幼児に文字は教えたくない その1

一度、まとめて書いとこうかな。「小さい子どもと文字」について。あらかじめ断っときますが、個人の、しかもシロウトの考えです。これが絶対正しい、とか思ってるわけじゃないです。ただ、この考えが“私にはしっくりくる”、ってだけで。

私は、「幼稚園・保育園児の年齢の子どもに文字の読み書きは必要ない」と思ってます。夫にもかなり早い時期に「なるべく字の読み方は教えないように」とお願いしました。息子を入れた幼稚園も、「ここでは、子どもに字を読ませたり書かせたりしてる姿をまったく見ないな!」ってことで選びました(や、もちろんそれだけが理由ではないけどね)。

なぜかというと理由は大きく2つあって、ひとつは、「幼児時代は、極力、カリキュラム的なことはさせたくない」のです。文字に限らず、数字(算数)、音楽(楽器)、体育(スポーツ)など、どんな分野についてもカリキュラム的なものは避けたいと思っています(詳細は、文字とは直接関係ないので割愛)。

文字を教えようとすると、とかく、「カリキュラム的」になりがちじゃないですか。「読める/読めない」が目に見えてハッキリわかるから。んで、50音が読めるようになったら、次は濁音・半濁音、拗音、促音、はたまたカタカナ…みたいに進んでいきますよね。自然と。

スポンジが水を吸うように、子どもがどんどん覚えていけば、子ども自身、楽しくて、自信につながるかもしれないし、親もなんとなく「成果が出た」って感じがしてうれしくなって、どんどん教えたくなっちゃいそう。逆に、子どもが覚えなければ、親は焦ったり落ち込んだりしそう。でも、なんか、どっちも違うな、って思うんです。

もうひとつは、「文字を知ることで自分を取り巻く世界が変わる」と信じているからです。私自身、子どものころから本を読むのが好きで、本を読むことで、自分の視点が変わったり、視野が広がったり、他者の環境や気持ちを想像したり・・・ただ、楽しいから読んできただけですが、その中で、知らず知らずのうちに多くのことを学んできたと思います。

本って、別に読まなくても生きていけますが、読むことで、「生きやすくなる」って面があると思うので、子どもたちにはぜひ本を読むことをおすすめしたいわけですが、そんな私だからこそ、「文字を知らない時期」を大事にしてほしい!

3才や4才で、多少ひらがなが読めたって、何も、難しい、ませた本が読めるわけじゃありません。でも、文字の情報伝達能力ってすごいです。チラシやポスターを見たとき、写真やイラストなど、どんなデザインが施されても、大人の目には相当早い段階で「文字」が飛び込んできますよね。子どもだって、文字を知っていたら、そうなりますよね。ほとんど本能的に、文字によって情報を得ようとする。それはとても自然な、正しい態度だと思うんです。

それは「結論」を「できるだけ手っ取り早く」得ようとする態度です。大人はそれでいいんです。でも、子どもには、どうかな。

小さい子どもって、面白いことをたくさん言いますよね。大きいジャガイモと小さいジャガイモを見て「これはおとうさん、こっちがぼく」と言ったり、くもった夜空を見あげて「お月さま、おうちにかえってるのかなー」と言ったり、水を張った製氷皿を見て「どうしてお水を冷凍庫にいれるの?」と聞いたり・・・今、パッと思いつかないんですが、もっともっと面白いこと、たくさん言いますよね。

発想が自由なんですよね。世界を知らないから。彼らには「あたりまえ」のことが少ないし、縛りもない。「正しさ」とか「効率」とか「客観」の世界でなく、「自分の尺度」「自分の見方」「面白さ、正しさなど快楽を求める」という「主観」の世界で生きてるから。

ちょっとしかない知識。生活の中で、自分が見て・聞いて・触ったものだけの思案材料をもとに、自分なりに考えたり、想像したり。間違っていてもいい。好きなように好きなだけ考えて、やってみる。それって、不自由なことではなく、実はものすごく豊かなことなんじゃないかと思うし、子どもには、それが自然なんじゃないかな、と思うんです。

そういう時期は、限られてますよね。小学校に入れば、どうしても、お勉強は始まってしまう。「正しい答えを求める」「正しいか間違ってるか」の尺度に組み込まれていきます。

文字は、正しい情報を伝えます。たくさんの情報を伝えます。自分が手に触れたこともないものについても教えてくれます。断定し、固定化します。それは時に、とても窮屈なものです。

そうでなく、自分の目で、自由に見て、自分の尺度で考えて、「できる・できない」が関係ない世界、正解を求めなくていい世界にいてほしいんです。幼児のうちは。文字がないほうが、自由な世界を守りやすいと思うんです。

中学生、高校生・・・と成長していけば、「半径5mの世界」で生きられるのは困ります。少しずつ、見るもの・考えるもの・想像できることの幅を広げて大人になることが大切でしょう。自分や家族が健常者だからといって、ハンディを持つ人の気持ちをまったく想像できない人間にはなってほしくありません。今が平和だからそれでいいと歴史にも未来にも興味がないのでは困ります。

けれど、そういう段階に進む前…小さい子どもの頃は、逆に「目に見えるもの」「手に触れられるもの」について、しっかりと向き合い、実感することが大事な気がします。「いま、ここ、自分」が確立してこそ、他者や、ここではないどこか、今ではないいつか・・・について考えられるようになるのでは? 

文字は、記号であり抽象です。子どもは、そんなものに時間や手間をかけるより、「具体」や「自分」の世界で生きてほしいものです。

「自分の目」「自分の考え」を、誰にも邪魔されず、じっくり、たっぷり満喫することは、むしろ、学校に入ってからの「考える力」にもつながるんじゃないかと勝手に思ってます。幼児の頃から、決められたプログラムをこなしていくことを日常にしてしまうよりも、ずっと。

・・・ちなみに、こーゆーこと書いてると、とっても“意識の高い親”のようですが、私、へーきで子どもにテレビいろいろ見せますし、市販のお菓子やインスタント食品も食べさせますし、週末は夜更かしさせてもまぁいっか(自分が飲んでいるから・・・最悪)、ぐらい思ってる超テケトーな親です。親のどんなこだわりも、逆にどんなこだわりのなさも、なんもかんも、親の勝手なエゴだという認識はしとります。
(つづく)

幼児に文字は教えたくない その2 - moonshine

幼児に文字は教えたくない その3(完) - moonshine