是枝裕和の文章: invisibleな映画の共同体

(6月9日 facebookより)

いつもながら、是枝さんが公式HPに書いている文章がすごくすごくよくて何度も読みたい。

読み書きといっても、いわゆる「SNS的文章」を読んだり書いたりすることが多い現代生活(それは完全に私の自己責任なんだけど)において、たまに文章の塊そのもののすばらしさを味わうと、本当に心が震える。

ほら、「心が震える」なんて類型的な表現を安易に使ってしまうところがもう、SNS的なんだよね。おめーは西野カナかよと。

6/5「“invisible”という言葉を巡って」、胸がそそけたつような興奮を与えてくれる文章だ。
胸がそそけたつ、って物理的には有り得ないんだけど本当にそういう感じ。胸毛の話をしてるわけじゃなく…。

とりわけすばらしいのはもちろん

【僕は人々が「国家」とか「国益」という「大きな物語」に回収されていく状況の中で映画監督ができるのは、その「大きな物語」(右であれ左であれ)に対峙し、その物語を相対化する多様な「小さな物語」を発信し続けることであり、それが結果的にその国の文化を豊かにするのだと考えて来たし、そのスタンスはこれからも変わらないだろうことはここに改めて宣言しておこうと思う。その態度をなんと呼ぶかはみなさんにお任せいたします。】

とか

【この映画で描かれる家族のひとりひとりはこの3つの共同体「地域」「企業」「家族」からこぼれ落ち、もしくは排除され不可視の状態になっている人たちである。これが物語の内側。そして孤立化した人が求めた共同体のひとつがネット空間であり、その孤立した個を回収したのが“国家”主義的な価値観(ナショナリズム)であり、そこで語られる「国益」への自己同一化が進むと社会は排他的になり、多様性を失う。犯罪は社会の貧困が生むという建前が後退し、自己責任という本音が世界を覆う。恐らくあの「家族」はそのような言葉と視線によって断罪されるだろう。】

という部分だ。

でもその「部分」を導き、さらに流れていく文章の流れが実に美しく、また文章の流れを生む「思考の流れ」は、監督は否定したがるだろうが社会の宝物だと私は思う。作品でも文章でもいつだって過度な感動や感傷をもっとも嫌うような自己抑制的な雰囲気にみちている是枝さんが、パルムドールの受賞という慶事に至ってはさすがに、文章の終盤「万感迫る」ような筆致を見せているのもまた感動的。

「invisibleな映画の共同体」

是枝さんはそれを日本語で「淀み」と書いている。これを「流れ」とか、まかり間違っても「絆」なんて言葉を使わず、「淀み」とあらわすところに、是枝さんらしい卓越した観察力と表現力を感じて震えるのである(あ、また震えてしまった…)

この6/5の長い文章からの波紋を受けて、6/7に出された「『祝意』に関して」という短い文章

2018年6月7日 『祝意』に関して | MESSAGE | KORE-EDA.com


のほうがマスコミには大きく取り上げられて、それもまぁわかるんだけど、

(【映画がかつて、「国益」や「国策」と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、大げさなようですがこのような「平時」においても公権力(それが保守でもリベラルでも)とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています。】
 の部分は、映画人というよりまず報道関係者に百回読んでほしいけど)

6/5の長い文章は是枝さんのクリエイターとしてのおそるべき体力をひしひしと感じさせるもので、ファンは胸をそそけさせています。

2018年6月5日 「invisible」という言葉を巡って | MESSAGE | KORE-EDA.com