『教育について』宮崎駿ほか 聞き手:太田政男(感想・下)

教育について

教育について

山田太一
一読したとき、「ふつうだな」と思ったんですよね。驚くべき思考、聞いたこともない価値観が示されているわけではないな、と。しかし、書いてあることすべてが、ものすごくうなずけるのね。ふむふむと読み流せるくらい、すごくわかりやすい表現。そしてもちろん浅くない。こういう人が書くテレビドラマが受け容れられてきたわけがわかりますね。

私だって、戦中戦後に大人だった両親の世代から比べたら非常に甘い人間観しかもっておりませんですね。生きていくためにたたかった両親たちは、日本人のいやらしさとかいっぱい知ってますね。(中略)
そして、私たちの世代からみてさらに若い人たちは波乱がないから、非現実的にピュアな人間観をもってしまうということもありますよね。こっちが心を割ってつきあえば、向こうもわかってくれるというような。(中略)
でも、外国のまったく違う言語、文化をもった人に、心を割っても、話が全部わかるわけではない。そうすると理解というものを基準にして人が相寄る、共存していくというようなことは、すぐ壁にぶつかってしまいますね。だから、理解しないで、できないまま相手を認め合うというか、理解しないでお互いの存在を認め合うというか、そういう共存がこれから必要になってくると思うんですよね。

いつも聞かされるのは、「あいつは東大出だけれども、会社に入ると俺より仕事ができねえんだ」って、みんな喜びをもって東大出をバカにしたりするけれども、それも裏返しの能力主義であって、情けないことですね。

人間が生きていくということは、方向性も何もない。例えば虫が生きていることとなんにも変らないと思うんですね。セミの一生と人間の一生に意味の差はないと思うけれども、そんな無意味に人間は耐えられないから、いろんな意味を付与するわけですね。(中略)それをすべて自己欺瞞だといえばそうなんだろうけど、そういうフィクションなしには生きていけないんだから、インチキだと叫べばいいというものではないと思います。

整合性をあまり求めて物事を考えてはいけないと思っているんですよ。あるとき人間は、あるがままでいたいと思うでしょう。正直でいたいという。でも、別の時、あるがままではいやだと思うというのも自然なことですね。だから、両方あっていいと思うんですね。生きてるということは、いろいろ矛盾していいと思うんですよ。人間は合理的な存在ではないのですから、合理的に裁けば、誰もが至らなくなって、誰もが劣等感をもつようになりますよね。

岸田今日子
岸田さんの来歴はほとんど知らなかったので新鮮だった。自由学園、というのは、今でいう、フリースクールみたいな感じにちょっと似てるのかな。岸田さんについては、亡くなったときに「きっこの日記」が取り上げていた彼女の句の数々がすごく印象深い。「眠女」というのが俳号らしいんだけど、きっとムーミンから取っているんだろうが、彼女の独特な瞳を思い出しても、ぴったりだなと思う。

舞台にいちばん魅力を感じています。(中略)それとラジオもとても好きですね。ラジオというのは声だけで聞く人の想像力をかきたてますから。聞いてくださる方と一緒につくっていくもの、という感じがとても好きなんです。
テレビって、何もかも説明してくれちゃうという感じですから。映画は、いい監督さんにめぐり合ったときにはほんとにおもしろいと思うし、テレビはやっぱり脚本でしょうかしら。

なるほど〜、各メディアについて鮮やかな看破!

どなたでもおっしゃることなのにいっこうに改まらないんだなあと思うのは、子どもをいい学校に入れようとみんなが競争して、塾へ行かせたりして遊ぶ時間をなくしちゃって、子どもがその犠牲になっていろんないみで歪められていくことですね。(中略)
ほんとに誰でも思うことのはずなのに、自分が母親になったりすると巻き込まれちゃうんですね。(友人の女性に)「やっぱり塾やなんか大変だった?」と聞いたら、「そうなのよ。わたしはそんなことはさせまいと思ってたのに、そうなっちゃった」と言うんです。それは何なんだろう、と思います。

ほんと、ほんとにそうだよね。自分はそうじゃない母親になれるだろうか。

網野善彦
網野先生は、いつもの網野先生です。私は名著『日本の歴史をよみなおす(全)』で先生の歴史観、教育観はしっかり飲み込んでいるつもりなので、このインタビューは「網野式歴史学・概論」といった気持ちで読みました。

網野先生といえば、“「百姓=農民」は大間違い”というのが代表で、これは、このインタビューをちょっと読むだけでも目からウロコですよ。ちなみにこの歴史観は、宮崎駿の「もののけ姫」の世界観にも大いにあらわれています。

歴史を教えるということは、自分たちは何なのかということを知ってもらうことですから。(中略)究極的には、現在の自分はどういう世界に生きている存在なのかをきちんと認識するために勉強するんだと思いますけどね。

それから、好きなのはこれ。

これまでの考え方は、「昔の百姓はみな貧しかった。それが豊かになるのが進歩なのだ。農業を発展させ生産力を発達させれば豊かになっていく」というとらえ方だったのですが、どうもそう簡単にはいえないですね。その時代、その時代、人間は全力をあげて知恵を発揮して生きているわけで、それなりの“豊かさ”をもっていたということができると思うんですよ。

この先生の発言を受けて、聞き手の太田さんが、

そうですね、「それなりの豊かさ」とおっしゃったこと、ぼくも、そこにしかないと思いますね。たしかにいつも不完全で途上の社会ではあるけれども、いま生きている自分たちにとって、いま一所懸命生きているということ自体が絶対なものとして認められなければ、生きていてもつまらないですよね。

と言うのも、すごくよかった。

そうだ、この当時さかんに活動し、「新しい歴史教科書」などで注目を浴びていた一派についての網野先生のスタンスを知ることができたのも、この本のおかげだ。

(最近問題になっている自由主義史観については、どう思われますか?)
あの人たちは「日本人」の誇りとしきりにいうけれど、本当に「日本」とは何かを考えないままで、「国民国家」としての近代日本の肯定論になっていますから、根本的におかしいと思いますよ。

ばっさり斬ってる(笑)

落合恵子
私は高校生の時、この方が選考委員をつとめた作文コンクールで素敵な賞をもらったことがあるので、勝手に親近感をもっていたんだが、そういえば著作などは読んだことがなく、非常にさかんな活動をしているフェミニスト、と聞いて、条件反射的に「うっ」と身構えてしまってた。フェミニストって、すごく強くて、強すぎて怖い、というか、自らを防御し、その主張を通すために、相手を激しく攻撃する闘士、てな(しごく貧困な)イメージがあるのだ。

しかし、このインタビューには深く感じ入ったね。その内容について、というのもあるんだけれど、この人が話すことはすべて、長い時間をかけて深められてきた思索と、実際に行ってきた行動とによって培われてきたものなんだなあということがびしびし伝わってくるんだもん。ひとつのことに真剣にまい進してきた人の言葉って、重みと説得力があって、その意見に賛成か反対かとかいう以前に、自然と尊重したくなるものなのだ。

子どもをもつお母さんにはおなじみの児童書籍専門店「クレヨンハウス」がこの人の主宰であり、月刊誌「クーヨン」がそこから始まったというのも今回初めて知ることができた。私にとっては落合恵子入門編といった感じで、とにかく収穫多し。

以下、知性と品格にあふれたインタビューから、要約してメモしていく。
・女・子どもというのは独立しているのではなくクロスしたテーマ。子どもの幸せのため、母親は「母」であることだけを考えろ、というのも違うし、母親が、女性である自分を優先しすぎるがために子どもが犠牲になるのも違う。恒常的な男性社会の中で、女と子どもという、声の小さい側が互いの権利の食い合いをしなければならない社会構造を変えたい。

・(女・子どもで最近特に重要だと思われる問題は?という問いに) 何かに対してキーワードを作るのはあまり好きじゃないし、ひとつのキーワードを作ると、次のキーワードが発見されるまでそこにとどまりがちなジャーナリズムのあり方にも疑問を感じる。

・子どものための本屋をやっていてもそう思うのだが、善意からスタートしていても、結果的に子どもを管理してしまう、子どもが自分で選択することを狭めてしまうことがある、そういう可能性が自分の中にないだろうか、と問うている。

・ある人々の優位性を語るのは、ある人々の劣等性を語るのとワンセットになっていて、それは考える自由を奪うことだ、という視点で見るのが大事。男と女、大人と子供、日本と他のアジアの人々、どんな関係性でも同じこと。問い直し、見直し、定義のし直し。RE(再び)の視点。それができるのが人間の知性であり、感受性である。

・あらゆる「イズム」というのは単に「イズム」でしかない。「イズム」が「イズム」で止まってしまう限りは、いつか風化していく。大事なのは、それを体現するひとりひとりの人間のキャパシティーの大きさ。考え方で終わって、生活化されないなら、「イズム」はレトリックでしかない。

・文化は、昔から伝えられてきたから意味があるんじゃなくて、人間の精神生活と深く重なるものであるから意味がある。日本では違いそのものが許されない場合もあるが、違いから学びあう姿勢が大事。

フェミニストというのは少数派で、マイナスイメージだから、自分がそうだというのはやめなさい、と言い続けられてきたが、だからこそ私は宣言するし、語っていく。そういった評論では、できるだけ誤解や矛盾がないよう、きっちりとした論理を構築しておきたい。けれど、現実の、人間としての私には矛盾もたくさんあって、それを全部整理したら人間ではなくなってしまう。たしかに矛盾はあるよね、でもできるだけ矛盾のない生活も送りたいよね、というところの揺れは、小説で書いている。

窪島誠一郎
この本で唯一、お名前すら知らない方だった。村山槐多、関根正二といった夭折画家(これまた私には名前も知らない人たちなのだが)や、戦没した画学生の遺作などを集めて、美術館をつくったり、エッセイを書いたりしている方とのこと。すごく正直な語り口が印象的。

俺はここに自信ないながらも生きている、ということを、人にみてもらいたいという甘えがあるんじゃないでしょうかね。

絵を描くことが大衆化し広がっているわりには、絵を見ること、言いかえれば自分を見つめる目を養うということが、まだまだ教育不足だと思いますね。自分を見つめると言うことは、自分に不都合なこと、自分にとってちょっと埋め合わせできないことを含めて見るということです。そのことを忘れたり、遠ざけたり、まして隠ぺいすることではないんですね。

話で子どもに一番受けるのは、「おじさんもとっても迷っている」という言葉です。これは決してお芝居じゃない、本当に迷っているんだ。それを言ったとたんに心の留め金がはずれる、お互いの。(中略)途方にくれているおやじ、とか、イヤになっちゃってるおっさん、というのは好きみたいですよ、子どもたちは。それを無理して、イヤになってない、みたいなフリをするのが教師…。