『暇と退屈の倫理学』 國分功一郎
毎日ヒマを持て余す子ども時代、スチャダラパーの『ヒマの過ごし方』をこよなく愛する中学時代を送った私が読まんでどーする?! ってな本ですよ。哲学書なんて人生で初めて読んだかもしれない…。だいたい、哲学自体がヒマのたまものって感じもしますよね(笑)
ラッセル、パスカル、ハイデッガー。ホッブズ、マルクス、ボードリヤール、etc…。
あまたの名だたる哲学者たちが、こんなにも暇や退屈について考え言及していたのだと知るだけで面白い。また、この本では哲学だけでなく、考古学や経済学、生物学、映画などいろいろな分野からも暇と退屈を考察していく。ほんと、ヒマにふさわしい壮大さなのである。
中でも、私がもともと歴史方面に興味があるからか、考古学的観点からの「定住革命」なる説は目からウロコだった。
人類は狩猟・採集で遊動を繰り返す生活から、約1万年前に定住を始める。それは、食糧の貯蔵や大量生産(農業)技術を得て「定住できるようになった」からではなく、地球の気候変動の結果、狩猟・採集が思うようにできなくなって「定住せざるを得なくなった」結果だというのだ。貯蔵や農業は、定住を余儀なくされる生活スタイルに伴って、“必要は発明の母” 的に獲得した技術なのだという。い、言われてみれば確かに~!
遊動生活には常に多大なる刺激と緊張があった。獣と対峙する狩り、安全な寝床や水の確保。移動するたびに新たな場所に適応しなければならない。退屈している暇などない。定住するようになると、その負荷はなくなった。
しかし人間には発達した大脳がある。その余力が文明の発達に振り向けられた。定住するようになったとたん、見事な縄文土器のような工芸品、建築物、祭祀そして統治システムなどなど、複雑なものが出現する。定住するまでの3~400万年と、定住を始めてからの1万年では、進化のスピードはケタ違い。思わぬ定住によってできた「暇」がいかに大きかったか、という話。
同様に、生物学からのアプローチも面白かった。「環世界」という考え方。トカゲにはトカゲ、ミツバチにはミツバチ、ダニにはダニの、「時間と空間」がある。私たち人間とはまったく異なる世界を生きているということだ。時間も空間も、まったく相対的なものなのだ。
ほとんどの動物は自分の環世界しか生きられない。けれどたとえば盲導犬は、犬の環世界を変形して人間の環世界に近づき、人を支える。人間はさらに、環世界を移動する能力が高い生き物である。たとえば大学で宇宙物理学を4年間勉強すれば夜空はまったく違うものに見える。新しい環世界≒環境に置かれると、人は考え、適応し、やがて習慣を獲得していく。すると退屈が訪れる。
まさに、人間を人間たらしめてきたのは、「ヒマ」の存在ではないですか!!
その「ヒマ」を利用して発展し、世界を大きく変えたのが20世紀の経済である。自動車王フォードは、ライン方式で大量生産を可能にするため、1日8時間労働と余暇を承認した。それは、労働の準備のための休暇であり、実は資本の内部にあるものだった。高い賃金を払い、余暇を与え、賃金を合理的に消費させて、次の労働へのモチベーションを高めさせる。そのために発達するレジャー産業。
人々は、「自分が欲しいものであるかを広告屋に教えられ」消費する。本当に欲しいものが何であるかわからないまま、消費を繰り返すむなしさ、満たされなさ。それらから逃れるために「殴り合い」という“現実の痛み”に魅せられる人々・・・。ブラッド・ピットが主演した映画『ファイト・クラブ』の文脈を、本書はそのようにとらえる。
現代の哲学博士が、多くの哲学者の論を参照しながら書いた本書が、暇と退屈の“哲学”ではなくて “倫理学” なのはなぜか?というと、ただヒマについて考えるだけでなく、「良きもの」を求めたいという思いの表れだろうか。
私の頭ではこの本のすべてを理解できたわけでもない。結論のところは特によくわからなかった。でもいいんです。別に今から哲学者になるわけじゃないし。こういう本を読んでる間って、なんだかちょっと頭が良くなったような気がするもんだし、こうして哲学の先っちょに触れたことで、これから何かしら物事を見つめ考えるときのヒントになるんだと思う。
この本の、とってもわかりやすい、現代社会に即した結論のひとつとしては、筆者の國分さんが『社会の抜け道』で言っていたことだと思うんだけど、(以下ね)
國分: 一見ものがあふれているように見える消費社会では、知恵が奪いとられちゃう。自分で探さなくなる。だから、みんなつまらなさそうにしている。で、つまらさなさそうにするからどんどん商品が投げ込まれるんだけど、結局のところは、もっとつまらなくなってしまう。
古市: 永遠に満足しないサイクルに組み込まれてしまうわけですね。
國分: 消費社会の根底には、消費と不満足の悪循環があると思うね。
國分: うまく遊べないときに、人は退屈する。だから、うまく遊べなかったり、楽しめなかったりすると、人は外から仕事や課題を与えられることを求めるようになる。自ら自由を捨てて、何かに従いたくなる。人間が従属へと向かう契機のひとつには、自分で楽しめないということがあると思う。自分で楽しめないと退屈してしまうから、外から仕事を与えられた方が楽だという気持ちになるんだよ。だから俺は、人はきちんと遊べるようになる必要があると思ってる。小さいときからとにかく遊ぶことが大切だと思うね。それができていないと、隷従したがる人間ができあがってしまう。
『社会の抜け道』 古市憲寿、國分功一郎 - moonshine
ヒマの大切さをこよなく愛するヒマラーな私としては、その背後にある論をたっぷり読めて、あらためてヒマの世界の奥深さを思いました。ものを考えるにはヒマが必要なのです。考えなくなれば人は…。
地図を作ったやつの ゆとり
なみたいていのものではあるまい
うるう年に気づいたやつの ヒマさかげんを想像してみろ今の人がヒマを受け容れることが できなくなりつつあるなら
それは能力の減退だ
減退はいかん くいとめるのだ
ヒマ人どもよ立ち上がるときだ
ヒマを見つけて ヒマを知れ
ヒマを生き抜く強さをもて一生 棒にふるくらいの
ヒマとゆとりをもって進もう
人の数だけ ヒマはあるのだ
それこそあたりまえのことなのだスチャダラパー『ヒマの過ごし方』