『西の魔女が死んだ』 梨木香歩

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

随所でぐっときてところどころ泣きながら読んだ。本当に良い作品。びっくりするのは、この小説を、むかしの自分が一読して「はいはい、みんなやたらこういうの有難がるよねー」とポイしてたことだ。ほんとにポイしてた(ていうかブクオフに売り渡してた)から、今回ブクオフで買い直したよ、105円できれいなのあったから。こんな良い本、こんな綺麗な状態で売るなよ、ばか! ・・・とどの口で言う。

いや〜、十年経つと、人間、変わるもんだね。十年前の自分は、健全すぎてパス、て感覚だった。学校でうまくいかなくなった中学生の少女が、学校からも父母からもいったん離れて、自然とともに暮らすイギリス人のおばあちゃんと生活を共にすることで心身ともに立ち直ってゆく。そらそうでしょ、て感じだった。自然はすばらしいしおばあちゃんは知恵をもってる。そしておばあちゃんはおばあちゃんであるがゆえに、遠からず死ぬ。こういうので大の大人までが感動しちゃって、お手軽だよな、と思ってた。

梨木さんの本を読んだのはそのときが初めてで、そんなだったから、「この人はもういいや」って思ってたんだけど、その後、2年くらいしてか、友だちが貸してくれた「家守綺譚」は面白くて、それで「からくりからくさ」を買って、そのあとに読んだエッセイ集「春になったら苺を摘みに」がどきどきするほど素晴らしくて(ちなみに、のちに三浦しをんが「今まで読んだエッセイの中でベスト5に入る」と書いたのを読んで感動うるうる。さすが三浦さん!と彼女の両手を握ってぶんぶん振りたい)、すっかり梨木さんのファンになって今に至る。この間、「西の魔女」のことはうすうす気になっていたのだ。きっと自分が未熟でいろいろ感じそこねていたんだろうなーと。

読み終えて、ちょっとした宿題を終えた気分なんだけど、「じゃあ今回は何でこんなに感動できたんだろう」って言語化するところまでがほんとの宿題だとすると、なかなか難しい。あらすじはさっき書いたとおりで、あらすじを書いてみるとやっぱり、「自然はすばらしいしおばあちゃんは知恵を…(以下同じ)」なんだよなあ。

以前もっていた印象と比べて、それほどポジティブじゃないんだな、と思った。おそらく最初は少年少女を読者に想定していたと思われ、構成も文章も児童文学っぽいんだけど、だからといって子ども向けにオブラートに包まないところがすごくいい。確かに、子どもは、体も頭脳も経験値も何もかも未熟な、“ちっぽけな存在”として生きているんだけど、にもかかわらず、彼らはゴツゴツしたりザラザラしたりしている現実に晒されている。子どもは、だから、大人よりずっと不自由でかわいそうだったりもする。

本作では、おばあちゃんとの生活のきっかけになる学校でのいじめはもちろんなんだけど、おばあちゃんの家という「逃避先」も完璧な聖域ではなくて、ゲンジさんの存在や、仕事が忙しい両親や、ママとおばあちゃんの価値観の不一致なんかがあちこちに散りばめられていて、物語の中で大事な役割を果たしている。だからこそ、感動的なのだ。

この物語は、小さな世界で身動きがとれなくなっている子どもが、そこからエスケープすることを肯定している。まいにとってのおばあちゃんのように、親ではない別の大人が、できれば無条件の愛情をもって、子どもの成長に関与することを期待している。子どもは(人間は)自分で元気になる力をもっていて、自然に触れたり、規則正しい生活をしたり、多少の言葉がけをされることによって、その力が引き出されることを信じている。人間は、ちょっとした意地を張ってしまうことや、忙しい生活に押し流されていくことがあると教えている。それは大きな後悔につながることがある、とも。

そして、なんといっても、タイトルで、また物語冒頭で既に示される「死」の扱い方が圧巻で、それが本作を傑作たらしめているのだと思う。ファンタジックなんだけれども、ものすごく力強く、無限の愛情や、すがすがしい解放感にみちて、死をも含めた生の肯定、とでも言うような、圧倒的な力があふれ出すラスト。『村上エフェンディ滞土録』といい、「万感の思いがこみあげてくる」という表現がぴったりのラストを書くのが本当にうまい作家だ。

ほんと、全然「お手軽な立ち直り小説」なんかじゃなかったよ。これに物足りなさを感じてた昔の自分が物足りない人だったんだ、て話でした(笑)。読みなおしてよかったなり。