今年最後の自分語り

これから夫の実家に帰省するので、今年最後の日記です。

自分の日記は写真のようなものだと思う。個別のできごとを具体的に書き留めている。光景を、読んでくれる人(こんな文字ばかりのブログに来てくれる人に活字嫌いさんはいないだろう)に思い浮かべてもらえるように、また、自分が読み返したときにくっきりと思い出せるように書きたいと思っている。言ってみれば、自分にとっても他人にとっても面白いブログ/日記のひとつの姿って、そういうものじゃないかと思っているわけだ。

そこには当然、カメラを持つ私の主観が入っている。被写体を選ぶのも焦点を絞るのも、どの写真をアルバムに貼るかを決めるのも私である。

赤裸々だとか書きすぎじゃないのとか言われることもあるし、あとになって「しまった」と思うこともたまにあるけど、だから基本的に心配ご無用。もちろん嘘は書かないが(書く必要がない)、書くことは自分で選んでいる。起こったできごとすべてを書き留めているわけではない。書きたくないこと、書かないほうがよいと判断したことは書いていない。

つまり、恥ずかしくも公開なんかしちゃっててどう読まれているのかわかんないけど、もちろん、これが私の、私の生活のすべてじゃありません。てか、ブログってみんなそうだよね? 
今年はいろいろありました。もちろん、サクと会えたことは今年最大の喜びなんだけど。

きっかけは出産後のいわゆるマタニティ・ブルーだったと思うのだが、そのほかにもまあ、書いてないところでいろいろとね。つらい日は今もある。秋が深まるころだったか、好きなはずの読書もしたくない、本屋に行っても暗いタイトルばかり目について気分が悪い、なんて自分に気付いたときはびっくりした。まあそこまでの落ち込みは長くは続かなくて、基本的に夫が帰ってくると普通のテンションに戻るんですがね。

子どもを産んだこともあって、命ってもののことを、これまでになく考えさせられた年だったな。いま始まったばかりの命を間近で見つめていると、不思議と死について考えてしまうんである。突き詰めると、結局「誰にも限りある命なんだから、せいいっぱい生きるしかない」っていう当たり前の結論に行き着くしかないんだけども。ぐるぐる考え込んでいる間は、自分の存在も大切な人たちの存在も、ものすごく不確実で不安定なものに思えてきて、参る。

たまに懐かしく思い出す。たとえば、、平日の朝ひとりで電車に乗ったときや、寒気団がやってきてぴんと張り詰めた冬の空気を感じたときなんかに。私もああして、今日や明日の現実だけを見て通勤したり、自分の足で1時間もそれ以上も走ったりしていた。いい意味にのんきで、考えてもしょうがないことをくよくよ考えることなんてなかった。自分にもっとずっと自信をもっていた。

もともと自分はたぶんものごとに対していちいち感情が大きく動くたちで、でもそれだと非常に生きにくいので、長い時間をかけて、日常に対応すべく鍛錬してきたところがある。その甲斐あって、いろんなことに感動したり興奮したりしつつも生活自体は地に足つけて淡々と、というスタイルが身についてると思ってたんだけど、今年は見事に激しかったな。感情の起伏って疲れるよね。

ともあれ、そういう1年も終わる。

来年だって今日が明日になるだけのこと、状況がすぐに変わるわけじゃないし、来年も大変になりそうなんですが。というか、そもそも、淡々と生きるのなんて、もう当分無理なのかもしれない。子どもを育てるという一事だけでも、小さなことで大喜びしたり逆に心痛でハゲそうになったり、悲喜こもごもあるんだろうなと思うもんね。

それでも、日本の年末年始っていいよね。“年があらたまる”という言い方が好きです。

どんなときでも、なにかにワクワクする気持ちをもちながら生きたいなと思います。