仕事をやめたことについて(下)

2010-10-21 - moonshine の続きです
逆に、「この際だから、仕事を辞めてみるってのはどうだろうか。」と思いついたとき、妙にわくわくしたのは自分でも意外だった。校則で固く禁じられていた高校生の頃から意気揚々とアルバイトをしていたくらいだから、私は働くのが苦にならないどころか、働くこと、報酬を得ることに対して喜びを感じる人種で、むしろ仕事をしないことに心細さ、所在無さをおぼえるだろうとそれまでは思ってきた。

たぶんゆるやかに変わっていったのだろうと思う。20代半ばから後半にかけての数年間は、仕事をやればやるだけ、スポンジのように次々と吸収することができて、それもまた楽しかった。でも、繁忙期には連日深夜まで残業するとかって(しかも繁忙期が長い、かつ多い)、この先ずっとしたい働き方じゃない。経理の仕事は面白いしやりがいもあったが、“この会社で” “途切れず一生”やることに価値があるのか?という疑問は、いつしか心を覆っていった。29歳で結婚して、家での時間を大事に思うようにもなっていた。遅ればせながらワークライフバランスを意識するようになったってところですかね。

思うに、かつては、働くことで一種の承認欲求をみたしていた部分もあったのだろう。職場で求められる自分、うまくこなせる自分、報酬を得る資格のある自分。それが、結婚したころから、どうもその欲求が変わったように思える。といっても、夫のため(だけ)に生きたいなどと宗旨替えしたわけではなく(笑)、ある意味、より自由になった気がした。仕事ができようができまいが、夫の目に映る自分に変わりはない。もちろん、夫が稼ぐから(って、別に高給取りじゃないですよ・・・)、という安心感(油断?)があるのは否定できないが、バリバリと仕事をすることに、それほど固執しなくなっていった。

プライベートの時間を増やすようにしてみると、あたりまえかもしれないが楽しい。家族で過ごす時間はもちろん、本を読む、走る、ブログを書く、テレビを見る(そして、酒を飲む。まあ、仕事がきついときも酒はよく飲んでいた)。前から好きだったことばかりだが、忙しい合間にするのとは違う。よりじっくり取り組める本を選び、多彩なコースやメニューを考えて走り、まあちょっとはいい文章が書けるように時間をかける。誰かに認めてもらえるわけでもないし、実利があるわけでもない。でも、もっとやりたいと思える。すごく純粋に好き。

だから、子どもができたとわかって仕事のことを考えたとき、これを機に、という気になった。これを機に、今の会社、今の仕事から離れてみようか。人生で、仕事をしない時期があってもいいんじゃないか。

それで仕事を辞めて半年が経つ。

ものさみしさがないでもない。家族以外と話さない日も普通にあるしね。何より、外で仕事をしないからといって、生まれて間もない子どもがいれば、自分の道まっしぐら、というわけにはいかない。子どもが赤ちゃんでいる時間は短いので、思いきり一緒にベタベタしたいという気持ちもある。

でも、やりくりして捻出した自分の時間を大切にする日々は、悪くはないと思っている。読むとか見るとかいう趣味って、物知りになりたいわけじゃないんだよね。でも、そのときだけを楽しむという消費行動ともなんとなく違う。いってみれば、より良い自分、より好きになれる自分を作ろうとしているというか。とても前向きな気持ちになれること。

仕事を辞めるというのは自分にとってけっこう大きな事件だったので、決意したときから書き留めておこうと思いつつ、うまく言葉にならなくて書き出せずにいた。今になって書いたのは、時間が経って気持ちをまとめることができるようになったというのもあるけど、こういう時間も長くは続かないかもしれないから今のうちにと思って。

そう、また、働くことになりそうな気がしてきたのだ。そもそも、もう一生働かないなんていう気はなかった。それでも、相当期間勤めた会社を辞めたからには、一般的な産休期間よりは長く無職でいるつもりでいたのだが、人生って計画通りにいくことばかりじゃない。しっかし、子持ちで就職活動は厳しいよな。

そんなこんなな、無職(期間限定かもしれないけど)の私の心に響く文章を最後に引用。

「そんなにコンピュータばかりが増えてしまって、人間は何をすればよいのですか」
「何もする必要はないね・・・」犀川は微笑んだ。「何かをしなくちゃいけないなんて、それこそ幻想だ」
「仕事もせずに、ぶらぶらしている人が増えることになりますね」
「まあ、その言葉には少し意図的な語弊が感じられるけど・・・・・、そのとおりだよ」犀川は煙草に火をつけた。
「元来、人間はそれを目指してきた。仕事をしないために、頑張ってきたんじゃないのかな? 今さら、仕事がなくなるなんて騒いでいるのはおかしいよ。仕事をすることが人間の本質ではない。ぶらぶらしている方が、よっぽど創造的だ。それが文化だと思うよ、僕は」

23とか24とかそれくらいの年のころに読んだ。この後、仕事が忙しくてたまらない、同時に面白くてたまらないという数年間が続くのだが、心のどこかにはいつもこのくだりがあった。「生活のために働いてこそ一人前」と思って育った私には、天地がひっくり返るような価値観。

(前略)
休みの日の朝から先輩に連れられてパチンコ店通いしてみたり、次の日の仕事を忘れたふりして朝までバカ騒ぎしたり、そうかと思えば土日引き籠ってひたすらプレステ三昧・レンタルビデオ三昧だったり、図書館に籠って意味もなく昔の新聞眺めていたり・・・

「人間活動」なんて立派なタイトルを付けるのもおこがましいような、非生産的な時間。

だが、何年か経って、仕事をトップギアでやらないといけないような場面になってくると、その頃の何気ない、一見意味がないような時間が、どこかで生きてくるような気がするから不思議だ。

いろんな人間と付き合った経験だとか、手当たりしだいに取り込もうとしていた知識だとか、一つとして無駄なものはなかった、と今は思えるし、何よりも、誰からも注目されない、第一線を外れたところで、力を蓄える時間を持てたことが、三十路に差し掛かってからの“タメ”というか、余裕につながっているのは間違いない。

宇多田ヒカルの休業の報に接して書かれたブログ。三十路をとっくに過ぎた自分が支えにするのは図々しいのはわかっとります。

きっと、今も、止まったり後戻りしているわけではないと信じたいんだろうな、私は。