊べるようになる必要があると思ってる。小さいときからとにかく遊ぶことが大切だと思うね。それができていないと、隷従したがる人間ができあがってしまう。

ここで強引に、「すげーわかる!!」と激しく頷いた部分をぶちこんでみました。夢中になるほど楽しい遊びには全部「考える」要素があると思うし、考える力ってたぶんいろんなとこに応用がきくと思う。だからこれからも楽しく遊びたい。ってことでオタ活推進の意を新たにしたところでおしまいww