『自由をつくる 自在に生きる』 森博嗣

久しぶりに森博嗣のことばに触れたくなって図書館で借りてみた。

自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)

自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)

もう10年近くも前になるが、夢中になって読んでいたころがあったから、彼の来歴や思考は既によく知っている。国立大学、しかも工学部の助教授であった30代の後半にミステリー小説を書いて作家デビューし、以来おびただしい数と種類の作品を著して、たちまち人気作家になった。

そんな2足のわらじを履いただけあって、独特の考え方とずば抜けた行動力をもっている。というよりも、そんな人だからこそ読者が集まったのだろう。「明るいってそんなにいいことですか?」とか、「規模を大きくすること、存続させることイコールすばらしいという先入観」とか、「昔(の時代)は良かった、というのは幻想。日々、いい時代になっていっているし、これからもそうだろう」なんていう、“自由”な彼の言辞は、目の覚めるような、胸のつかえがとれるようなものだ。

“自分の価値観は自分で決める”。それは、けれど、誰にでも簡単に真似のできることではないし、森博嗣自身、自分は稀有な人間であるということに意識的だ・・・と、思っていた。

しかし、彼の比較的新しい著作であるこの本*1は、一部、かつての私のイメージを覆すものだった。簡単に言うと、読者に優しかった。また、森さんだって人の子、人の親だし、鉄人ではないんだもんなあとも思う箇所もあった。そのマイルドさは、ますます私の森博嗣への心象を良くしました。って素直な読者だなあ私。

特に印象に残ったのは、「抽象力の大切さ」を説いている部分。テレビや雑誌ですすめられている店に行きたくなるような「具体的なもの」ばかりに目を奪われがちな傾向が最近は(特に若者に)あるが、抽象力のある人は他者の成功例やノウハウといった情報から抽象して本質を見出す、と。『自分が何をしたいのか、案外人間はそれをあいまいにしたまま行動している』という文章は胸に留めておきたいと思った。

また、
『いつまでも不自由が続く理由は、自分が(不自由を打破すべく努力するよりも、不自由に甘んじているほうが楽だと)許容しているから』
という逆説は森博嗣ファンにはおなじみだが、今回はさらにそのまた逆を張った文章が付け加えられていて、しかもそちらのほうがメッセージのメインになっていたのも新鮮だった。

「努力をしろ」と無理にいっているのではない。そんなに苦しむようなことではない。苦しさが続くようなら、その方法を疑ったほうがいいだろう。楽しめなければ長続きはしないから、自分にあったペースで、一歩一歩自由に近づいているという感触を味わいつつ、旅行気分で前進する。そのほうがきっと上手くいくだろう。
僕は、だいたいそんな感じでのんびりと進んできたつもりである。いくらのんびりであっても、毎日前進していれば、ずっと遠くまで行けるものなのだ。

「千里の道も一歩から」、それだけの話なのかもしれませんけどね。たとえば村上春樹が、朝はランニングをし午前中に仕事をして、午後は泳いだり雑務をこなしたりで、夜に社交をしたりせずに早く寝る。というような生活を何十年と続けているのは有名だが、それがはたから見ればどんなにストイックに見えたとしても、彼にとっては耐え難い苦痛ではなく、その生活の中で一枚一枚原稿を書いて、今がある。そういうことなんだろうな。

自由に近づいている、というだけで少なからず自由が感じられる。

たとえば、起きたいと思った時間に起き、しようと決めたことをする、というだけである。このように自在に生活できれば、既に自由の一部は実現している。

これから私ももっと自由になれる。
森博嗣の独創的な発想を楽しもうと借りた本だったけれど、閉じるころには手を伸ばせばすぐに届くところに希望を見つけていた。(なんとなくきれいにまとめてみました。)

*1:2009年11月発行