『八重の桜』 第21話「敗戦の責任」

こんな大事な回を、旅先にて、せっせと旨い焼き肉を焼いて食べて(ついでにビールぐびぐび)の「ながら見」などという不敬な見方をしてたわたくしです。しかし、そんぐらいでちょうどよかったのかも。家族が目の前にいなければ泣いてたよきっと。てか、本編ラストの暗転で呆然として、そこからの鉄腕DASH(この日は早桜でした)が全然頭に入んなかったもん。完全無欠の鬱回でした。けれど視聴後これだけ引きずらせる「ドラマの力」というものに触れた手ごたえみたいなのがすごくて、変な満足感もあったりします。

とにかく、見終わったすぐは、修理さまと三郎がかわいそうでかわいそうで。ふたりのありし日の姿、いろんなエピソードも思い出されて、悲しくて悲しくて。思い入れある人の死は問答無用に悲しいものです。とはいえ、大河ドラマではよくあることですが、修理も三郎も、「ここで死ぬ」ことはわかっている、いわばネタバレ状態で見てるのに、これだけ悲しく思えるって、すごいことなんですよね。凡作・駄作では、死も、本当にとってつけたように扱われて、登場人物の死を悲しむどころか作り手に対し呪詛を吐くばかり、てなもんです(いろいろイヤな記憶が蘇ってきたので封印)。

悲しみに浸ったしばしのちには、ふつふつと沸き上がる怒りに震えました。そう、主に君主である容保に対してです。ちょっとオマエ大概にしろよ・・・! いかに儚げぶりっこが絵になるからって、いい気になってんじゃねぇぞゴルァ、俺の修理さま死なせやがって…!てなもんですよ。

例の、「全軍置き去りにして軍艦でトンズラ」事件って、慶喜の人でなしっぷりここに極まれり、を堪能するための(?)エピソードだと思ってたんですが、思い出せば容保バカこの、の思いがいや増しに増して…! 二心殿、二枚舌、舌先三寸、尻を蹴り上げてでも…!等々、下々に至るまでがdisっていたとおり(笑)あんちくしょうの性質なんて、すでにわかりきってたことじゃないですか。容保自身、度重なる苦渋をなめさせられてきたはずです。てか、ほとんど迷惑しかかけられてないよね?!
な ぜ 学 習 し な い ん だ オ マ エ は!!

けれど、そう、こういう感想も作劇から引き出されているもので、脚本はうまいんだなあ。徳川慶喜といえば、彼のなりふりかまわぬ逃げっぷりや恭順姿勢が、結果的には、江戸を、また外国の侵略から日本全国を守ったという「英明」さのイメージがあるし、松平容保といえば、何の策もなくひたすらお上に従うだけの「無能」さのイメージがあるわけです。

けれど今作では最初から、慶喜の信用ならなさを強調し、また、容保の至高な忠義精神や部下への情深さを強調してきました。それは、慶喜=悪玉、容保=善玉として視聴者に感情移入させる脚本だったわけですけど、ここへきて、一気に、それがひっくり返りました。や、慶喜は変わらず人でなしなんですが(笑)、会津の惨憺たる状況を目の前にすれば、ケーキの野郎の逃げ足の速さはやはり鮮やか、利口といわざるを得ない。対して、容保の無為無策っぷり!! オマエはいったい何度ケーキに騙されてんだ!言いくるめられてんだ!御家訓を盾にとられてるんだ!何人死なせるつもりなんだ!!

御家訓遵守だけではダメなのです。優しいだけでは部下や民を守れないのです! うすうすそう感じながらも「綾野くんガー」とか「会津の心ガー」とか言って誤魔化してきた視聴者(もちろん私含む)は、一気に冷や水浴びせられましたよね。そう、ちょうど、ドラマにおける容保自身と同じように、「これじゃいけなかったんだ!!」という強いショックがありました。会津サイドから描くとはいえ、会津を美化しないドラマであると既にわかっていたけれども、容保のダメ君主っぷりをこうも真正面から描くたぁ、思いきったもんです。

しかし、さらに時間を経ると、容保に対する憤激も、どこかスーッと萎えてくるのを感じるのでした。本当にこのドラマ、物事を簡単に決めつけて提示しないところがすばらしいよな、と。同時に、これは考えすぎというか穿った見方かもしれないんですが…以下、書きます。

今回前半、乱れのない服装、きれいな顔で、遠く物見の丘みたいなところから戦況を観察・分析している修理・秋月・広沢の面々。この「会議室感」はおそらく意図的な演出だと思うんです、「現場」との対比として。獅童の官兵衛の、「いま撤退すればこれまで失われた命が無駄になるから戦線継続すべし」などという意見は、後世の視聴者たる私たちから見れば、大局観のない、さらなる犠牲を生む愚策としか思えないんだけれど、既に前回のラストで林権助が壮絶に戦死し、今回も、前線の会津藩士たちは顔を真っ黒に汚しボロボロになりながら、簡単に命をとられる状況で奮戦し、あろうことか三郎も痛ましい最期を遂げたことと、修理たちの「エリート然」感とがあいまって、修理に鬼の形相で詰め寄る脳筋・官兵衛の心情に、視聴者もぐっと寄り添うことができるんですね。

己の信じるところにしたがって殿を(引いては会津を)支えようとしている修理は、官兵衛の糾弾にもビクともしない。ただ静かに「またあとで話そう」と言うだけです。そうそう、元凶となった慶喜への建言をする場面もかっこよかったですね。実際は修理(だけ)の建言で慶喜が脱出を決意したわけではないでしょうが、これは、修理の悲劇をわかりやすく表現するための作劇ですよね。先週、官兵衛や山川という脳筋たち(笑)が、宗家である慶喜に直接詰め寄るという無礼極まりない(笑)場面があったので、今週の修理→慶喜へ直に建言する違和感が緩和されていたのも、うまいなと思いました。

そんな泰然とした修理が、殿の御座所がモヌケの殻になっているのを見て動揺する場面からは、もう本当に、見ていられない、といった感がありましたね(泣)。修理は完全に「兵を“率いて”江戸へ」と言ったのです。そこで頭を高速回転させて、ソッコー「兵を“置いて”」いくことにして容保までちゃんと連れていく算段をする慶喜は大したもんですが、まあ、容保を言いくるめることぐらい、ケーキ公にとっては朝メシ前でしょうからね…。ともかく、容保がトンズラしたと知れれば、藩士たちの動揺いかばかりか…!と焦って、誰にも何も言わず追いかける修理の見通しの確かさに泣けつつ、おめおめとトンズラしてる容保への怒りに震えつつ。しかも容保ったら、江戸へ着いたらソッコー慶喜に放り出されて、「江戸にもどったのは過ちであった」だなんて…簡単に後悔するような決断をするなってんだよー!!

幽閉されている修理を何とか救いたい容保ですが、側近たちはその難しさを説きます。自由にしたら怒り狂った兵たちが危害を加えるおそれがあり、幽閉はむしろ修理の身を守るためであること。容保が皆を集めて自らの非を認め修理を庇うことを、修理は望んでいないだろうこと。そしてその場に、慶喜からまさかの「登城禁止令」が下るというドラマチックな(慶喜の人でなしっぷりここに極まれり・その2の)展開でしたが、果たしてこの描写だけで、修理を救えない=切腹を申しつけざるをえないことを、説得力をもって視聴者に伝えられたのかな〜と、ちょっと訝しむところではあるんですよね。

容保「修理を救いたい」、家臣たち「救いたいのはやまやまですが…」の場面には、京都組の主だった側近たちは全員集合してるんですよね。主戦派だった佐川や大蔵もいるんですが、黙っている。彼らが「いや、修理は殺すべきだ!」ぐらい主張したほうが、修理の身の危うさを視聴者にアピールできるだろうに、そうさせなかった。若干のわかりにくさ(なんで救えなかったの?)に繋がっても、わざと、それを避けたんじゃないかと、今は思っています。

つまり、修理を、わかりやすい憎しみの的として扱っているのは、官兵衛や大蔵のように、ドラマ中で屹立している存在ではなく、その他大勢の藩兵たちだったという描写。前回、大坂城の周囲で怒号のような気勢を挙げて開戦を迫った兵士たち、慶喜をして「薩摩を討たねばこの怒りはわしに向かってくる。主君のわしが殺される!」と言わしめた無数の兵士たち、と同じ描写なのではないかと。

並のドラマならば、会津メインで描くにあたって、「非道なのは薩長だ」とか、「いや、人でなしの慶喜や、無能の容保だ」と、「そのせいで無辜の兵や民が大勢死んだ」というスタンス“のみ”だと思うんですが、このドラマには、(そういう描写もありつつも)それ以上の目線をも感じます。確かに、いつの世も、上に立つ人間がその他大勢の生殺与奪権を握っていて、そのために欺かれたり、捨てられたりと、多くの犠牲が払われるわけですが、一方で、歴史から見ると顔も名前もわからない「その他大勢」が群衆となったときに持ちうる力の大きさ、みたいなものを描いているように思うのです。

小さなひとりひとりが群衆になったとき、そのエネルギーは、上に立つ者とて制御できないこと。人でなしとはいえ英邁な慶喜にも、愚昧とはいえ臣下思いの容保にも、一様にどうしようもないこと。歴史を動かすのは英雄でなく、そういう膨大なエネルギーである、という面もあること。そういう描き方を、意識的にしているのではないかなと、ふと思うここ数回です。この流れは、いま勝ちまくっている西郷隆盛が、明治10年、武士の残存エネルギーに突き動かされて挙兵し敗れ去る西南戦争にまで続くのではないかと、「八重の桜」明治編も興味深く見守りたいと思っています。

やがて、藩ぐるみでの総力戦になってしまうゆえんも、もちろん新政府による朝敵認定とか、慶喜や旧幕府の会津切り捨てにもあるんでしょうが、それだけでなく、群衆エネルギーによるものである、とするんだろうな、と…。すでにその萌芽は描かれています。そう、三郎の死です。三郎は、会津武士であり、山本家の男であるという強い志で戦地に臨むわけですが、その惨状に惑乱して(これは全く三郎を責められない。彼は若いのだし、戦場で冷静さを保てないのは正しい人間性だ)、無謀に突っ込んでやられてしまう。

今回、朝敵認定を受けた時点で、あれほど憤っているマッチゲ父さんや、八重。反論を許さぬ「ならぬものはならぬ」に「あああ完全に間違った使い方だよぅ」と視聴者としては頭を抱えてしまうわけですが、今後、続々と家族の悲報が届くに至って、いったいどうなってしまうのかと…。

後世から見れば、本当に「これ以上の犠牲を出さないために、名誉なんて二の次にして、とにかく一刻も早く降伏して! ここは慶喜の冷血っぷりを見習って!」と祈ってしまうんだけど、我らの八重さんが既に予告で仇を討つ宣言をしたように、たとえ銃の名手でなくても、「こうなったらとことんまでも」というエネルギーが渦を巻いて高まり、徹底抗戦にもつれこむんだろうなと。物語の序盤から既に袂を分かった容保と頼母も、その群衆エネルギーを止められないという点では、同類なんだろうなと…。

話を戻すと、群衆が求める「わかりやすい憎しみの的」は、(後世からみると、有能な人物を犬死させた判断ミスであったとしても、当時は)やはり修理でなければならなかったんだろうなあ。この非常時、藩主である容保に会津人たちの憎しみが向けば、それこそ収拾がつかないことになるわけで・・・。もちろんみんなそれぞれ家族を失った悲しみや、敵である薩長への憎しみはあるんだけど、この時代、殿さまというのはやはり精神的支柱であるわけで。しかし、予告、容保の会津帰国らしい場面の緊張感、すごかった…。国元の民たちが殿さまにどんな目を向けるのか、非常に興味深いところ。

齢31にして不本意の切腹命令を受け容れ従容と死についた修理…。「たったおひとりで」って介錯もなしかい (#゚Д゚) 池田屋事件(ずいぶん前に思える…)で血まみれの現場に入った秋月さんや大蔵がへたり込んでしまったように、彼らも戦争なんてしたことない、それこそ親や祖父母だって戦争をしていない、悠久の時代に生を受けていたわけです。けれど、ひとたび事が起これば、文字通り詰め腹を切る覚悟ができている…それが武士というものだったんでしょうねえ。

軟禁部屋にやってきた容保が修理の手を握り、涙ながらに詫びたうえで自ら切腹を申しつけ、そのうえで秋月に「朝まで見張りはいないから逃げろ」と言わせた演出…。実際は、弁明の機会もなく、もちろん藩主にも会えずに、主戦派の偽命によって切腹させられた、というのが定説らしいのでドラマの創作エピソードなんだけれど、ドラマ上でも、容保が会いに行くのはお忍びであり、公式記録には残らない、という設定だろうからね。あれを、修理への精いっぱいの温情とみるか、容保が自分の罪の意識を減じるためでありむしろむごい所業だとみるかも、視聴者の判断に委ねられるところ。ともあれ、なんとも容保らしい姿だった。部下を救えない愚かさをもっとも痛切に感じていたのは本人だっただろう、という容保像。会津人的にも、視聴者的にも、もっと単純に愚かで、部下のことなんか顧みない冷血漢だったら、簡単にdisれて楽だったのにねえ…という。

てなわけでほんとにつらい話ばかりなんですが、こんなにも見ごたえのある大河ドラマ(しかも鬱回)が展開されていることに対する胸熱感はいつにもましてあって、少壮の者…というのは言い過ぎにしても、30そこそこの平成のイケメンたちが、じゅうぶんに歴史上の人物を、情感と迫力をもって演じられることに、「鬱展開が続くが大河の未来は明るい」という気分になりますね。

慶喜−容保のシーンの安定感はもはや言うに及ばず、容保のさまざまな感情表現もすばらしく、朝敵とされたあげく、頼みの慶喜、これまでさんざん尽くしてきた徳川宗家にも登城禁止を言い渡され、「大君の義…」と御家訓の一節を呆然と諳んじる場面は、脚本演出の妙とあいまって出色でした。容保は本当に消耗する、ハードな役で、綾野剛は相当がんばってると思います。

そして今回はなんといっても斉藤工ですよね…。エキゾチックな、むしろ外国映画なんかに出ても違和感のないような顔立ちの彼が、意外にも時代劇の似合うことは、あの『江』で発見していました。過去の自分のブログより引きます

ほとんど描かれてない割に、斉藤工は、名家・京極家を潰さないことが第一義にあるんだけれども、いわゆる従来の“蛍大名”っぽくない高次の人物像を、うまく表現してるように思う。あの涼やかなイケメンぶりが、巧まざるして人品卑しからざる風情を醸してるよね。
 〜〜〜『江』34話「幻の関ヶ原」 http://d.hatena.ne.jp/emitemit/20110912#1315835709

ただし周知のとおり、あれはああいう大河だったんで、大方はホントにしょうもない演技ばっかりさせられてたんですけど(お菓子が好きの嫌いので女と言い争ったり、側室に子を産ませたことを土下座して詫びたり…)、やっぱり人間、腐っちゃダメってことですね。見てる人は見てる。神保修理は本当に彼のハマり役でしたね。容保との最期の対面、心の中で滂沱の涙でしたよ、私ゃ…。

いつもそば近くにあって、言葉少なながらも主君の心情を慮る家臣。容保のほうも彼を思いやって、京で忙殺される修理にリフレッシュ休暇を兼ねて長崎行きを命じたこともありましたね。そう、長崎であんつぁまと一緒に洋装コスプレをしていたのもまだ遠くない過去…。視力を失おうとしている覚馬に対しての「私は五体のすべてを賭けて殿にお仕えしています」の名言には(腐女子的な意味で)耳を疑いましたが、結果的にはその通りの人生だったんだなあ…(というかそれを見越してのセリフだったのよね。腐っててスマン)。

てか、あんつぁま。今いちばん心配なのがコイツかもしれん。いろんな意味で…。この人はこのまま、当分、「西郷に会わせろ〜!」と牢の中で叫んでるだけなんでしょうか。だいたい、薩摩兵は、前線であんなにボンボン会津兵を殺戮してるのに、なぜ覚馬を(ひとかどの人物だと知っているふうでもないのに)とりあえず生かしているんでしょうか。いちお副主人公だというのに、今後のエピソードとうまくつながるんでしょうか…。脚本さん、放置プレイはやめてあげてー!

まあ、そんなボンクラあんつぁまは置いとくしかないとして、修理ですよ。わずかだったけれど、奥さんとの美男美女ぶり、お父さんの内蔵助とのシーンもよかったよねえ。戦争の後方で心配している女たちの描き方、というのは大河の弱点のひとつなんですが、このドラマではそこが本当に秀逸で…雪さんの描写も、これまでどこをとっても良かったですよねぇ(泣)

短い夫婦生活では夫婦の真似事のようで、修理が帰ってきたら、今度はケンカしたり叱られたり、正直に振る舞ってみたいと笑っていた姿がことさら印象的でした。今回の「なあ、八重さん。神様を試しちゃなんねぇな」ってのもすごくいいセリフで…。石を落してしまって、もう一度やろうとして修理に止められていた回想シーンも泣ける…。公式な場に出れば眉ひとつ動かさずに「罪があるなれば、死ねばよいこと」と言い放った父・内蔵助が、家に帰ればどんなにか悲しんだであろうかということも、そこを直接描かずにして容易に想像させる手腕がすばらしい。

戦争描写では、ドヤ顔の洋装で登場した山川大蔵が良かったですね〜実際は秀才だったんだろうけど、どうにもアホっぽい雰囲気を醸し出してる玉鉄が好きですwww  史実をもとに描いているからとはいえ、いかにも死にそうになくてww 八重の南天の刺繍を見るや、年端のいかぬ若者を前線に残してしまうスイーツ脳っぷりも…。おまいロシアで男になったんじゃなかったのかいっ!ていう。会津の大砲がポイズン大山の耳たぶをかすめた、というのは巷間伝わる通りの描写でしたね。正確には「大山の耳たぶを掠めただけの戦果であった」のかもしれませんが…。あと、毎回思うんですが、地味に獅童が好演してると思います。来週もみんなみんなを括目して見ます!!