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『海街diary』

映画


多分だけど、この映画を好きになれるかどうかって、幸が「鎌倉に来ない? 私たちと一緒に暮らさない?」と言うシーンで決まってる気がする。時間にしたら、30分もないくらいか。父が浮気相手と家を出て行って産ませた子ども・・・腹違いの妹を、初対面で引き取ることにする。常識的に考えれば、いくらなんでも唐突な「一緒に暮らさない?」と、その返答「行きます!」。これが、ありなのか、なしなのか? その感じ方と、この映画に対する肯定/否定のイメージは一致しそう。

実際、この30分くらいが、2時間を超す映画全体の中で一番ドラマチックなんだよね。ストーリー的には。

家を出た父がどんな生活をしていたのか。3姉妹も、視聴者も、その事情を詳しく知らないままに、父の葬式のため山形の山奥に連れていかれる。

父の浮気相手は父よりも先に亡くなっており、浮気相手の娘が駅まで迎えに来て、3番目の妻が葬儀の場所にいる。衆人環視も目に入らず泣き崩れてばかりの、どこか頼りない父の妻(連れ子あり)*1。それを見るにつけ、悲しみよりも戸惑いが増すばかりの娘たち。憤ったような表情で「行かない」と言ったのにギリギリで葬儀に現れた長女。

不穏でスリリングな展開に固唾をのんでついていきながら、同時にこの姉妹たちにすっかり感情移入しちゃってる。なんたって、男とベッドで寝ている長澤まさみの美しい肢体から始まる映画なのだ。彼女は全編を通して「お色気担当」なんだけど、そこに淫靡さはなく、冒頭のベッドも眩しい朝の光を浴びている。長い脚が押し込まれるぴったりしたジーンズ。紺色のカジュアルなブラジャー。笑顔での投げキッスは真正面から映される。罪のないその様子だけで、佳乃の・・・この映画の虜になっちゃう。

どうやらお酒が大好きなお調子者でもあるらしい彼女と、ほんわかした3女・チカのコンビはいかにも人が良さそうで、そこにキリッと唇を引き結んだ長女・幸が緊張感を与える。喪主の挨拶を忘れ形見のすずにさせようとする父の妻とその叔父にハッキリと言い放たれる「それはいけません。それは大人の仕事です」。マンガ的なセリフだなーとは思うけど、敢えて原作そのまま使ったんじゃないかなと思う。大人としての倫理観というだけでなく、幸個人の人生観が象徴される、印象的な一言。

家族関係や個人のキャラ設定など、さまざまな情報がぎゅうぎゅうに詰まっていて、それらをわかりやすく説明されるのではなく、読み取り感じ取って魅了されたり胸苦しくなったりした30分(ぐらい)の後で、あの「一緒に暮らさない?」がやってくるのだ。

父への怒りからだろうと、自己憐憫に似た憐れみからだろうと、幸がそう言いだしてくれたのがうれしい。戸惑った表情は刹那だけで、あたたかい笑顔で賛成する佳乃とチカがうれしい。父を看取った山形ではなく父と母が恋をした鎌倉を、父の後妻ではなく美しい姉たちを、敢然と「子どもは子どもらしく」という意思を示した幸を、すずが選んでくれてよかった。そう思っちゃったのが、このドラマの良き鑑賞者たるわたくし。

モヤモヤした視界がパーッとひらけたようなカタルシスがある場面なのである。


そこから始まる共同生活は、おおむね穏やかに見える。新しい姉妹は互いに最初から歩み寄ろうとするし、姉妹には学校や職場などそれぞれの世界があり、姉妹ゲンカや、佳乃の恋の顛末などちょっとした事件などの波はあっても、そんな一喜一憂も含めて日常は淡々と流れる。

それでも、澱のように底に溜まっているものがある。昔、幸が使っていた部屋がすずにあてがわれるのが象徴するように、2人は濃くつながり、シンクロする存在。

父を許せない幸が不倫をしている皮肉はいかにも映画的ではあるが、リアルにも感じられる。不倫相手が堤真一で、事前情報持ってなかったのでびっくらこいた。父の葬儀の件で幸に親身な対応をしたらしいあたり、「優しく信頼できる男」として登場する小児科医。けれど「今度食事しよう」の食事場所は、男のマンション。是枝&堤は不倫男をさすがにうまいこと表現する。そしてこの不倫の発覚によって、見る側は、幸の亡父に対する怒りは、今「優しいけどずるい男」を許している自分にも向けられているのだろうと推測する。

大叔母として登場する樹木希林が、多少鬱陶しいけれど至極「世間一般」な意見を言う役どころなのはユニーク。「ひと一人育てるって、犬や猫とは違うのよ。あの子はあなたたちの家庭を壊した人の娘なのよ」。その“大船の叔母さん”の言葉を「それは私たちには関係ない」と突っぱねながらも、父に続いて家を出て行った母には怒りを爆発させる幸。チカいわく「いざとなったら結束する姉2人」はそれだけ互いをよく知っているということで、佳乃は幸の生活ぶりとすずを引き取ったことをを「お母さんにちゃんとやってるってこと見せたいんでしょ、ほとんど意地じゃん」と厳しく糾弾する。

それを聞いているすず。「お母さんよくないよね、奥さんのいる人を好きになるなんて…」。親を許せないと思うつらさを幸が一番よく知っている。親のことは誰のせいでもないのに。けれどじゃあ、今の自分のしていることは? 幸の怒りや憤りは結局すべて自分に返ってくる構造になっている。

佳乃と母とのペディキュアの思い出、父をほとんど覚えていないチカ。姉妹それぞれに親との固有の思い出がある(思い出がない、という思い出も含めて)。話す方も聞く方も穏やかだけれど、そこで語られない、共有できない気持ちがあることを感じさせる撮り方。

姉の不倫を知って怒りに我を忘れる佳乃をすずが止める。「お姉ちゃんを傷つけちゃったかも」すずは幸を責めず、その悲しみを慮る。しっかりしている、抱え込む、幸とすずのシンクロ。けれどここですずは姉たちと分かち合おうとする。時間の流れは少しずつ人を事態を動かしてゆく。それは母と幸とのささやかな和解と、再びの別れであったり。少しずつではなく急速に事態を動かす場合もある。食堂のおばちゃんの命を奪っていくように。

2時間あまりの中で都合3度の法事がある映画。海の街のブルーっぽい画面に喪服たち。彩度ゼロの黒をまとう美しい姉妹の姿は映画を見る者たちの胸をざわめかせずにはいられない。けれど死や法事は禍々しいものではなく、出会いや再会のきっかけにもなる。命が宝物であることを自覚させてもくれる。

桜のトンネル。すずは空を仰ぎ、やがて目を閉じる。美しい花を見るだけではなく、全身で感じるように。最後の花見を思い出して死者を眼裏に描くように。幸は、恋人の「死ぬとわかっている人を見続けるのはつらい」という助言を退けて、緩和病棟に勤めることを決める。その決断までには、能力が低いと思っていた同僚が、心を込めて死者を送り出す姿を見て「私、人のイヤなところばかり見ているのかも」という気づきもある。「子ども時代を奪われた」ことによる屈折の自覚。「ずるいけど優しい男」と別れて、死を間近にした人と誠実に向き合おうとするのが、彼女の前進なのである。

しらすトーストの思い出に絡めて、男友だちに「お姉ちゃんたちにお父さんのことは話しにくい」と言ったすず。そうだよね、すずは姉たちの知らない父の姿をたくさん知っているんだもんね、と頷きながら見ていた。やがて海をはるかに見下ろしたすずが「お母さんのバカ! もっと一緒にいたかったのに・・・」と叫んだとき、「そうだ、父のことよりももっと話しにくいのはお母さんのことだよね、と思い至り、すずの抱えるものの重さに涙が出た。聞かされた幸もたまらなくなって、「すずはここにいていいんだよ」と抱きかかえる。

すずが叫んだ「もっと一緒にいたかったのに」は、それより先に「お父さんのバカ!」と叫んだ幸が続けられなかった言葉を代弁したものかもしれない。幸とすずとのシンクロ。

寄せては返す波のように、どんな喜びや悲しみの場面にも立ち止まらず淡々と描く。シラス丼、梅酒、アジフライ、チクワカレー。食べ物を共有しながら、いつかその先に死があることを感じさせる。砂浜(海は彼岸を連想させるものでもある)で「死ぬ前に思い浮かべるのは何だろう?」と話す姉妹たち。死を思いながら生き、生きる日々に見つける宝物たちを愛おしむ。どんな日もダイアリーの1ページで、それを死ぬまで繰り返していくのが人生なんだな、と思わされる映画だった。

 

*1:ちなみに、最近、私が見る作品で、こういう“わけありな人妻”の過半数は中村優子が演じているように思うのだが笑