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『ねじまき鳥クロニクル』 全3部 村上春樹

 

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

 

 

2016年最後に読んだ本。なんと初読。第三部までみっちりと厚く濃い内容だけど、すらすらと読ませるのはさすが人気作家といったところでしょうか。すらすらと読めるけど何だかさっぱりわかんない! なんだかさっぱりわかんないけどすごく面白い!という。

どうして今さら読もうと思ったのかというと、 『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』 がすごく面白かったから。その対談はちょうど「ねじまき鳥」の執筆後に行われたのもあって、この本や、当時の村上さんの心情についていろいろと書いてあるのだ。

「ねじまき鳥」を読み終わって圧倒され言葉が出てこないようなもどかしさから、やはり「河合隼雄に…」のほうも再び開いた。そこには、

村上春樹は、人物造形にしろ展開にしろ、すべてに明確な意味やメッセージがあるような、パズルをピタリと合わせるような作り方はしない。

●「ねじまき鳥クロニクル」は、これまで以上に自分でもわからずに書いた(どうしてこういう行動が出てくるか、それがどういう意味を持つかなど)。

●「ねじまき鳥クロニクル」は、第3のステップ。デビュー後、まずはアフォリズムとデタッチメントがあり、次に物語を語る(ストーリーテリング)の段階があって、第3はコミットメント。

●「手をつなごう」というような形ではなく、井戸を掘って掘って掘っていくと、全くつながるはずのない壁を越えてつながる、そんなコミットメントのありように自分は惹かれている

●日本における個人を追求していくと、歴史にいくしかないんじゃないか

真珠湾だろうがノモンハンだろうが、そういうものは何でも自分の中にあるんだと思う

●日本の社会は、戦争がおわっていろいろつくり直されても、本質的には何も変わってない。自分とは何かをずっとさかのぼっていくと、社会と歴史ということ全体の洗い直しに行きつく

●小説にとってバランスは重要。でも、統合性や整合性、順序は主要ではない

・・・・などのことが書いてある。


ねじまき鳥クロニクル」は、一言で言うなら「妻を取り戻そうとする物語」である(と思う)。その手段として、主人公は枯れた井戸に潜り、そこから「壁抜け」をして妻とつながる。

…と要約すると、頭がおかしい人が書いてるんじゃないかと思われそうなところ、たぶん世界で何百万部も売れてるんですよねw

サブストーリーとして、過去の戦争に関する話が色濃い。満州外蒙古ノモンハン、そしてシベリア。いくつものエピソードが語られる。そこには、身の毛もよだつようなすさまじい暴力や、打ちのめされて起き上がれなくなりそうな不条理がある。

それらをもって戦争の悲惨さを訴え、読者に平和を希求させるのが作家のメッセージかといわれると、なんだか違うと思わせる筆致なのです。戦争を憎んだり反省したりという、いわゆる「反戦」作品とは、どこか一線を画している。

この小説では、歴史の中で発動されてきた「悪」や「暴力」を通じて、人間が普遍的に発揮し得る悪や暴力を描いているような気がする。それは、時代や場所といった環境や条件に関係なく、いつでもどこでも出現する可能性があるのだ、と。それどころか、「誰」が発動するかもわからない。

おそらく、主人公の時代の「綿谷昇」と、過去のエピソードの「皮剥ぎボリス」は対応(相似)しているのだろう。2人は絶対的な悪であり、比類なき暴力を振るう。

そしてその暴力に相対する主人公と、過去エピソードの間宮中尉も対応(相似)する存在なのだと思うが、ここで注目すべきは、主人公と間宮中尉もまた、暴力を振るう側、つまり加害者になる面があるということだ。

主人公は、いかに先にやられて身の危険を感じたとはいえ、ギターの男を過剰防衛なほど殴り、バットで打ちすえるし、間宮中尉は終戦間近の新京の動物園で中国人たちを撲殺させる。それは驚くべき展開で、「河合隼雄に…」の本の中で、村上は英訳を担当する翻訳家に「なぜ主人公にこんなことをさせるのか」と問われたと言っている(自分でもわからないそうだ)。厳密には、動物園の軍人は間宮中尉かどうかわからないが、その不確定さがまた、「誰もが暴力を振るう側になり得る」ことを示唆しているようにも思える。

それら暴力の源は、生来の性質(や民族性)だったり、鬱屈からくる衝動だったり、社会システムに従わざるを得ずやむなくだったり、憎悪の結果だったり、いろいろだ。

いろいろな理由で、いろいろな形で、暴力は顕現する。ふだんは良識的な小市民である私たち自身の体の内にもまた暴力は存在する。その厳然たる真理と私たちは向き合わなければならない。それは「戦争はいけない」「二度と繰り返しません」のようなお題目とはかなり異なった態度だ。「暴力を包含し発動し得る存在としての私たち」から出発する。そのために、時代も場所も主体者も様々に異なる中で、手を変え品を変え、執拗に残酷な描写が繰り返されたのではないかと思う。古今東西の個々の事例を見なければ、その真理は浮かび上がってこないから。

先に引いた「個人を追求していくと歴史にいくしかない」「真珠湾ノモンハンも自分の中にある」という村上発言は、その場では詳しく説明されないのだけれど、この小説を読んで、何となく意味が分かった気がした。やはり、「河合隼雄に・・・」と「ねじまき鳥・・・」は相互補完し合う本としておすすめです(笑)

綿谷昇によって暴力を振るわれた(身の内に眠っていた「悪」を呼び覚まされたともいえるのだろう)クミコを救うためには、綿谷昇を排除するのが速いのだが、主人公はギターの男をめためたに殴った「自らの暴力性」を封印する。それでどうするかというと、枯れた井戸に潜るのだ。

もっとも、最初からその目的で潜ったわけではない。周囲でいろいろなことが起きて打ちのめされたり混乱したりした主人公は、「そうだ、潜ってみよう」という感じでひとり、ふと、井戸を下っていく。最初に読んだときは、「え、おまえも井戸に入るんかい!」と驚かされるのだが、次第に「そうだ、彼が井戸に潜るのは必然だったのだ」と思わせるからやっぱり村上春樹はすごい(笑)。

井戸の底に一瞬刺した強烈な光に間宮中尉の心が灼かれたのに対し、笠原メイに梯子を外された主人公は井戸の底の闇から「壁抜け」をしてクミコに近づく。井戸に潜るという行為を「孤独」とか「沈思黙考」と表現してしまうと何だか単純化してしまうようで違和感があるのだけど、当時の村上春樹がめざした「コミットメント」は、シュプレヒコールをあげるとか、扇動や啓蒙といった働きかけとは遠く隔絶していて、論理や表層的な感情からすら離れ、まずは籠もることなのだなあと思った。

真珠湾ノモンハンは自分の中にある」と書いている(「河合隼雄に会いに行く」)。圧倒的な悪や暴力や不条理を含む真珠湾ノモンハン。己が(そして誰かが)包含するそういった「悪」を認知するためには、まずは閉ざして深く深く潜っていかなければならない。人の絶望には「悪」が密接にかかわっていて、それに近づかなければ救うことなどできない。そして悪のすぐ近くには死がある。

主人公にとっては井戸に潜ることだった。笠原メイは山奥のかつら工場に引っ込み、赤坂シナモンは声を失くしたままあらゆる知識や技能を身につけ、膨大な物語を仕込みながら精巧なコンピュータシステムを構築した。加納クレタは意識の娼婦として過ごしたあとやはり井戸に潜る。皆それぞれ、閉ざす。

そして主人公はついに壁を超えてクミコにわずかに手が届き、笠原メイは月光の下で裸身を晒し、赤坂シナモンの「ねじまき鳥」物語は主人公によって発見される。加納クレタは最後の相手に主人公を選ぶ(そして間宮とも…というのが示唆される)。それらはすべて「潜ったあとの壁抜け=コミットメントの成功」を意味してるんだと思う。

その成功はとてもささやかで、クミコは社会的な罪を負い、主人公は待つことしかできない。笠原メイの手紙は主人公に届いていなかったのかもしれない。赤坂シナモンが声を取り戻すのか、彼らのこれからの人生がどうなるのかはわからない。加納クレタは子どもを生んだが、加納マルタは消えた(クレタ=マルタは同一人物だった?)。ワタヤノボルの脅威が去ったのは偶然がきっかけである。

(綿谷昇の昏倒を主人公の“意識での攻撃”が通じた、とまでは解釈できない気が私にはする。ただ、あの偶然がなくても主人公はクミコに手を伸ばすこと=綿谷昇との対峙をずっと諦めなかっただろうと思う。)

私たちは誰もが悪を内包し、それがいつどこで発動してもおかしくない世界に生きている。古今東西、人間はそういうものである。ただ、私たちにある希望は「私たちは己の中のノモンハンシベリアを見つめることによってコミットメントできる」ということなんだろう。今感じているのはそういうことなんだけど、まだまだ消化できておらず、のちのちまで引きずるような作品だなあと思う。