『家守綺譚』 梨木果歩

家守綺譚 (新潮文庫)

家守綺譚 (新潮文庫)

梨木果歩の小説を読み返そうの巻、第2回。20代後半のころ、友だちに借りて読んで、「へぇ〜いいやん!」と思ったもの。8年くらいの時を経て、また同じ友だちに「貸してちょ」と借りて読みました(笑)

なにがしか重い小説に取り組んでいた時に、気分転換のように同時並行してちょこちょこ書いたのが「家守綺譚」である、とどこかで読んだ気がする。なるほど、短い章立てのひとつひとつを、それぞれの季節の色彩、それぞれの風景の匂いまでもを思い浮かべながら気軽に、少しずつ読み進めていくのが、この小説にもっともふさわしい気がする。

とはいっても、この不思議な世界観のそこここに散りばめられた作者の意思のかけらについて、やはり思いを巡らせたくなるのもまた道理。

再読しはじめてすぐに、以前読んだとき、「高堂って実は自殺したのだろうか?」と疑ったことを思い出した。

大きな事件の起こるわけでない淡々とした物語が、なぜこんなに人気があるのかというと、主人公に懸想するサルスベリとか、仲裁の大家として近所で一目置かれるようになる犬とか、河童の子どもとかいう不思議が周囲にあふれる、質素だが何ものにも縛られない生活というものが現代人にとって魅力的に映るのもあるけれど、同時に、死の影が見え隠れしていることも大きいのではないかと思う。この世ならぬものに囲まれる暮らしに、ただ物珍しいだけではない深みが窺えるのである。

高堂の死の真相は詳らかにされない。目配りしつつ再読したけれど、「ボートを漕いでいて行方不明になった」という説明であって、自殺と断定できる描写はない。ただ、どうしても、そのことについて考えてしまうのは私だけだろうか? 
死後、主人公の前に現れる高堂は、ボートが見つかった地点である竹生島の女神“浅井姫”に心を寄せている様子があるし、主人公が「おまえは人の世を放擲したのだ」と言えば、「おまえは人の世の行く末を信じられるのか」と厭世観をあらわにする。作中、ダァリアの君の幼なじみが自殺する章があるのも、恣意的なものではあるまい。そこでは「首つり」という生々しい語が書かれるのである。なんといっても、死後、主人公の前にたびたび姿を現す高堂の、若い身空で命を落としたのに、無念の様子もなく飄々としているのが不思議に思える。だいたい、日本では、成仏した死者は現世にちょくちょく現れたりはしないものである。

それでも、あくまで、真相は闇の中である(湖の底というべきか)。真相が永遠にわからないからこそ、遺された者が知らず彷徨う物語なのではないだろうか、と今回読んでいて思った。主人公のもとに次々と現れるあやかしのものたち。まして、死者そのものである高堂。彼らは、文士という浮世離れした生活を営む主人公を愛して姿を見せるようなのだけれど、本当は逆なのかもしれない。俗世に繋ぎとめるものの少ない、彼岸の友を近しく感じながら過ごす主人公は、物語の中で、死の世界に、片足を突っ込んでいるのかも。隣のおかみさん(ハナ、という名が非常に普遍性を感じさせるのも象徴的)や後輩の山内、和尚が、この世ならぬものの知識を豊富にもちながらも、それらに翻弄される主人公をたびたびいさめるのは、対照。彼らは地に足をつけて生きている。

ふわふわと心地よく浮いた物語を締める終章は、作家の手腕が存分に発揮されていて見事。多くの小説で死を扱いながら、画一的な印象がなく、それでいて紛れもなく同じ作家だと思える。生は死を含んだものであり、けれど生と死の間には厳然と線がある。といって、死に対する目線はどこかあたたかい。ここでも、作家は死を含んだ生を肯定している。