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『ろばの子 ~昔話からのメッセージ』

 

ろばの子―昔話からのメッセージ

ろばの子―昔話からのメッセージ

 

 

どんぐり文庫の梶田さんにお借りした本。今年1月に、筆者・小澤俊夫の講演を聞く機会があったことをお話すると、「これを読んでみませんか?」とおすすめいただいた。子どもたちが思春期のころ、梶田さんがとても励まされ、支えにした本だという。

まえがきやプロローグがすごく面白い本って、ほぼ間違いなく本文が面白いんだけど、本書も例に違わず。

日本の昔話といえば、「こぶとりじじい」とか「はなさかじじい」とか、とかく「爺」の印象がある。主人公は正直者の良いおじいさん、隣に住むのは強欲で悪いおじいさんで、最後には悪いおじいさんは痛い目にあう。明治以降、道徳的教訓を得られるものとして教科書への採用も多かったので、代表的な昔話として認識されるに至ったが、「とんでもない」と筆者は言う。

この種の「隣の爺」型の話はほんの一部で、昔話にはもっと広大で奥深い世界が広がっているというのだ。筆者がすすめるのは、「変化する若者」を語る昔話である(「隣の爺」型の昔話は、「良い爺」「悪い爺」と最初から最後までパーソナリティが変わらないものだ)。

昔話は口承で伝えられてきた。老人が孫ほどの小さい子に囲炉裏端で聞かせる。自分が子どもの時に聞いた話で面白かったものを覚えていて語るわけだが、そこには、彼が「聞き手」から「語り手」になるまでの長い人生での経験や、人間観察も込められていただろう。鼻たれ小僧・悪たれ小僧が10年後にはまじめに働く若者になり、立派な父親になる姿も見てきただろう。

社会的道徳よりももっと根本的な、「人が育つとはどういうことか」「人は人生をどのように歩いていくか」という人間観は、かつては昔話によって、年長者から口承で伝えられてきた。核家族化・個人化がすすむ現代社会では、そのような子どもについての知恵の伝承は激減している。昔の人が子どもを・若者をどう見ていたか? 昔話から見ていこう、と筆者は呼びかける。


以降、本文では古今東西の昔話が取り上げられる。表題にもなっている「ろばの子」は、筆者のもともとの専門、ドイツのメルヘンから。

「子どものいない国王夫妻についに授かったのは、人間ではなくろばの子だった」という奇想天外な始まり。熱望して授かった子は標準的ではなかったが大事に育てる、というのは、日本にも「たにし息子」「へび息子」などある通り、世界中で見られる型である。親は子にいろいろな期待をするものだけれども大抵それは外れる、それでも愛情を持って育てていくことの隠喩だという。

ろばの子はあるとき、水に映った自分の姿を見て「自分は ろばなんだ」と気づき、悲しんで旅立つ。これまでは自分中心の世界に甘んじていたのが、あるとき自我に芽生えたり、客観的なものさしで自己を見たりして、焦ったり悩んだりする。思春期の姿である。気づいてしまった少年は広い世界にひとり、出ていくしかない。ここで、「小さいときにたっぷり愛されて育ってきたから、危機に際してひとりで立ち向かっていける」大切さを筆者は強調する。

他国に着いたろばの子は、いくつかの経緯の末、その国の王女と結婚する。その国の王も王女も、「ろばが姫の夫なんて」と嘆くが、王女と2人きりで寝室に入ったろばの子は、なんとろばの皮を脱ぐのだ! 出てきたのは美しい王子だった。王女は心から王子を好きになり、キスをする。

これは間違っても「人は見た目で判断される」という隠喩ではなく(笑)、「一見、ひどい姿をしているが、内面は美しい」という世間一般の若者の姿そのものだという。普段はちゃらんぽらんしたり、大人に心配をかけ世間に非難されるような若者でも、本当は内面に美しさをいろいろ持っている。若者自身も、自分に自信がない。あるとき、やっとの思いで本当の自分を表す。

王女と一夜を過ごしたろばの子は、それでもまだ揺れ動いている。ろばの皮をかぶったほうが安心ではないかと。それで、皮を探すが、どこにも見当たらない。狼狽したろばの子は(シャレか)「ここから逃げなければ」と出て行こうとする。そこに来たのが王女の父の王さま。「おい、そんなに急いでどこに行くんだ。おまえは、そんなにも美しい若者だ。去ってはいけない」。体や“なり”は大人になっていても、まだ自信のない若者たちは、こういわれると安心して本来の美しい姿でいられる。大人を信頼して、社会の中に入っていく。


ほかにも、「揺れ動きながら成長する」シンデレラや、「ようやく起きて知恵を働かせる」三年寝太郎や、「失敗を繰り返す」白雪姫、「段階をふんで成長する」わらしべ長者などが紹介される。

最後に紹介されるのは、「かにのふんどし」で、章題には「愚か者を受け入れる社会」とある。昔は、弱い人や、人より劣るとされた人への差別は今と比べ物にならないくらい激しい面もあった。でも一方で、だからこそ、弱い人を優しく見守り、差別された人を仲間みんなで守ってやるような気風もあり、それが昔話に表れているという。

筆者は言う。現代は資本主義社会で、教育についてすら効率主義がはびこっている。小学生への全国一斉テスト。成績の良い学校への補助金優遇。ひとりの子が、かけがえのない人生を踏み出していくことに対する思いやりがそこにあるか? 国家として役に立つ子どもとそうでない子を選別し、順番に並べるような冷たい所業じゃないか?と。

講演でも言っていた、筆者独自の「三年寝太郎」理論(笑)。若いときは誰も眠くてしょうがない。自分に自信もない。慣れたあたたかい布団の中で、ぬくぬくだらだらしたいもの。みんなそうだったけれど、人間はその時期を卒業すると忘れてしまう。自分はだらだらしてたことなんてないよ、という顔をして、子どもに「勉強しなさい」「しっかりしなさい」と言う。

個人がそうやって忘れてしまったことを、昔話は覚えている。それは「人類の集合的な記憶」であるという。一時期、永遠に寝ているんじゃないかと思われた若者が、いつかは起きて動き出す。知恵を働かせ出す。「大丈夫、人間、そんなものだよ」と昔話は言っている。

けれど今の若者たちは、寝たい時期に寝かせてもらえないまま大人になっているのでは? それは歪つなことでは?

社会にはルールが必要だ。けれど人は、時にルール違反をし、道徳的に逸脱する。怠けたい気持ち、ずる賢い気持ちもある。そういうものを大目に見る、ゆったりとした人生観が昔話には残されている。

・・・とはいえ、本文中で紹介された「白雪姫」や「シンデレラ」「桃太郎」にも見られる通り、筆者が「これがこのお話の肝」とする原作の部分が、いろいろと削除されたり改訂されたりして現代に伝わっていることも多い。口承ではなく文字で、また、挿絵をつけて伝承されるようになる過程で、お話が本来もっていたメッセージよりも別の何かが優先されてきたのだろう。それは、昔話に限らず、社会のいろいろな面で見られるところなのだろうと思う。より迅速に、より効率的に、より商業的に・・・。

筆者は大学を定年退職し、1998年に「小澤昔ばなし研究所」を設立して、昔ばなしの研究・出版・講演などを今も精力的に続けている。私が行った講演も満席御礼だった。ますます息苦しくなっているような気のする社会で、寛容や長期的視点を大切にするアプローチが一部とはいえ長く強く支持されているのは小さな希望だと思う。

そして、こういう考えをもったお父さんに育てられての、小沢健二なのだなあ、と、高校時代に『小沢健二とスチャダラパーのオールナイトニッポン』第2部(深夜3時から2時間よ!)を録音しながら毎週聴くほどフリークだった人間としてはしみじみせざるを得ないw 講演でも、筆者は子どもたちにせがまれて「おおきなかぶ」を何百回、何千回と読み聞かせていたと言っていた。小沢くん、表立った活動をほとんどしていない時期からもう10年以上? 今も、「小澤昔ばなし研究所」が出している雑誌「子どもと昔話」で連載してるんだよね。

【追記】
私、このログ、2/24に書いたんです。まさかこの1週間後に、小沢くんが19年ぶりのシングルを発表し、あまつさえ生放送で歌うとは!! 人生はわからない。人生はすばらしい。