六月博多座大歌舞伎昼の部「ヤマトタケル」を見て 3

先代のヤマトタケルは映像で断片的に見たことがあるだけだが、それはそれは威風堂々とした、押しも押されぬ英雄という印象だった。このあたり、両方を舞台で見た人に詳しく聞いてみたいんだけれど、当代は、だいぶ異なるんじゃなかろうか。亀ちゃんのヤマトタケルは、とても清新で、かつ、儚い。若いし、華奢だし、初役だからというのもあるし、それが彼の味なのかなとも思う。

すでに爛熟の気配のある大和の国の宮廷で、のちにヤマトタケルとなる小碓命(オウスノミコト)は、ただひとり、まっさらでまっすぐな若者として登場する。衣装も真っ白。猿之助の二役であり、すぐに命を落とすことになる兄・大碓命のセリフに「女を知らないおまえにはわかるまいが」というセリフもあるとおり、まさに清らかな(笑)存在なのだが、その造形にまったく無理がない、というか、とてもよくハマっている。

その後は、誤って兄を手にかけたことで、父に疎まれ、遠ざけられるように遠い九州のクマソ討伐を命じられ、見事成し遂げて戻ると今度は北の蝦夷へ行けと言われるなど、茨の道を進むのだが、その間には「女を知る」イベントもある。これが橘の兄媛(エヒメ)と弟媛(オトヒメ)とを立て続けに娶るという、まさに古代的無双、これだからイケメン(設定)は…という、何気なリア充っぷり。叔母の倭媛(ヤマトヒメ)までもが彼に色気を見せつつ、伊勢神宮斎宮(高位の巫女さんね)でありながら、宝物の天叢雲の剣を惜しげもなく与えてくれるのだ。

その後も蝦夷で現地の長に騙されたり、荒ぶる海神に愛人のオトヒメを差し出すことになったりと苦難は続くが、蝦夷討伐ののち、尾張国に立ち寄り、豪華な宴と美しいみやず姫とで饗されるのは、まるで当然のように受けて得意満面。調子に乗って、続く伊吹の山神との対決を軽んじて神剣を佩かずに向かい、まんまと相討ちになって、懐かしい故郷、思慕する父や、恋しい妻子に焦がれつつ、異国の地で命を落とすのである。といっても、すぐに比類なき美しさの白鳥となって、その魂は永遠の自由を得たように、天翔けることになる。

なんとも忙しい3時間半。これを先代は、「異民族を討伐し新しい時代を切り拓いた万能の英雄。けれど私人としては満たされることがなかった。その悲劇がまた英雄たらしめる」ように演じたのではないかと想像する。一方、今回のヤマトタケルに万能感はない。これを「役者が小さい」と評する向きもあるようだけれど、私はむしろ、英雄然としてないところが好きだ。

猿之助ヤマトタケルに感じるのは、ヒロイズムというよりチャレンジイズムとでもいおうか。さだめられた試練には臆せず立ち向かい勝利を収める。けれど、己の不遇を思うさま叔母に嘆きもする。己を慕う女をかわいがるというより、女に包んでもらっているように見え、尊大なそぶりは若さゆえの無根拠な傲慢に見える。身軽さも、体力も、饒舌さも。
すべてが歯切れよく小気味よい。舞姫に化けてのクマソ討伐も、そこは女形に定評のある当代。策略というより「彼にとってはそれが自然なやり方」…ていうか「単にそうしたかったから」のように見えて(笑)、それがまた、やんちゃで可憐でとても良い。舞のさなかに衣装をはぎ取られていく様子なんて、走水でのオトヒメとの別れよりもずっと色っぽい(笑)。

セックスフリーというか両性具有というか、男性性(だんせいせい)の超越。劇中に流れる5年の歳月、さまざまな戦いや愛憎を経ても、成熟しきることがなかったように見える。若々しいまま、どこか青いままに飛翔してゆく白鳥。今まさにスタートラインに立った猿之助にぴったりのヤマトタケル像だったのではないか。

だから、「新しいものを云々」だの「父上の命令だからというだけじゃない云々」と、己を正当化するような、何かを達観したような後半のセリフに妙な違和感をおぼえたのかもしれない。亀ちゃんのヤマトタケルは、まだ何も悟らなくていい。ただただ、己の運命を受け容れ、命を賭けて立ち向かって、魂の自由を希求する強さだけで飛翔してくれればいい。それだけで泣けるし、実際、その姿に泣いたんだと思う。 (つづく)