『八重の桜』第30話「再起への道」追記

前回の記事のコメント欄でやりとりさせていただいてたんですが、レスを書いていたら異様に長くなったのと、最近いただいてる色んな反応や、ネット上の騒ぎ(笑)についてなど、いただいたコメントと関係のない部分にも触れていて、そちらについても書き残しておきたいので、独立した記事にすることにしました。

事前のやりとりに興味のある方は、長くなりますが、前回の記事のコメント欄を参照いただければ幸いです。

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>naomik1977さん

私も、仕事のあるご主人を残して、京都(確か)での避難生活を送っているお母さんを追うドキュメンタリー、見たことがあります。その方は、「故郷に帰りたいですか?」と聞かれて、やはり複雑な表情で、考えつつ、「もちろん帰りたいけれど、やっと軌道に乗ってきたところでもあるので…」というようなことをおっしゃっていましたね。

考えてみたら、こういった方や、naomikさんが言及されたお母さんに、八重さんはとても近いんですね。直接、そういう方々をモデルにしたわけではなくても、天災にしろ人災にしろ、被災した方の事情は本当に人それぞれで、複雑で、簡単に推し量れるようなものではない…ということを念頭において、書かれた脚本なのかもしれないですね。

naomikさんの今回のコメントで、そう思えるようになっている自分がいます。

いえ、正直言って、そのような解釈がすんなりとできるようなドラマの描写だったか? と言われれば、うーん・・・と思ってます。naomikさんのような深い洞察ができる方がどれだけいたかな、と。やっぱりちょっとわかりにくい45分だったと思います。演出とか、編集とか、役者スケジュールの問題もあったのかもしれない。ノベライズが読みたいところです(が、ネタバレは極力、見たくないので、ドラマ完結してからでないと怖くて手に取れない笑)

ただ、あの展開で、そこまで思いが及んだnaomikさんに感銘を受けていますし、同時に、自分の想像力不足、(被災された方への)共感力不足等に恥じ入る気持ちも(汗)。コメントでそのようなきっかけを作っていただき、ありがとうございます。

ここからは、ちょっと話が逸れるのですが、尚之助の退場が近づいてきているため、その別れについてとてもナーバスになっていらっしゃる熱烈なファンがネット上に多く、私も、記事で「尚之助さんかっこい〜!」と書いてるクチですから、ファンの方に、熱い思いや、尚八重カップルの描き方に対する不安・不満etcをぶつけられることがあったりして、若干、戸惑ってた部分があります(笑)

そういった方々は、端的に言うと、「尚之助に比べて八重の愛の大きさが足りない。このまま別れてしまうのか」とやきもきされているようです。

私は、前回のコメントにも書いたように、川崎八重時代(の、少なくとも別れの前まで)は「妻としての幼さ」がある、という設定なのだという(ある意味冷静な)目で見ている部分があり、けれど、神保修理の最期のとき、史実にない部分を創作してまで彼に救いを与えた脚本なので、尚之助も必ず報われる(つまり、彼の思いが八重に通じる日がくる)と確信もしながら、見守っています。また、尚之助だけでなく、他の登場人物や、その群像劇としてのドラマ、歴史の描き方など、いろいろなところに興味をもって見ています。

もう一歩踏み込んだ言い方をすれば、尚八重カップルという「木」を見て森を見ず、みたいなドラマの見方は、私はしたくないのです(ちょっと語弊がある書き方ですみません。尚之助目当てで見ている方を否定するものではありません。そんなに女子を夢中にさせるイケメン&大河脚本ばんざい、です。でも、私には、私なりの、ドラマの見方があります)。ただ、「尚至上主義」の方々に、私が記事で「尚かっこい〜」と書いてるのを見初めていただいて(笑)、同士だと思われて共感を求められると、ちょっと、困ってしまうのです(微笑)。

(あ、困るぐらいの熱さの方はそれほど多くありません、ブログにコメントいただく方などは、だいたい、私と同じ感じの、「なんちゃってミーハー \(^O^)/」な方がほとんどだと感じてます)

なので、熱烈ファンの方に「落ち着いて、大丈夫だよ、そんなにやきもきしなくていいよ」と言いたい反面、今回の放送に関して、ファンの方がやきもきしてしまうような、一種あいまいな描き方になっていることに、ドラマに対する不満も感じてました。

でも、naomikさんのコメントを読んでいて、八重の…戦争(人災、天災)を経て再起への道の途上にある人々の傷の深さ、心境の複雑さ、道の険しさを、素直に、そして深く感じていきたいな、とあらためて思いました。

八重は確かに妻として幼いし、尚之助に甘えている部分もあるんでしょう。けれど、尚之助の家族が会津にいない分、環境的に「山本家の娘」であり続けるのは致し方のないことだし、そういった、夫婦間のちょっとバランスしていない部分も、「戦争さえなければ」自然に解消していったものかもしれない。私も「夫を愛しているならばすぐ斗南に行くもんじゃなかろーか」と思ってましたが、それって、やっぱり、外野の勝手な思い込み、理想の押しつけなんですよね。現実はシビアで複雑。愛が必ずしも簡単に勝つわけじゃない。

実際、会津戦争後に多くの夫婦が離別していると聞きます。罪人扱いとなった夫(藩士)が妻子の未来のために…というのが多いのかな、と思っていましたが、なんか、そういう、簡単な一言でまとめて理解しようとすること自体が、不遜なのかなと思えてきました。八重は、すばらしい相手と巡り合って再婚して、少なくとも経済的に不自由しない生涯を送るようですが、いろいろな事情で生活を共にしていくことができず、かといって、離婚したあとも苦労のし続けだった人々が多いことも想像に難くありません。

「いろいろな事情」というのには本当にいろいろあって、わかりやすい生活苦や実家の事情等だけでなく、たとえば浮気とか、夫が戦争で人格が変わってしまったとか、そういうのも含めて、戦争の暗部のひとつなんですよね。

ドラマではこれから、その後、運命に揉まれ続ける人も、転んでもタダでは起きないようなたくましい人も、いろいろな人が描かれていくものと思います。そして、このドラマの作り手は、そういった人々に「勝ち組、負け組」のレッテルを張るのではなく、優劣をつけずに、また、ある部分では、一見の勝者・運の強い人を冷酷な目で見たり、一見の敗者・運の弱く見える人にあたたかなまなざしを注いだりしながら、描いていくのだろうと期待しています。

来週は、他の夫婦の別れも描かれるでしょうし(それぞれ違う形になりますよね、きっと)、「あんつぁま鴨川に投げ込んでやりたい!」とか騒ぎつつも(笑)、その奥のひだまでもいろいろと想像しながら、見たいと思います。