蜜月のあと、ムカイリさん

ちょっと前の一時期、映画の宣伝でいろーんな番組に出てて、まあまあいくつか見たんだけど、今ひとつワーキャー言えなかった。ブレイクしてしまった人の宿命でもある“消費感”が見え始めてる気がしてぞわぞわする。そもそも、本人も楽しそうに見えなかった。仕事だからちゃんとしますけどね、て感じ。時に居心地が悪そうだったり、窮屈そうにも見えた。周りがどうだろうと自分は自分、なんも変わりません、みたく飄々としてるのがこの人の持ち味だと思っていたのだが。

いくつか印象的だったものを挙げると、NHK「スタジオパークからこんにちは」では、ナレーションの仕事について聞かれた際、「そちらこそ、普段どういうトレーニングをしているんですか?」とアナウンサーに逆質問。アドリブに弱いNHKアナの戸惑いを意に介さず問い詰めるという、明らかに台本になさそうなプレイ。フジ「ボクらの時代」は、向井さん(主演の映画)ありきでの企画だったろうに、どうも歯切れの良くないトークに終始して、終わってみれば、松坂桃李くんと古田新太さんのしゃべりしか記憶に残らず。TBS「ぴったんこカンカン」の大げさなスター待遇はいつものことなんだけど、こうやってみると、同じようにもてなされてきたキムタクさんの年季の入りようってすごいな、と思った。キムタク in ぴったんこカンカン で違和感をおぼえたことって一度もないもん。

3ヶ月くらい前か? パラキスの宣伝で同じようにテレビ出演が続いたころにはなかったんだけどな、こういう感じ。テレフォンショッキングだってすごく自然体だと思った。や、むしろ、生放送=編集が入らない、そして、少なくとも振る舞いとしてはフラットなタモリ相手ってのは、昨今の彼にとってやりやすかったのかな。

まあね、クサってるとしても、わかる気はするさ。ひっそりと・・・とはいえ、圧倒的なクオリティで『それでも、生きてゆく』が1クールをまっとうした直後に、『アイシテル』のスペシャルドラマだし。『江』の秀忠は、ひっじょうにフィーチャーされているとはいえ、ドラマ自体がニントモカントモなわけで。

ウルルン以来、特別な思い入れもあろうカンボジアにて、精魂込めて作ったであろう『僕らは世界を変えることができない』。それで感じたところ思うところを言葉にしたって、たとえばさまざまなインタビューで同じことを100回聞かれて答えていれば、自分で喋っていてもどうにも言葉だけが上滑りするような感覚にも襲われるだろうなとか。テレビで宣伝するとなれば、とたんに内容うんぬんより「向井くんありき」の商業的な匂いがぷんぷん漂ってくるとか。

それに。ふと、お茶の間の視聴者である自分をかんがみても、向井くんに萌え萌えしたことはあっても、その演技に感銘を受けた、ってことは、ことは・・・ない・・・ない気がする・・・。

イケメンで頭が良くて運動もできて料理も得意な向井くん。その向井くんが、ドラマに出てかっこいいところを見せてくれます。映画もやるんで、宣伝がてら、うちの番組のゲームをしたり、ぶらり横浜散歩したり、最近凝ってるボルタリング?をやってみせてくれます。

作り手側からも、見る側からも、そういう扱いをされるのに彼が辟易とするなら、それもあたりまえのことだ。先日の会見で、香川照之が、自分たち親子を称して「ぼくらは何々パンダ的なそういうことで舞台に立たせていただけたら」と言っていた。うわーそこまで言うかと思ったもんだ。何々パンダ。芸能人たるもの、根源的にはそういう役目を帯びてるとしても、なかなか自分で口にする人はいないよね。

偶像と実像の乖離。しかしそれは、古今いろんな人がぶちあたってきた壁でもある。広末涼子福山雅治安藤美姫も。気楽なお茶の間の住人たるワタクシとしては、ここからの処し方ってのに興味があるのだ。凡人としては、希望が見たいなとも思う。あのときがあったからこその今よね、と将来思いたい。そういう夢が見たいのよ。すぐになんて言わない。こちとら、5年でも10年でも、のんびり見てるから。たぶん。

・・・・・みたいなことを書こうとちょっと前から思ってて、今、向井さんのブログを確認したらば、最近、カンボジア親善大使になったとな。(http://ameblo.jp/osamu-labo/day-20111004.html

親善大使になることでいろいろなことを言われることもあるでしょう。

でも今の自分が置かれた状況なども含めて、自分がやる意味は必ずあると思います。
その気持ちは何があっても揺るぎません。

やらないよりは、やる。だから堂々とやります。自分で望んで掴んだものなんで。

ふーん、と。なんか、前後の文脈を全然知らない一般人としては、ずいぶんな決意のほどにちょっと面食らうぐらいなんだけれども。やっぱりいろいろあるんだろうな〜、と、ここでも。